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第四章 出立 その2

     二


「俺たちの泊まっているホテルは、すぐそこだよ。」

 夕日が、汗にまみれた俺の背中をじりじりと焼いた。夜の近づく大学内を歩きながら、ムヨンが奥の高い建物を指差した。

「ホテル?大学の中に?」

「留学生も泊まっているんだ。後で他の部屋、行ってみない?龍也も友達、出来るから。」

「いや、俺、英語はちょっと・・・」

 隣であかりが大きく溜息をついた。大きな目が鋭くつり上がっている。

「あのさ・・・」小さい声で俺はムヨンに囁いた。「俺、今、何語喋ってた?」

 あかりは目だけを動かして。

「それ・・・ひけらかしたいわけ?」

「――じゃあ、やっぱ日本語じゃなかったのか。」

「『なかったのか』。そうですけど。そーですけど?あー中国語だけじゃなく韓国語もよくお出来なこと。ムヨンさんはわざわざ日本語で話してくれているのに、あんたはわざわざ韓国語で返事をするなんて。お見事、お見事。」

「韓国語?」よく考えてみると、まあ、そうだ。ムヨンは上手に日本語を話すけれど、ムヨンの母語は韓国語なのだから、俺はムヨンと話すときは韓国語になるというわけだ。

「そう怒らないで、尚さん」ムヨンは穏やかな口調で。「それにしても、龍也、韓国語上手だね。ああ、それで今の話だけど、尚さんも今日行く、みんなのところ?」

 ムヨンは優しく、本当に純正な優しさで、そうあかりに尋ねた。知りあって間もないはずなのに、あかりが気分を損ねた時の療法を既に会得しているとは。効果てきめん、あかりは、ふてくされつつも、いささか機嫌を取り戻したらしく、

「・・まあ、ムヨンさんが、また通訳してくれるなら・・・」と呟いた。

「南条先生もここのホテルに?」俺は尋ねた。

「うん。俺たちと同じ階だよ。そろそろ会議室から帰ってくると思うけど・・・」

「あのさ・・」少し小さな声で。「俺が戻ってきたら、発掘調査、始まるんだよな?」

「もう始まってるよ。」あかりが言った。「河南省の二里頭遺跡の近くで。」

「にりとういせき?」

「中国古代の遺跡だよ。」今度はムヨンが答えた。「今実在が確かな中国最古の王朝は殷だけれど、二里頭遺跡からは、それよりも古い宮殿の跡とかが発掘されているんだ。」

「殷より古い・・・・夏王朝?」

「そう言う人もいるけれど。」機嫌が直ると、あかりは饒舌になる。「夏王朝っていう確証がないの。そもそも夏王朝は、()っていう伝説上の人物が建国したことになっているけど、禹の業績として有名な治水工事のエピソードは、戦国時代以降に作られた伝説だと言われていて、建国者も、建国自体も、不確かなところが多いの。」

「ウ?」

「禹。」とムヨン。「名字はスゥ。名前はウェンミンだよ。」

「でも、確か南条先生は、中国史研究者の中で、初めて夏王朝の宮殿をつきとめたって話じゃなかったのかよ。」俺は口を挟んだ。「どうして宮殿跡がもう見つかっているんだ?」

 おそらく俺の愚問のせいだけかもしれないが、それにしても、二人並んで歩くあかりもムヨンも、俺を密かに疎んでいるような、そんな距離感が俺と二人との間にはあった。

「二里頭遺跡の発見は、夏王朝であるかとか、そうでないとか、そういう問題はあまり中心的じゃないの。」少し間が空いてからあかりが答えた。「――だから、実在性の疑われる夏王朝の発見ということを日本の学会で堂々と発表する南条先生は、その意味では少しアブノーマルな研究者なわけ。」

「先生が重大な遺物の発見をするまではね。」とムヨンが付け加えた。

「そんなの、いつ・・・」

「今年の春。龍也に話したんだけど。もう忘れたの?」あかりは呆れ顔を俺に向けて。

「その・・二里頭とかいう遺跡よりも、もっと確証のある、夏王朝の証拠が、か?」

「まあ、じきに分かるよ。」とムヨン。「さあ、俺たちもそろそろ荷造りを始めないとな。快適なホテル暮らしも今日で終わりか。」

 自動ドアの前には守衛が一人立っていて、三人のうち、特に制服姿の俺を睨みつけていたが、ムヨンがポケットから何かを取り出すと、黙って頷き、道を譲った。カードキーだった。

「とにかく、先生は今回の訪中で、復旦大学の先生たちと一緒に発掘調査の陣頭指揮を執るはずだったんだけど、諸般の事情により発掘前に上海へ長く滞在されることになり――」

「・・・すみません・・・」

「龍也のせいじゃないよ。」とムヨン。「別に何か、調査に必要なことがあるみたいなんだよ。」

 整然としたフロントを横切り、俺たちは廊下を通って旧館へ向かった。狭い階段を上って行く途中、様々な国の学生とすれ違った。誰もがムヨンの知り合いのようだった。簡単に挨拶を交わし、夕食後に会う約束を取り交わす。外向的で明るいムヨンの性格は彼の生来のものなのか、それとも、ムヨン自身が留学生であることによる、中国への留学生に対する親近感からなのだろうか。とにかく、俺にはムヨンの雰囲気が快かった。俺はかように不思議な境遇で言葉の壁が取り払われても、内気さと無愛想は消え去らなかった。

 あかりはカードキーを挿して部屋に入り、俺は隣の部屋にムヨンと入った。

「龍也がいなかったから、ずっと一人だったんだ。ルームメイトが来てくれて嬉しいよ。」ムヨンはハンチングを机の上に置き、隣の部屋のベッドに腰かけた。二人部屋で、シャワーとトイレも完備されている。俺が横のベッドに座ると、徐にムヨンはテレビのリモコンを押した。ホームドラマが映る画面の下側に、漢字の字幕がずらりと並んでいる。

「そういえば、あかり、何していたのかな?」

「うん?――あぁ、四川北路だね。うん、何か書店の跡地とか言っていたよ。詳しくは分からないけれど、昔、日本人の経営する書店が、そこにあったみたい。中国の有名な文化人も訪れた書店とかで、結構有名なところだったらしいんだ。」

「へえ、跡地・・・」俺はテレビを眺めながら。「物好きな奴。」

 ムヨンはクローゼットを開くと、Tシャツとズボンを取り出し、俺に渡した。

「貸すよ。他の学生にも挨拶しにいかなきゃいけないし。その制服で皆の所に行くの、変だろう?」

「あ―――」制服のことで、ようやく俺は、チャンを駅に待たせていることに気がついた。

「――その、俺、荷物を取りに戻らなきゃいけないし――」

「ああ、そうだったな。あの男の人――」ムヨンも思い出したらしく、帽子を被りサングラスをかけて話すチャンの真似をした。

「なら、なるべく早く小野原先生に会わないとね。・・・そろそろ会議も終わるだろうし。」

「・・行きます、か。」

 そう言いベッドから腰を上げた時だった。

「至急一階のロビーに集合!」

 開けっ放しのドアの方から、知らない男の叫ぶのが聞こえた。俺とムヨンは跳ね上がり、急いでドアへ向かった。男は俺の存在よりも伝言内容に気が行っているらしく、ムヨンを見るや、早口で話し始めた。「小野原先生から重大な報告がある。急いで一階に降りてください。・・尚さん、いくらノックしても出ないんだけど、外出中?とんでもないことになったんだ!」

「どうしたんですか?」ムヨンは院生らしいその男に尋ねた。そう問われたらこう反応すると台本にでもあったかのように、院生は顔を暗くし、重い口調で答えた。

「盗まれたんだ。発掘調査の重要なカギが。白の印綬が盗られたんだ!」



            三


「それは大変な目にあったね。」

 騒動の中をうまく脱出し、チャンのもとへ向かい、駆けつけた整備士の運転で上海南京路駅に戻ったのは、夜の九時をとうに回ってからだった。イチローが俺たちを待ってくれていて、それから食堂へ夕飯を食べに向かったのだ。

「乗った列車はありもしない駅に到着するし、友達と再会したのはいいけれど、盗難事件だなんてね。そういえば、タツナリが変な男を見たのも、上海博物館の印章の展示室だったよね。もしかしたら関係があるのかも・・・・って、聞いてる?」

「え?」

「ん?」

 俺とチャンは同時に顔を上げた。頭が重かった。チャンもさっきからずっとセロリを箸でつまんでいる。俺は意識的にイチローのサングラスから目を反らしていた。心なしか、チャンにもその類の後ろめたさが見て取れた。

「何の話だったのかというと・・・」とチャン。

「印綬の話だよ。」溜息交じりにイチローは言った。「復旦大学に保管されていたのが、盗まれたんでしょう?メディアが嗅ぎつけたら、平和な日なら夜のトップニュースだよ。」

 チャンはうつろな目で周囲を見回し、

「――ワンは?」

「・・・さあ。先に帰って寝ているんじゃない?」

「一緒に帰ったんじゃなかったんですか?」不自然でない程度に俺はうつむきながら。

「僕、あのあと仕事があって、ワンとは反対方向の列車に乗ったんだよ。それでさ、僕思ったんだけどさ――」

「龍也。」チャンがぶっきらぼうにイチローを遮って。

「明日、大学に行くんだろ。身支度済ませて、今晩は早く寝ろ。」

「お・・おう。」

 チャンは大きく伸びをすると、立ち上がり、片腕を大きく回しながら、一人で先に盆を返しに行ってしまった。

 話の出鼻をくじかれたイチローは、眉をひそめて。

「何だ・・・あいつ。随分と無愛想じゃないか。」

 扉を出ていくチャンを見届けると、俺は手許の箸に視線を集中させて、はばかりながら言った。

「疲れているんじゃ、ないんですか?今日、いろいろと忙しかったし・・」

「あれくらいで疲れないよ、チャンは。見るからにタフな奴じゃないか。」

「まあ、そうですけど・・・」

 イチローは座って向き直った。俺は野菜炒めを口に詰め込み、何度も咀嚼した。早く次の話題が生まれることを、宣告を待つようなこの重たい沈黙が消えることを、切に願いながら。

「――タツナリ・・・」

 やはり沈黙を破ったのはイチローだった。そして俺もやはり箸を止めてしまった。

「・・どうして、僕を見ないんだい?」

「――といいますと・・」

「ごまかさないで。」イチローは短く言った。「何か、知ったことでもあるんでしょう?タツナリもチャンも、僕と顔を見合さない。それは何か、僕に読まれると困るもの(・・・・・・・・・・・)でも隠しているんでしょう?」

 今更ながら、強引に立ち去ったチャンが恨めしく思えた。だが、チャンがいないおかげで、俺はためらいながらも顔を上げることができた。

「――見れば、分かりますよね・・?」

 イチローは、丸縁のサングラスをかけたまま、無表情で暫く俺の顔を眺めた。自然とこちらもイチローを見つめ返すことになるが、温もりのないサングラスのレンズは、長く見るほど骸骨の眼窩を彷彿とさせ、薄気味悪さを覚えるのだ。

 ちゃんと、顔に表れたのだろうか。

「・・・なるほどね。」

 ようやくイチローは、近づけすぎた顔を引いた。

「あの――」急いで俺は答えた。「チャンには、内緒にしておいてくれませんか?」

「どうして?」イチローはすぐに返して。「チャンの予想通りの展開なのに?」

「その、なんと言うか・・」できれば顔から察して欲しかったが。「・・俺、まだ自覚がないんです。その、自分が、ツバメの一員だっていう・・。それに、復旦大学で会ったツバメの一人は、チャンのことも、ワンさんのことも、それから『アシハラ』の意味も知らないって言っていました。・・きっと、チャンが求めている答えを、俺は与えることができないんだと思います。だから、俺の、正体を言って、変にチャンを期待させたり落胆させたりしたくないんです。」

 イチローさんなら分かってくれますよね。そういう目をして俺は顔を上げた。

 イチローは両義的な溜息をついた。客観的に見れば、俺の話に納得した溜息のようにもとれた。

「・・それで、やっぱり、印綬を盗んだのはツバメの一人だったんだ。で、誰なんだ?もしかして、博物館にいた、あの帽子の男?だったらつながりがあるんじゃないのかい?」

「それは――言いたくありません。」

 俺は、静かにうつむいた。チャンよりも話しやすいと感じていたイチローが、今晩ばかりは恐ろしかった。

「――言いたくないなら、言わなくていいよ。僕のサングラス、そんなに細かく見えやしないから。」

 行こうか、とイチローは立ち上がった。白けた晩餐だった。

 ねぐらへ向かう道すがら、俺とイチローのどちらからも話を切り出さなかった。全く赤の他人が二人、たまたま帰り道が同じで、ついていくつもりはないのに、どこまでも一緒に歩いてしまう。二足の靴は、そんな時の憚りと戸惑いを、足音ににじませていた。

 考えてみると、イチローも、居候の俺が急にいなくなることに対する対応法に迷っていたのかもしれない。あるいは、帰る場所を見つけられた俺に、少しすねてみせたかったのかもしれない。突然姿を現した招かざる客にも、別れ際には未練を感じるものなのか。そんな自意識過剰な想像をひととおり終えると、イチローにお休みなさいを言うついでに、他愛もないことを尋ねた。

「イチローさん。」

「うん?」

「イチローさんのサングラスって・・・どこまで見えるんですか?」

「ああ、それ。」自分の部屋のノブを握りながら、イチローは笑って言った。「どこまで見えるんだろうね。僕も実際見えているもののどれが本物なのかなんて、分からないんだよ。例えば、タツナリの顔もさ。」

「・・・どういうことですか?」

「僕は心の目で物事を見ているからね。そういう人間には、人の心も見えるのかもしれないよ。このサングラスのおかげじゃなくてね。」

 はあ、と俺は生返事をした。イチローの話は「妙」の一言に尽きる。

「・・あの、ありがとうございます。いろいろと――」

「こちらこそ。すごく楽しませてもらったよ。」イチローは目一杯笑って答えた。

 扉が閉まり、イチローの部屋の明かりは、扉に遮られて、消えた。

           


 ムヨンと俺が院生についてフロントまで駆け下りていくと、そこには既に人の集まりが出来ていた。一同は足音に気がついて院生を見、次にムヨンを眺め、最後に怪訝そうに俺を凝視した。

「これで全員か?」院生の一人が尋ねた。

「いや、尚さんがいない。」

「おそらく、外出だろうって。」俺たちを迎えに来た院生が答えた。

「外出?・・ったく、こんな時にも出歩くのかよ・・・」別の院生が小さく舌打ちする。

「それより、教えてください。白の印綬が盗まれたって・・・」

 ムヨンの言葉に、俺は思わず顔を上げ、

「印綬?」とムヨンに耳打ちした。「何のことだよ?」

「あぁ、詳しくは後で言うから、とりあえず、話を聞こう。」

 そう言ってムヨンは他の院生たちの輪へと加わった。俺も話が聞こえるように近寄った。

 印綬。しかも、白。確か、ヴァンランの持っていた印綬は、乳白色をしていた。それに俺たちが出会ったのは、復旦大学の書庫。ここは、復旦大学。背中が妙に湿っぽくなる。やはり、「必然」という大きな力によって、無理やり俺は大それた計画に引き込まれていくのだろうか。冷や汗を背に伝わせたのは、そんな俺の不穏な直感だった。

「うん。」院生が言った。「要点を言うとこうだ。今日の昼頃、印綬を保管していた研究室に誰かが忍び込み、白、黒、赤、そして青色の印綬のうち、白の印綬を盗んでいった。その時南条先生は復旦の先生と調査の打ち合わせを会議室で行っていたため、研究室には誰もいなかったんだ。」

「でも、どうして白色の印綬なんだ?」と別の院生が言った。「白色の印綬だけは、他とは違って、ただの動物の骨から作られたものだし、価値は相対的に低いだろ?」

「それに、第一、一部の研究者とうちらを除いて、五つの印綬の存在は誰も知らんからね。」

と別の院生。

「じゃあ、歴史家で取って行った人がいるんだろう。」

「それはない。あれは宮殿の封印を解くための鍵のようなものだと南条先生はおっしゃっているし、その説に従えば、歴史家であれば、五つ揃わなければ開かない封印を解くところを、見たいに違いないだろうし。」

「なら、普通の学生がいたずらで盗んだと思うのか?」

 背中がじっとり濡れていた。宮殿・・封印・・そして、鍵。ヴァンランの口から出た言葉が、院生達によって復唱される。ヴァンランが話してくれた、五つの印綬の存在を、何故か南条先生は知っている。

「ところでさ――」

 顔を上げると、一人の院生に俺は睨まれていた。

「朴君、その人――」

「あぁ。」ムヨンは思い出したように俺を前に押しやって。「この人がその――」

「みんな、遅くなって、ごめんなさい。」

 自動ドアが開き、入ってきたのは、南条先生と、あかりだった。歩く間にも先生の髪に載った汗の雫が散る。昼から今まで、ずっと議論をしていたようだ。荒い吐息がそう伝えている。あかりの方も、真面目な顔をして、少しうつむき加減で輪の中に入ってきた。

「尚さん・・・?」院生はあんぐり口を開けてあかりの方を見た。

「ああ、彼女とは、さっき、そこで、会ってね。事情を、話して、外出に行くのを、やめてもらうことに、したんだ。」南条先生は息を整えながら言った。「・・・とにかく、、長いこと待たせてごめんなさい。」タオルで顔を拭った後、南条先生は、突き出た腹を院生の輪の中に加わらせた。「全員、いますか?」

「そうですね。尚さんだけがいなかっただけでしたので――」

 説明する院生の言葉に耳を傾けながらか、そうでないのか、先生の視線は、俺に注がれていた。一瞬、先生は目を見開き、そして大声で。

「葦原君!どうしてここに?」

 葦原、という固有名詞に、輪の中が一斉にざわついた。俺は、すみませんと謝ると、下げた顔を上げづらくて、小さくなってしまった。仕方が無い。この一週間、この人達の手を煩わせていた張本人であるのだから。

 ムヨンが軽く俺の肩を叩いて、明るく言った。

「気にするなよ。皆心配していただけで、起こってはいないから。」

 顔を上げると、南条先生が目の前にいた。気疲れのにじみ出た先程と比べると、幾分若返ったような感じがした。

「良かった・・・いきさつはどうであれ、無事で何よりだ。あぁ、良かった・・・」

 そう言って、先生は俺の手を強く握った。

 しかし、切り替えが早いのが南条先生で、教え子との感動の再会も束の間、くるりと向きを変えると、ところで印綬のことだが、と話題までも鮮やかに変わってしまう。

「復旦側の先生方と議論した結果、調査は続けることに決めました。」

 その一言に、輪の中の空気が心なしか和んだ気がした。

「もちろん、白色の印綬が宮殿発掘に重要となることに変わりはありません。ですが、残った三つの印綬だけでも、十分宮殿を見つける手がかりにはなります。それに、一度決めた発掘調査をこちらの不手際で中止するのは、中国側にも失礼です。捜していた人にも出逢えましたし、もう上海でするべき用事はありませんから、二、三日後には出発できると思います。」

 院生の顔に安堵の笑みが浮かんだ。俺もとにかく事は落ち着いたのだと感じた。それでも、服の湿り気は依然と俺を不安な気にさせた。見上げると、ムヨンも険しい顔を崩していなかった。

「どうしたんだよ?」

 俺の声に、ムヨンの顔は若干緩んだ。

「ん?あぁ・・・とうとう発掘に行くのか、と思って。俺、もう少し上海を満喫したかったからさ。」

「なるほど。」

「白色の印綬を盗んだ人は、見つかったんですか?」

さりげない院生の一言に、俺は息が詰まりそうになった。出発が近いことに喜んでいた他の院生達は、おい空気読めよ、と口を尖らせた。

「今のところは、何の手がかりも証拠もありません。ただ・・」南条先生は続けた。「犯人は現場に戻ってくると言いますし、案外私たちの近くにいるかもしれません。目的はおそらく、私たちと同じでしょうから。」

 最後の言葉には、南条先生には珍しく、鋭さが込められていた。それだけに、俺にありもしない不吉な予感を抱かせるには十分だった。

 集まりは解散になった。俺は先生を呼びとめ、今までの経緯と、MMFに荷物を取りに行くため、外泊の許可を求めた。いいでしょうと南条先生は笑って応え、その制服、似合っていますよと付け加えた。俺の隣にはルームメイトであるムヨンがいて、二人で先生の背中を見送ったわけだが、その時もムヨンの顔からはまだ険しさが消えていなかった。ムヨンとホテルの入口で別れ、すっかり日の沈んだキャンパスを歩いた。毛沢東像の後ろにチャンの姿を認め、チャンと俺は整備士が運転してきた列車に乗って、上海南京路まで戻ったのであった。


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