第四章 出立 その3
四
その夜は、俺が上海へ来て初めての過ごしやすい夜だった。それなのに目は冴えていて、電灯のほかには何もない殺風景な天井を、俺はぼんやり眺めていた。気になることがあった。起き上がり、夜行列車のために薄明かりの灯った駅を歩き、地下一階へエレベーターで上がる。
果たして、「そこ」にはチャンがいた。
「おう。」扉の音にチャンの首が動いた。「眠れないのか?」
「やっぱり、いたか。」
「どうしてここだと?」
「別に捜していた訳じゃないよ。俺が気分転換に選んだ場所が、チャンと同じだっただけだ。」
「なるほどな。」チャンはジオラマに視線を戻した。「走らせたかったら、好きにしろよ。」
「――真夜中に鉄道模型は、やっぱり、何だか、寂しいな。」
そうか?とチャンは語尾を上げて言い返すと、自分は近くの操縦台の電源を入れた。壁一枚隔てた地上には繁華街があるとは夢にも思わないほど、この部屋には、列車が軽快に線路を滑る音のほかに、何も響かない。チャンの作った巨大なジオラマを巡る列車を目で追いながら、俺はただ座り、時の移ろいに身を任せていた。
「――あれさ。」
「うん?」
「前に、チャンが行っていたやつ。昔の上海駅。そこにあるのなんだろう?」
「・・・」
列車は、川沿いの欧風建築を背景に駆ける。
「――龍也。」いつもの通りの、低く深い声で。「お前のひいじいさんは、二回目の上海事変の時に、上海にいたんだよな?」
「――あぁ。」
「――俺の言うこと、信じるか?」
「・・・いきなり何だよ。」
「信じるか、信じないか。それが質問の内容だ。どっちか答えろ。」
「んなこと言われても・・・」俺は口を尖らせて。「話によるだろ。」
チャンはチッと舌を打ち。「つくづくお前は、嫌な奴だな。」
「それで、チャンの言うことって何だよ。」
俺が尋ねると、チャンは再び黙ってしまった。列車の運転に集中している。無愛想で一方的に話すチャンでもなく、感情を爆発させるチャンでもなく、今のチャンは、神妙な顔つきで、落ち着きのなかに恐れのある、博物館にいたチャンと似た、三人目のチャンだった。
「・・・信じるよ。」小さく俺は言った。
「――頭の後ろが、針を刺したように痛むとき。」チャンは話し始めた。「俺の場合は、妙なことに、夢の中に炎上する上海駅が出てくるんだ。」
「夢に、か。」
「それがなんともリアルでよ。」チャンは続けた。「俺は世界鉄道の前身である、劉氏の建設した鉄道で運転士をしているんだ。そのうち戦争がはじまって、戦火が上海にも及んできた。それで、砲声の轟く中、俺の列車は上海駅を発車するんだが、途中で列車に爆弾か砲弾かが落ちて・・・そこでいつも夢は途切れる。」
「・・ひどい、夢だな・・・」
「何度も何度も同じ夢を見ているうちに、何が現実で何が幻想か、だんだん区別がつかなくなってきてな。奇妙に思うかもしれないが、上海駅で被弾したことは、現実の出来事として俺の記憶の一部になろうとしているんだ。」
チャンは、繁華街に構えた上海駅に、列車を丁寧に停車させた。
「じゃあ、この上海駅は、チャンが夢の中で見たものなんだな。」
「博物館で居眠りしている時も、その夢を見た。またいつもの展開だろうとうんざりしていたら、思いがけない人が現れたんだ。」
「・・・誰だ?」
チャンは俺の方を向き直り。
「お前のひいじいさんだ。会ったんだよ。夢の中で。」
列車は上海駅を発ち、再び軽快な音を線路に刻む。
「――驚いたろ?」俺の顔を見てチャンは笑った。「俺も最初は驚いた。どうして、顔も名前も知らない男が夢に出てきて、即座にお前のひいじいさんと直感したのか、と。――でもその時、不思議と懐かしさを感じたんだ。それに何だかこう、会うべくして会った、っていう気がしたんだ。」
「・・・ちょっと待て。それじゃ、チャンが言っていた『アシハラ』って・・・」
龍山のことだったのか?
チャンは鉄道模型を止め、電源を切った。
「仮にそうだとしても、忘になぜ『アシハラ』が通じたのか説明がつかない。それに『ツバメ』との関連も。」
「あぁ、そうか・・・」
「まあいい、小さなことだ。」チャンは立ち上がり。「どうだ、今の話。ただの夢と思うか、それとも現実の出来事を伝える手がかりの断片と思うか。お前の勝手だ。だが、もし今の話、夢の話に終わらないと信じるのなら、ツバメのことは、俺に任せてくれ。俺は、ひとりで何とかやっていける。そう思える。」
チャンの言葉には、抗いがたい意志が込められていた。俺は何かを言いかけたが、チャンの視線の前に、言葉はうたかたとなって消えた。
「・・なるほど・・」
「それだけは、お前が行く前に言っておきたかった。」部屋の電気のスイッチに手を伸ばして、そろそろ出るか、とチャンは言った。俺が廊下のところまで向かうと、辺りは暗くなった。
「そういや、発掘現場では世界鉄道を使ってくれるんだってな。」
「あぁ・・・らしいよ。」
「ありがたい。いつ行くか決まれば教えてくれ。その列車の担当のやつを俺に代わらせるから。」
「迷惑だろ。」
「お前が気にすることじゃない。乗った記憶がない無銭乗車の乗客を扱うよりも、ずっと手間のかからないことだ。」そう言って、俺より背の高いチャンは、俺の左肩に手を置いた。
「赤の他人を見送るためにするわけじゃないんだ。そうよそよそしくするな。」
「・・そうか。」
「あれ、もう明日だな。」チャンは腕時計を覗き込んで。「寝坊すると他に迷惑がかかるだろ、だから――」
「分かったよ。」相変わらずしつこいぞ、と俺はチャンを睨んだ。そうか、とチャンは笑った。それから、二人とも黙ってしまった。
そして次に目を開いたとき、上海は静かに朝を迎えていた。