第四章 出立 その4
五
出発の日になった。
結局、白色の印綬の手がかりは見つからなかったそうだ。無論、見つかるわけもない。そう言えば、ヴァンランを駅で見かけることもなかった。別れ際にイチローに尋ねると、インターンシップで上海近郊の蘇州に赴いているとのことだった。
旅行する時の恒例で、俺は必要以上の荷物を詰めた必要以上にでかい、あかりの荷物の運び役となった。長期旅行のため、さらに重量の増したスーツケースを持つのに転げそうになりながら、何が入ってんだよ、と階段を颯爽と駆け降りるあかりに向かって唸ると、あかりは、じゃああんたのには何が入ってんのよ、と平時の大きさを保っている俺のリュックサックを指差した。お前、三食ごとに服着替えてんだろと言ってやろうと思ったが、身の安全保障のために自重した。
駅へはバスで向かった。もちろん、復旦大学の下に駅があることは公にされていないので、向かうのは上海南京路駅だ。繁華街の真ん中に大型バスが来たものだから、観光客やタクシードライバーも辟易した様子だった。
「本当に、この下に駅があるの?」
「普通、思わないよな?」ムヨンの言葉に俺はそう返した。
「その階段降りたらパスポート要りますから、忘れないようにしてください。」
院生の一人が言った。
俺は周囲を見回した。バスを降りてしばらく、ここは南京路の歩行者天国。行き交う人の波の上に浮かんだ黄色いMの文字に、俺はこの光景がいつも「隔離病棟」から眺めていたものだと気づく。ようやく自由になれたのだ。吸う空気が、快く、胸にしみ渡る。
店の並ぶ通りに、肩身せまく「MMF NANJINGLU STACIO」という標識が掲げられていた。裏社会のような狭い階段を一列になって降りていくと(荷物運びには過酷な五十段だった)、切符売り場へ続くエレベーターに出会った。それに乗って地下へ降りていくと、あの喧騒のもとに俺は帰ってきた。
「出国手続」と「入国審査」を同時に済ませ、俺はあかりのスーツケースを転がしながら十六番線へ向かった。援蒋ルート北西線下り。当駅始発、特急バイフー八〇号西安行きの、三等車だ。ホームに着くと、白い車体に銀の帯を走らせた特急車両が、呼吸を整え出立の時間を待っていた。駅員が快くスーツケースを引き受け、近未来的な車両の中へ運んでいく。院生たちに続いて俺も乗り込もうとすると、不意に誰かに背中を叩かれた。振り向くと、
「遅くなって、ごめん。」
イチローだった。
「僕もチャンも結局代わってもらえなくて、だめだったんだよ。チャンは別の仕事でもう上海にはいないんだ。宜しく伝えておいてくれって。僕からもね。」
「・・無理しなくて良かったのに。」俺はそう言ったが、イチローやチャンの心づかいが嬉しかった。その嬉しさがかえって、これで最後の別れなんだということを実感させた。
「・・ワンさんは?」
「呼びに行きたかったけど、時間がなくてさ。僕、蘇州から杭州行きの列車の運転でここまで来て、あと五分で出発なんだ。だから、時間がないから、もうこれくらいにするね。」
「そうか。いろいろありがとう。」
「これ、持っていきなよ。」イチローが俺の胸元に押し込んだのは、両手いっぱいの菓子袋だった。「カロリーオフだから、気にしないで。何も言わずに取っておいてよ。」
「・・何から何まで、ごめんな。」
「謝るなよ、水臭い。友達だろう?」イチローは笑って。「また中国に来る時は、ぜひうちの会社を利用してよ。」
「もちろん。」駅員が俺に早く乗るよう催促したので、急いで乗り込んで。
「じゃあな。」
車内ではムヨンとあかりが俺を待ってくれていた。
「お世話になった人?」
「まあ、うん、そうだよ。」ムヨンの言葉に、俺は適当に返事をしながら、イチローに手を振った。イチローは手を振り返すと、杭州方面の向かいのホームへと大急ぎで歩道橋を渡って行った。
あかりは黙っていた。
車内は、外から見るよりも奥行きがあり、汗の滲む体には快い冷風が、木目の美しい壁の芳香を運んできた。ヨーロッパの最新鋭の特急車両を思わせる外観とは対照的に、内装はレトロで落ち着いた印象を与えた。
「すごいよな。」ムヨンが振り返って言った。「これで本当に三等車なのか?」
通路を渡り、客室に入る。俺はムヨンと同室だった。あかりは隣の部屋である。うちの大学で、この一両は占拠しているようだった。朝なので寝台はしまわれており、幅広で柔らかい座席に、ムヨンと俺は向かいになって座った。電灯をつけ、イチローにもらった菓子類を机に並べていると、窓の向こうから鋭い笛の音が聞こえた。そして、車窓の駅は音もなく動き始めた。
歩道橋を過ぎ、何本もある柱が去り、列車は徐々に速度を上げていく。イチローの運転する下りの列車は既に無く、向かいのホームは次の特急を待つ乗客であふれかえっていた。
不意に俺は、流れる景色の中の一部に目が止まった。乗客の歩く流れに逆らい、艶やかな長い黒髪をたゆたわせて歩く一人の女性がいた。あてもなくさまように、いや、捜す相手が見つからないで迷っているかのように顔を揺らしながら歩く、一人の女性がいた。
その人がワンさんだと俺が認めるや、列車は唸り声を上げた。一瞬にして景色は闇へと変わってしまった。
列車の唸り声が途切れ、手許が一瞬にして日光に照らされた。地上へ出た列車は坂を上がり続け、立体交差する高速道路と肩を並べると、平坦な高架を快走しながら摩天楼の並ぶ大都会を見下ろすことになった。景色の移り変わり方は、俺が初めてこの町に列車で来たときの巻き戻しだった。暫くムヨンと俺は二人して車窓を滑る町並みを黙って目で追っていたが、じきにムヨンの方から、何か飲もうか、と缶コーヒーを二本取り出してきた。
「中国は、初めて?」
「うん。」ムヨンは、と俺は尋ねた。
「二、三回かな。二回は家族旅行、もう一回は語学留学。殆ど遊学みたいな感じだったけど。」
パチンと、缶のフタが景気良い音を立てて空いた。
「韓国には来たことある?」
「今回初めて海を越えたんだよ。」
俺の言葉に、ムヨンは大きく溜息をもらした。
「留学もせずにここまで上達するなんて・・。あと何ヵ国語話せるの?」
「その話なんだけど・・・」
いつか言わねばと思っていたので、俺はムヨンに、理由は定かでないが、と前置きをしてから、とにかく自分は何語でも会話ならできるらしいということを説明した。話し終わる頃には、列車は最初の駅に到着していた。
ムヨンはあかりよりも偏見なく俺の話を興味深そうに聴いてくれた。重ねた手の上に口を載せ、眉を寄せて暫く黙ってから、徐にムヨンは口を開いた。
「・・不思議なことも、あるんだな。」
「あの、別に、嘘だと思うなら、信じなくていいからさ。」
「そんなこと言ったって、龍也は何語でも話せるんだろう?理由はまだ見つからなくても、実際そうなんだから、それは事実として受け止めるべきだよ。」
ムヨンは理屈っぽく話した。「それに、それってすごくうらやましい能力じゃないか。」
俺は、はあ、と生返事をして、コーヒーを口にした。
「ところで――」
「何?」
「あの、印綬の話。あれ以来ムヨンから聞いていないけど、もしかして、先生の発見した重大な遺物って・・・」
「そういえば、忘れていたね。」ムヨンは笑って。「そうだよ。話せば長くなるけれど――」
「大丈夫。」
ムヨンは缶コーヒーをテーブルに置いてから、説明を始めた。
「先生の発見された印綬というのは、白、赤、黒、そして四つの印章に、紫の綬のついたものなんだ。綬の色や印章に彫られた動物は、渡される人やその人の地位によって異なるけれど、これは官僚制度が発達してくる秦や漢の時代に見られるものなんだ。」
「それじゃあ・・夏王朝とは関係がないんじゃないか?」
「そう思うだろう?」ムヨンは続けた。「実は、刻まれた文字が関係しているんだ。」
「文字。」
「漢字は古く殷の時代にまで遡るんだけれど、その印章に刻まれた文字は、それよりも明らかに古い時代の文字を示しているように見えるんだ。」
「・・つまり、中国で一番古い文字、ってことか?」
「その上、その紐は年代鑑定でほぼ紀元前二〇七〇年。つまり、後の時代に作られたレプリカとも言えない。」
「随分と正確な年代が出せるんだな・・」
「紀元前二〇七〇年は、中国側が公式に定めた夏王朝の始まりと一致している。禹が、王都の陽城で夏王朝の初代の王として即位した頃なんだ。しかも、保存状態は非常に良くて、率直に言って昨日作ったと言われても納得してしまうくらいなんだよ。」
「そんなに・・・」何となく嫌な感じがしてきた。
「ただ、先生のおっしゃるには、あとは黄色の印章があるにちがいないそうなんだ。東西南北に、青、白、赤、黒を当てると、あとは皇帝を示す黄色があるんじゃないかって。」
「そのさ・・」「鴨舌」というつまみを食べながら俺は慎重に尋ねた。「その印綬に、何か別の名前とかはあるの?」
「名前?」ムヨンは怪訝そうに俺を見て。「・・ああ、名前じゃないけれど、一つ特徴があるよ。」
「それは・・」
「四つの印章のうち、二つは陰刻、もう二つは陽刻なんだ。」
「何、それ?」
「つまり――」手、出してくれる?とムヨンが言ったので、俺は鴨舌を持っていない方の手を差し出した。ムヨンは俺の手首を握ると、もう一方の手をグーの形にして、俺の手の平に置いた。「陰刻っていうのは・・・俺の手が印章で龍也の手が粘土だとすると、こうやって押しつけたとき――文字が浮き上がって粘土に残るんだ。」
「・・なるほど。印章に刻まれた文字の部分が凹んでいるのか。」
「うん。発見されている古い印章には、麺棒のようにくるくる回して印をつけたりするものもあるけれど、多くは陰刻なんだ。昔は竹簡に粘土を塗って、そこに印章を押しつけていたんだよ。陽刻は時代が下ってから登場するもので、文字の部分が突き出ているんだけれど、これは今のハンコと同じものだよ。」
「最古の王朝の遺物なのに、陰刻も陽刻もあるんだな。」
「だから他の多くの研究者は疑っているんだよ。・・そうだ、名前と言えば、先生は陰刻の印綬を『陰綬』、陽刻の印綬を『陽綬』って呼んでいるね。」
俺は思わず出した手を引っ込めてしまった。俺の顔を見て、ムヨンは不思議そうな表情を浮かべた。俺は引っ込めた手で缶コーヒーを握り、なんとか辻褄を合せようとした。どうしたんだ、と言うムヨンに対して、俺は缶コーヒーを急いで飲み干すと、ちょっと手洗いに行ってくる、と言って立ち上がった。頭の整理がしたかったのだ。ムヨンの返事を待たずに俺は急いで扉を開け、そっと閉めた。
妙な行動には思われなかったか。動揺はあからさまだったはずだ。頭を垂れながら、やれどうしたものかと、木の香りのする通路を歩いていると、前から来た白ズボンの人に肩を叩かれた。
顔を上げると、
「また会えたね。」
「・・・タイガーさん・・。」
ヴァンランは白い半そでの上着に水色のTシャツ、白ズボンと、見るからに涼しげな格好で、爽やかな笑みを浮かべていた。頭にはあの白いパナマ帽が行儀よく載っていた。
「ここの食堂車は旨いよ。上手いし、旨い。タツナリも行ってごらんよ。」
「あの、タイガーさん・・」マイペースなヴァンランに、憚りながらも俺は尋ねた。
「ここで何をされているんですか?」
「何って、インターンシップが終わったから、骨休めに中国を旅しようと思ってさ。」
「・・本当にそうなんですか?」
「タツナリ君は冗談が通じないな。」ヴァンランは肩をすくめて。「無理言って仕事を抜け出してきたんだよ。俺に何も言わずに使徒の君が動き始めるからさ。」
『使徒』の言葉に、俺は思わず周囲に目を配った。通路には誰もいなかったし、ヴァンランと俺の話す言葉は俺たち以外には理解できないことを思い出し、少し安心した。
「あの、タイガーさん。俺、何で自分が中国に来たのか思い出したんです。」
「えっ、本当かい?それは良かった。」ヴァンランは心のこもった笑みを浮かべた。
「それで・・・突然なんですけど。」俺は声を落として、ヴァンランの耳元で囁いた。「その、タイガーさんの持っていた白い印綬って・・・」
「大学から失敬してきたんだよ。それが?」
客車の窓は俺の蒼い顔を映した。
「仕方ないよ。ツバメの任務を全うするには必要なんだもの。」
「それは分かっているんですが・・・」嫌な予感がして俺は続けて尋ねた。「その印綬が、古代王朝の宮殿をつきとめる最大の手掛かりになっていること、ご存知ですか?」
「え?」ヴァンランが切れ長の目を大きく見開いたのを見て、俺はかえって安心した。
「ですからきっとタイガーさんの持っている印綬は別物で・・・」
「それ、誰かが言ってたなあ。うちのお客さんで。誰から聞いたの、その話?」
今度は俺が呆れた顔をした。「誰って・・・俺の大学の先生が・・」
「あー、ナンジョウさんとかいう日本人?そうだ、そうだ。」
「・・どうして知っていらっしゃるんですか・・」
「確かあの人たち、途中駅で学生を一人見失ったとか大騒ぎしていたよ・・・あ。」
ヴァンランさんは口を開けたまま、ようやく全てを悟った目で俺を見た。「それが、君。」
「ご存じなら、どうして・・」
「一つ言っておくよ、タツナリ君。」ヴァンランは細く整った人差し指を口元に当てて。「今僕たちは、歴史的ピンチに直面しているんだ。」
「タイガーさんが言うと、とてもピンチに聞こえません。」
「・・・言うねえ、タツナリ君は。こう見えても僕は繊細なんだよ。」
ヴァンランはそう言ってすねたように肩をすくめてみせた。
「まあ、聴きますよ。歴史的ピンチがどうとかいう・・・」
どうせ嫌でも聴かなければいけないのだろうから。
「お心遣いどうも。」ヴァンランは言った。「タツナリ君、君に先代の話はしたことがあったっけ?」
「いえ、無かったと思いますが。」
「分かった。じゃあそこから話を始めようとするか。」
ヴァンランは白い背中を澄んだ窓ガラスにもたれかからせ、流れるように細い指をしなやかに動かしつつ、俺に次の話をしてくれた。
「僕たちの先代、つまり前回の燕五使徒の召集がかかったのは、今から大体七十年くらい前のことなんだ。その当時も、今回のように、五つの印綬にそれぞれ使徒が一人ずつ割り当てられ、危機が現実のものとなる前に、五人の力で空きかけた神宮の扉の封印を再びかけ直すことを実行に移そうとしていたんだ。だけど――」
「・・何かあったんですか?」
「先代は、大きな失敗を犯したんだ。」
「というと。」
「使徒は現場に四人しか集まらなかった。しかも残りの一人が、封印の仕上げ作業に必要な、使徒のまとめ役である黄の玉璽の継承者だったんだ。」
ヴァンランの投げかけてくる冷たく暗い視線に、俺はただぼんやりとした顔を合わせるだけだった。
「それって・・・やばいんですか?」
「やばいとかそういう次元じゃないよ。せっかく使徒が集まったのに、封印をすることができなかったんだ。つまり、危機が目前に迫っているにも関わらず、神宮の扉は開け放たれたまま放っておかれることになったんだよ。」ヴァンランは言った。「この意味が分かるかい?」
俺は素直に首を横に振った。
「世界の破滅さ。」
短い音数では支えきれない重みのある意味を持っている言葉も、ヴァンランの飄々とした口調に乗ると、どうも現実味をそぎ落とされてしまう。俺は道化師にもてあそばれているような気がした。
「世界の、破滅・・・。」
「この世の中は何度かこの手の破滅を経験しているんだよ。おそらくタツナリ君にはピンとこないだろうし、僕も先代から伝え聞いただけだから実感はできない。けれども、何度か世界は振り出しに戻されているんだ。神の怒りに触れて。今まであった文化も文明も、神宮に汚れた脚の踏み入れたその瞬間、リセットされ、歴史の上からなかったことにされる。それだけ強い力の前に人間は脅かされているんだ。その怒りの記憶は、印綬を持っているものだけが知ることが出来る。」
「・・・ということは、この世界は七十年前に作り変えられたってことなんですか?」
話を本気で聴くことに俺は疲れてきて、適当にヴァンランに尋ねてみた。
「実はそうじゃないんだ。」ヴァンランは言った。「七十年前、黄の玉璽の持ち主のいないまま、封印は新たにかけられることなく放置されてはいたものの、本当に幸いなことに、誰の目にも触れることはなく、やがて風の運んできた土に埋もれて自然と消えて行ったんだ。ただしこれは本当に貴重な例だ。めったに起こることじゃない。」
「・・それにしても、黄の玉璽の持ち主は、どうして現場に現れなかったのでしょうか。」
「それは僕だって知りたいよ。だけど、一応の予想は立っているけどね。」
俺はヴァンランを見上げた。
「つまり、黄の玉璽の持ち主の身に何かが起こって、任務を果たすことができなかった。あるいは、時間に間に合わなかった。そのどちらかだね。」
「間に合わなかったっていっても、印綬の使い手は任務を果たすまではその任務を解かれない、とかいうことはないんですか?間に合わなかったなら、暫く間を空けてからすればいい話だし・・。」
「確かに、タツナリ君の言う通りだ。先代の話によると、使徒たちは任務を遂行するまでは古典語を不自由なく使える能力を得られるし、さらにどんな病気にもかからないし、何より重要なのは、任務を全うするまでは、死なないんだ。というか、死ねない。それで任務が遂行すれば、使徒であった時の記憶は一切忘れて、再びもとの日常に戻る。ただ、仮に使徒の最中に致命傷に当たった時は、日常に戻ることなく、任務を解かれたと同時にこの世から消えてしまうということもあるらしいんだ。」
「・・・ということは・・?」
「黄の玉璽の持ち主は、任務を果たさない限りはどんなことがあっても死なないから、この世のどこかに必ずいる。ただ、来るべき時に、来るべき場所に来れなかった。そしてその人物を遺して、一応自分たちの印綬の文の封印を果たした他の使徒たちは、それぞれ次の後継者を選ぶことになったんだ。」
「肝心の黄の玉璽は継承されなかった・・・?」
「おそらく。」ヴァンランは頷いて。「ただ、ここでさらに厄介なことが起こったんだ。何せ任務は不完全に終わったから、任務終了の合図である記憶喪失も不完全なままに終わってしまったらしい。つまり、先代の使徒の多くは、後継者決めをして任務から退いた後も、当時の使徒としての記憶を持って生き続けてしまったんだ。」
「・・タイガーさんが話を聞いた先代の方も?」
「ふつうは、先代の使徒は後継者としか話をすることができないし、他の使徒に関する記憶は一切失われているんだ。なのに、僕の先代は、自分以外の使徒がどんな人物で、どういう行動をとったのかということを、まだおぼろげながら覚えている。残念なことに名前は忘れてしまってはいる。ただね、これでも充分危険性は高いんだよ。どうしてか分かるかい?」
「・・・その、使徒の誰かが何かの拍子に、印綬のことを他人に話してしまう可能性があるっていうことですか?」
「その通り。」ヴァンランは言った。「本来はただの伝説にすぎなかった印綬と燕五使徒の実在が発覚すると、その印綬の持つ力――世界を統べる力――に魅了された野心家が黙ってはいないだろう。何とかして先代から印綬の後継者を探り当てて、その後継者に圧力をかけ、その印綬のありかを突き止める。充分考えられる話だ。」
「ちょっと待ってください。」俺はようやくヴァンランの話に焦り始めた。「それって・・・俺たちが狙われているってことですか?」
「ようやく気付いたのかい。」ヴァンランはきょとんとして答えた。「だから歴史的ピンチに直面しているって言ったのに。」
「今、つまり俺たちの代に神宮が使徒以外のものに踏み荒らされたら、つまり世界は、つまり・・破滅するってことなんですよね。」
「そうだね。」
軽く言わないでほしい。
「タツナリ君は、旧約聖書のバベルの塔の話は知っているよね?」
「いきなり何なんですか。」
「あの話――実は本当の話なんだけど、バベル以前の文明って、今の時代よりも相当進んでいたらしいんだよ。バベルの塔も、挿絵で見られるような古代風の塔ではなくて、鉄筋よりも頑丈な素材で作られた超現代的な高層建築で、彼らは地上から天までノンストップで百人余りを運べるエレベーターを建設中だったのかなんだとか、とにかく、歴史の塗り替えられた今となってはただの荒唐無稽な夢物語にしか聞こえないけれど、確かにそんな時代があったらしいんだ。だけど、今はそんな建物はどこにも存在しない。なぜ?簡単だ。あまりに人間が天を軽視するようになったため、戒めとして神が人々の記憶を奪ってしまったんだ。瞬時に、文明の栄えた都はただの荒野に変わってしまった。これが最初の世界の破滅と呼ばれているものだ。」
「その話も、先代から聴いたんですか・・・?」
「そうだね。これは使徒に代々伝えられていくエピソードだよ。恐怖を植えつけて任務の遂行に心を向けさせる、一種の教化みたいなものだけどね。」
俺は向かいの木目の扉に目を移し、ふう、とたまった悪い息を吐き出した。俺のなで肩に世界がかかっているとは。随分と御大層な話だ。今の話も特に説得力があるとは言えない。もといヴァンランの口ぶりには、どこか「危機的状況」を楽しむような、そんな余裕すら見受けられるのだ。
それでも、俺は、この男の話を破顔一笑して無視してしまう自信がなかった。俺には説明できないことが周囲でいくつも起きているのだ。俺が世界中の言語を話せることだってそうだ。全ての事象に論理が通用するわけではない。この男が言っていることはめちゃくちゃに感じでも、その数パーセントでも真実の核心に近いことに触れているところがあるのなら、それは無視してはいけない気がする。なぜなら、ヴァンランの話の内容は、数パーセントでもとてつもない脅威となる可能性をはらんでいるものだからだ。世界の破滅という。
「それで・・・このことを、南条先生は知っていると思いますか?」
俺はためらいがちに顔を上げた。
「おそらく、知らないだろうね。」ヴァンランはきっぱりと答えた。「彼が持っている印綬は、僕たちの求める燕五使徒の印綬であることには間違いないけれど、彼はただ偶然に見つけたと考えるのが普通だろうね。なぜかというと・・・」
ヴァンランは窓辺から体を起こし、俺の方を振り向いて言った。
「今さっき言ったように、先代の任務は不完全に終わってしまったために、印綬自体もしっかりと僕たちの世代に受け継がれているわけではないんだ。僕だって、先代にお会いしたことはお会いしたんだけれど、当の印綬は上海博物館の中にあると言われただけでね。だから、この前、こっそりそれを失敬してきたんだよ。」
「どう考えても大事になっていますけどね。」
俺は目を細めて俺より背の高いヴァンランを睨んだ。
「それで、他の印綬はどうなんですか?」
「それを知っていたら、もう僕たちは別の仲間たちに会っているじゃないか。」ヴァンランは白い歯を見せて莞爾と笑った。「ただね、先代の話だと、おそらく印綬は、その使い手の意思に反して、一か所に集められている可能性があるっていうことさ。」
「一か所ですか?」俺は眉をひそめた。「それって・・・どこなんですか?」
列車の車窓は既に畑の広がるのどかな風景に変わっていた。ヴァンランは、短く、特徴のある穏やかな声で言った。
「タツナリ君が来たところだよ。」
俺は怪訝そうに。
「・・・京都、ですか?」
ヴァンランは満足そうに頷いて。「これで、つながるだろう?南条先生がどうして印綬を持っているのか。」
「・・・ちょっと待ってください。」俺は急いで言った。「さっき、五人の使徒の中で一人が神宮の封印を解く場所に来なかったって話していましたよね?その人の印綬も京都にあるってことなんですか?」
「おっと。少し待って。」
ヴァンランの声と同時に、俺は顔を車両の連結部の扉へ向けた。聞き耳を立てていた人間と目があった。内容を聞かれていたというだけでなく、その人間が誰かに気づいたために、俺は背中に寒気を感じた。
あかりだった。
「あ・・・・」どう言い出すべきだろう。今の話をあかりは聞いていたのだろうか。問いただすべきか、あえてはぐらかすか。
しかし、当のあかりは、うろたえるような目で、こごえるような表情で俺を見たきり、静かに開けかけた扉を閉め、元の車両に帰っていった。
線路の音が響く。列車のスピードが落ちてくる。
「今の・・知り合いだよね。」
「・・はい。」
「ずいぶん君のこと心配していたみたいだけど、大丈夫?」
ヴァンランの言葉の軽さに俺はいい加減イラついてきて、
「大丈夫とかじゃなくて、相当ヤバくなってませんか?」
「・・どうして?」
「だって――俺たちのこと、あかりに聞かれちゃったかもしれないんですよ?あかり、南条先生に印綬のこと話すかもしれないじゃないですか?」
「うーん・・大丈夫じゃないかなあ。」のんきにヴァンランは扉の方を見て。「何回も言うけど、僕は君と話しているときは、神代の言語で話すようになっているんだ。百万が一彼女がベトナム語を知っていたとしても、僕たちの話の内容は、彼女には理解できないんだよ。」
それはそれで問題なのだが。
「・・だったら、あいつの前で、また俺、訳の分からない言葉で話していたことになりますよ?一応あいつの認識上の俺は、語学音痴ってことになっているんですから。」
「まあ、そんなに気にすることないよ。たまたま通りかかった外国人とボディランゲージ交えてめちゃくちゃな英語でしゃべってたら案外意気投合した、とか、まあ無理やりな言い訳ならいくらでも作れるし。」
全くフォローになっていないフォローを、フォローのつもりで話しながら、ヴァンランは再び俺のほうに向きなおり、それでさ、と話を元に戻した。
「さっきの質問の答えだけど。来なかった玉璽の持ち主と玉璽がどこにあるのかっていう、ね。」ヴァンランは続けた。「それが、君が中国に来た本当の理由だよ。」
俺は押し黙り、腑に落ちない不満そうな表情を浮かべ、暫くヴァンランと顔を見合わせていた。
俺が、中国に来た、本当の理由、だと?
「さてと。」ヴァンランは言った。「ちょっと話しすぎたかな。あまり通路で話すと迷惑になるし。じゃあ、僕はこの辺で失礼するね。」
「ちょっと待ってください。」俺は慌てて。「また勝手にどこかに行かれても困りますよ。結局印綬はどうするんですか?発掘調査は途中でやめるべきなんですか?」
「心配しなくても、僕はタツナリ君と一緒に調査の見物に行くよ。もちろん、あまり目立たない感じでいくからさ。」真っ白な服を着たヴァンランは余裕そうな笑みを浮かべて言った。「また、時機が来たら、君に会いに行くよ。それまでは、とりあえず、君は日本から来た一大学生として、研修旅行を楽しんでおきなよ。」
そう言い、じゃ、とパナマ帽の端をつまむと、ヴァンランはあかりとは逆の扉へ向かい、別の車両へと移って行ってしまった。
仕方が無いので、俺は部屋に戻った。部屋の扉を開けると、ゆっくりとムヨンの顔が上がった。手にはノートパソコンがあった。それを静かに閉じながら。
「ずいぶん長かったね。どこか行っていたの?」
「いや、まあ。ね。」とってつけたような笑みを浮かべて。
「それじゃあ、ちょっと早いけどさ、食堂車行ってみない?ここの鉄道の料理すごくうまいって、今ネットで評判読んでたんだけどさ。」
「あぁ・・・」それほど腹は減っていなかったが、俺はムヨンに同意した。さりげなく、ムヨンのノートパソコンに目をやったが、それは既にベッドの上のケースにしまわれていた。
俺たちは食堂車に向かった。既に南条先生たちを始めとする大学のメンバーが揃っていた。俺たちは空いていた二人席に座り、韓国語と日本語のメニューを頼んで、早めの昼食をとることにした。おもむろに、南条先生の向かいの席の方を見てみる。あかりがそこに座っていたが、あかりは昼食の間、一切俺の方を見なかった。ムヨンがしきりに親しく俺に話しかけていたが、俺は適当な生返事をするだけで、視線は常にあかりを向いていた。変な胸騒ぎがしていた。
結局あかりは南条先生たちと談笑をしながら昼食を味わい、立ち上がると、俺たちに何も言わずに、一瞥もくれずに、自分の部屋へと戻って行ったのだった。