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第三章 邂逅 その5

                     六


「歩けるか?」

 チャンは俺の手を自分の肩に載せ、力の抜けた俺をしっかり立たせた。

「―――ちょっと目まいがして・・・」

「無理するな。脳天を突く痛みの辛さは俺も知ってる。」

 チャンは俺を埃で色の変わった椅子へ寄せて、車掌と二人で運転室の方へ走った。駅の照明がついたので、車内で躊躇していた乗客たちも、三々五々、車両から出て来、新大陸の地でも踏んだかのように、物珍しそうに周囲を見廻していた。かといって特に珍しいホームであるわけでもない。画一的な世界鉄道の他の駅と変わらぬ駅だ。『SHANGHAO』と書かれた看板を見る限り、ここが終着駅のようだった。

 チャンと車掌が走って戻ってきた。俺が振り向くと、チャンは乗客には聞こえないように、小さく囁いた。

「もぬけの殻だ。」

「運転士がいない?」

「シッ――これ以上乗客を混乱させるとまずい。」チャンは言った。「あのひどい運転は外部の人間もやりかねない。問題は、どこで運転士が入れ替わったかだ。」

 車掌がエスペラントで口を挟んだ。チャンは頷き、車掌に手ぶりを交えて指図した。車掌は右手の親指を立て、振りかえると、乗客の方へ向かった。チャンは俺の方を向いて、

「ここがどこかなのかを調べるのが先決だと言わてれて、車掌には乗客の対応を頼んでおいた。俺たちは駅員室を見に行こう。」

「誰か助けに来ないのか?」

「駅員がいれば、彼らに頼めばいい。車掌に列車の無線で連絡するよう頼んだんだが、ここがどの路線のどの駅かも把握していないうちは、あまり役に立たないかもしれないな。」

 階段を上がり、タイルの敷き詰められたコンコースに俺たちは来た。電光掲示板らしきものはあったが、文字の出ないそれは、ただの黒い吊るし物に過ぎなかった。改札の前に南京路駅よりはるかに小規模だが、入国審査のゲートもあった。改札口は遊園地にあるようなレバー式のものだったが、いくら押しても動かないので、結局とび越えることにした。

「使われてだいぶ経つ、というよりかは、一度も使われていないみたいだな。」

 チャンは自動改札機の上の埃を指でなぞりながら言った。

「見ろよ。」俺は床を指差した。埃をかぶった床に、ブチのような細長い点がいくつも浮かんでいた。よく見ると、靴の跡だった。

「まだ新しいな。」屈み込んでチャンは言った。「ついさっき走っていったみたいだ。」

 チャンは俺を見上げる。その言葉に、ただならぬものを感じながらも、俺は頷いた。

 タイル張りの通路を走った。長く狭く続く、暗く重く冷たい通路は、途中で二手に分かれた。チャンに従い右の道を取り、再び、長く狭く続く、暗く重く遠い道を駆けていくと、やがて通路は行き止まりになった。後ろを振り返ったが、真逆へ続く道も同じくらい遠くまで続いているようだった。

「足跡は、ここで消えている。」立ちはだかる壁の手前に残された、最後の足跡を見て、チャンは言った。

「おかしいじゃないか。行き止まりだぞ。」

「いや――」徐に天井を見上げて、チャンは。「上がある。」

 言われて顔を上げれば、確かに、天井に四角形の穴がぽっかり空いており、そこから雲の去った青空が覗いていた。俺の肩を使ってチャンが先に昇り、それから俺を引き上げた。

 思いがけず、草地に出た。緑の生い茂る俺たちの足元は、黒い陰に包まれて涼しかった。俺は元来た穴を眺めた。四角形の形にだけ光が差すだけの、地下通路だった。怪訝そうな表情を、チャンと交わす。チャンの後ろには、日陰を作る張本人である、何か大きな柱のようなものが立っていた。

「どこに座っているんだ、お前ら!」

 噛みつくような怒鳴り声がして、俺は思わず穴に落ちそうになった。厳しい顔の守衛が立って、俺たちを睨んでいる。守衛と俺たちとの間には低い柵があって、その柵は例の陰の主を取り囲んでいた。チャンは眉をひそめ、その主を見上げると、「ああ」と、驚いたような、合点がいったような声を漏らした。俺は守衛がもう一度がなり立てるまで、それが何なのか見当もつかなかった。

「毛主席の像の後ろで昼寝なんてするな!勝手に入るんじゃない!」

 俺は跳ね起き、一目散に草地から飛び出した。置いてけ堀のチャンは、守衛の叱責に何かをまくしたてていたが、早口でよくわからなかった。やれやれと肩をすくめて柵を越えて来たチャンは、けろっとした顔をして、気さくな口ぶりで言った。。

「全く、誰があの下に駅があるなんて信じるだろうな。」

「なあ、毛主席ってさ――」

 俺は陰になった像の背中側から正面へと回ってみた。背を反らして見上げれば、確かに写真で見覚えのある、超然とした毛沢東の丸顔が見えた。肩が並べるには俺を何人か縦に並べる必要がある。像にしてはでかすぎる。

 後ろを振り返ると、自転車の集団が、大きな門からなだれ込んできた。どれも古びていて、ライトがない。乗り手は俺と同い年くらいだろう。他愛もない話が耳に集まってくる。そして、グラサン男二人を奇異な目、好奇の目で注視する人もいれば、一瞥したきり涼しげに通り過ぎる人もいる。

「――チャン。」

「何だ。」

「ここ、どこ?」

「復旦大学だ。」チャンは答えた。

「フータン、大学?」

「そうだ。」とチャン。「北京大学や精華大学に並ぶ、中国でも指折りの名門大学だ。歴史も古く、確か最近百周年を迎えたところだ。上海人なら誰でも知っている、この都市随一の大大学さ。」

 右側通行の通りを並木の陰が覆い、自転車に乗る学生たちはそよ風を浴びて走り抜けていく。自家用車、ワゴン車、はては大型バスまでが、キャンパス内をせわしく駆けていく。通りの両端は遠すぎて見えない。バスケに興じる男子学生、芝生で語らう女学生、一つひとつに名前のついた通り、洗濯場、売店、宿泊施設・・・。寮の窓辺に揺れるシャツやズボン、ジャージ姿でジョギングする若者たち。街での生活の全てが、そこに集約している。そしてキャンパス内の全ての営みを規律するかのように、並び立つ二つの塔が、大学の中央部から俺たちを見下ろしていた。

「大学・・・。大学・・・?」だいぶ経ってから、俺は呟いた。

「あの塔は光華楼(グアンホアルオ)って言うんだ。三十階以上もあるらしい。」

 まだ夏休みなので、授業に出席するふうの学生はいない。俺たちは光華楼の前の階段に、どっかりと腰を下ろした。空模様はすっかり良くなっていた。

 自分の居場所が、暫く信じられなかった。先ほどまで俺たちは、列車に乗っていた。そしてその前は、「ツバメ」を探すために無謀な捜索に出たはずだった。それが今は、あまりに平和な昼下がりを、穏やかな大学の階段で過ごしているのだ。

 吐息が流れる。グラサンのせいで、チャンは起きているのかも分からない。俺たちの間に流れる時間と同じくらいゆっくりと、空では雲が動いている。頬に当たる日差しは強い。

「チャン――」

 俺がそう呼びかけるのを、チャンもうすうす気づいていたようだ。そして、そのあとに続く言葉も。

「―――」

「どうして、急に博物館に戻ったりしたんだ?」

「―――」

「その・・夢の話か?それとも、『ツバメ』の話か?」

 チャンの顔には何の表情も浮かばない。サングラスに、日の光が冷たく反射していた。

「・・チャン・・」

 もそりとチャンは動いた。

「龍也、お前ならどう考える。」

「――何を?」

「事変の話だ。さっきは邪魔が入ったからな。」

「また・・」俺は大きくため息をついてみせた。「何だよ?」

「一回目の上海事変っていうのは、何で起きたか、お前、分かるか?」

「言ったじゃねえか――」俺の問いをはぐらかされたので、気が進まないながら。「満州事変を起こした日本軍が、世界の目を満州から反らすために、上海を――」

「本当にそう思うか?」

「んなこと、聞かれても・・」

 するとチャンは少し軽蔑した口調で。「お前、自分の頭で考えたこと、ないのか?」

「・・・」

「日本は二度も上海に軍を上陸させた。」チャンはひとりで続けた。「しかもどうやら、当時の日本の首脳たちも、一回目の上海事変で、満州から世界の目を反らせたとは思っていなかったようだ。とすると何だ、一回目のは、ただ日本が暴れたかっただけか?列強の租界の集まっていた、この上海で?」

「――チャンは、どう思うんだよ、それについて。」

「別に理由があったはずだ。」チャンは言った。「そもそもどうして中国に軍を進めたのかよく分からない日本のことだ、いくらでも憶測の余地はある。いいか、日本は上海に二度来ているんだ。二度も。一回目は結局停戦、二回目は泥沼化の原因になった。それでもわざわざ二度も上海に来たってことは、何か別に目当てがあってのことじゃなかったのか?と考えるならば、一回目の事変というのも、満州事変に注意を向けさせないためというより、もっと、積極的な、具体的な動機があったと見ることができるだろう?」

 後ろの自動ドアから学生たちが数人出て来た。俺たちのことを不思議そうに眺めて、また談笑を始める。

「俺は、お前が何でそのことにそこまでこだわるのか、よく分からないけどな。」

「確かにな。」チャンは一息つくと、小さい掛け声とともに立ち上がった。「まあ、お前なりの考えがあるなら、俺にも聞かせてくれ。」

「どこ行くんだ?」

「忘れたのか、乗客。」

「そうだった。」

 俺たちが立ち上がるや、正面の掲揚台から、突然、老若男女入り混じった集団が現れ出た。文字通り地から湧いて出て来た彼らに、先程の大学生たちはあんぐり口を開け、目を奪われ、足を止めてしまっていた。

 その先頭を歩いていた、俺たちと同類の男が、俺たち二人の姿を認めてすぐに駆け寄ってきた。むろん、駅で別れた車掌である。

「チャンか?」車掌の言葉は聞き取れた。

「おい、これはどういうことなんだ?」チャンは車掌の腕を掴んで問いただす。

「それが――」車掌は肩をすくめて、後ろを振り返り。「お前たちの帰りが遅いから、乗客の要求に応じて、とりあえず外に出てみることにしたんだ。だけど出口が三か所もあるもんだから、お前たちがどこから出たのか見当がつかなくて、とりあえずその中の一つをずんずん進んだんだ。そしたら、お前たちに会った。それで、ここはどこだ?」

 チャンは頭上を指差して。「復旦大学だ。」

「復旦大学!」車掌は顎を高く上げ、再び叫んだ。「うわ、光華楼(グアンホアルオ)!――確かに、復旦大学。でもこの近くに路線はないはずだ。いったいどういうことなんだ?」

「とにかく。」車掌の問いを無視してチャンは言った。「邯鄲路(ハンタンルウ)でタクシーを拾って、魯迅公園まで乗客を送るしかなさそうだな。タクシー代はもちろんMMF持ちとして、魯迅公園から上海南京路までの運賃も無料にする。これ以上乗客を困らせてはいけない。そうしてくれないか?」

「分かったが。」車掌は俺を見て。「おい、新入り。俺一人に全部させる気か?」

「二度も言わせるな。こいつの世話役は俺だ。んで、俺は上海駅の駅長に連絡するから忙しい。というわけで俺の下っ端のこいつも忙しい。・・・あいにくだが、今度酒をおごらせるから、今回だけは、な、目をつぶってくれ。」

「・・・融通の利かない奴だな。」車掌は不満げに俺を睨み。「それにこいつ、日本人だろ?」

「いいから、行け、行け。」

 チャンは手で車掌を払い、乗客の群れへと戻らせた。

「――いいのか?」

「お前が気にすることじゃない。」チャンは言った。「とにかく、俺たちは駅だ。駅か、でなけりゃ列車の無線で、俺は上海駅に連絡するから、お前は別のを探せ。」

「別のって、何だよ?」俺は顔をしかめて。

「むろん、ツバメだ。」

「――この状況でまだ言うか?」

「可能性が一つでも残っているのなら、試してみるのが常識ってものだ。」チャンは門を出る車掌に手を振ってから、耳打ちした。「まだ通っていない出口が一つだけある。」

「でも・・あっちには、足跡がついてなかったのに?」

「別にあの足跡がツバメだとは限らない。」チャンは真面目な顔で。「いいか、探してみろ。」

「ちょっと待て・・・俺、一人か?」

「お前な。もう便所も一人で行ける歳だろう?そんな弱気な声出すな。」

「そりゃ、そうだけどさ・・・」

「分かった。仕方がない。」チャンは笑って、俺の肩に手を置いた。「また守衛の雷が落ちるかもしれないが、もう一度あそこから通路を戻ろう。それで、分かれ道で、俺は駅、お前は三つ目の出口だ。分かったな。」

 嫌だ、という選択肢はなかった。


 再び単調なタイル張りの地下通路を走る。分かれ道でチャンと離れてからも、地下通路はまだ奥へ伸びていた。チャンがスイッチを見つけたのかもしれない。鬱屈とした空間に白い光が灯った。俺は後ろを振り返る。どこでチャンと別れたのか、もう見当がつかないほど、ただ白いタイルの壁と床が俺の後ろに並んでいた。心細さで、自然と足取りも重くなる。よそ見をしていたせいか、気づけば俺は、再び暗がりの中に足を踏み込んでいた。

 立って暫くすると、周囲の物の形がぼんやりと浮かび上がってきた。

書棚だ。

何段もある書棚が、いくつも、均等に列をなしている。随分と古い本もある。書物の題名はみな漢字だけで書かれている。もしかすると、大学の図書館の書庫なのかもしれない。

 俺のすぐ頭上にも、厚い棚があった。屈みながら前に出てみると、俺がやって来た通路と書庫の間には、一つの目立たない書棚があった。書棚の下の方には棚がないので、俺が入って来られたわけだ。しかし、書庫の隅に位置する書棚の奥に、駅へ通じる道があるとは、誰も考えもしないだろう。

 ―――

 紙の、擦れる音がした。

 確かに――誰かが、今、ページを、めくった。

 向かいの書棚に目をやる。人気はない。電気もつけないで人が書庫で本を読むだろうか。俺の耳が聞き取った音は、それっきりで、後は本に送風する機械の音しか聞こえない。俺は、ゆっくりと、次の書棚に顔を近づけた。

 紙の擦れる音と同時に、黒い光が俺に向けられた。

「――誰だ?」

 俺は思わず後ずさった。パナマ帽の男は険しい形相で、黙って俺の方へ近づいてきた。右手には、たった今書棚から取ったばかりの本を抱えて、左手はズボンのポケットに潜めたままだ。目にはサングラスが妖しく光る。

 俺は悲鳴を上げたかったし、別の書棚の陰に隠れたかった。でもそれ以上動けなかった。まるで金縛りを受けているかのように。本当の危険に晒されたとき、人間はこうも無力なのだ。

 男は俺の首を掴んで書棚に俺をもたれさせ、俺の顔を怒りと脅しの目つきでねめまわした。目を合わせるだけで圧倒されそうで、俺は目を閉じ、ひたすら危機の過ぎるのを祈った。

「――どうして――」低くはしているが、それほど悪人じみていない声だった。

「――ここに来られた?」

 男は俺の首から手を離した。俺の首には、まだ締めつけられているように痛みが染みていた。俺は薄く眼を開けた。良かった。まだ生きている。

 男は左手をポケットから抜き出した。拳銃でも出すのかと予想したが、手に握られていたのは、小さな乳白色の塊だった。

「――あまり使いたくはないが――」独り言のように男は呟いた。「――これも俺の仕事のうちだ。すぐに自由にしてやる。だから動かないでくれよ――」

 俺は思い切って大きく眼を開いた。男の手に握られていたのは、金印――いや、銀印(・・)だった。博物館のガラスケースの向こうに並んでいた物に似ていたが、動物を模した奇妙な彫刻が施されていた。それを男は俺の額にゆっくりと近づけた。

「これで記憶を消せる。俺と出会ったこと、俺が何をしたのかということを、綺麗さっぱりと。ツバメの存在を秘匿するためには――」

「ツバメだって?」俺は思わず声を上げた。

 男の手が素早く離れた。俺は男を動揺ぶりに驚いた。先ほどの殺気とは打って変わって、男の顔に浮かんでいたのは、恐怖に近い当惑だった。

「今、何と言った――」

「もしかして、お前がツバメの一員なのか?」

「俺の言葉が分かる!」男は悲痛に満ちた声で叫んだ。「俺の言葉が分かるなんて!」

 男は急いで銀印を懐にしまい、疑心に満ちた目で俺を見た。

「――でも、印綬は持っていない。こいつは印綬をまだ持っていない。じゃあどうしてだ?」

「何だよ、インジュって?俺に何をしようとしたんだ?」

「俺には分かる・・」絶望の男は自嘲気味に繰り返した。「俺にはこいつの言葉が分かる・・」

 相手がこれ以上危害を加えないと分かると、俺は書棚から離れ、なるべく静かに、そして素早く、来た道を戻ろうとした。

「待ってくれよ!」既に悪意の消え去った男の声が俺の脚を止めた。男はカウボーイハットを脱ぎ、まるで旧友に再会したかのような笑みで俺に握手を求めた。「使徒よ!ああ、使徒仲間よ!」男は何度も叫び、何度も俺の肩を叩いた。「ああ、やっと見つけた、使徒だ!嬉しい。会えて本当に・・・嬉しい!」

 緊張の弛緩とともに、俺は冷めてきて。

「何なんですか、一体・・・」

「ああ、ごめん。忘れていました。」男は急いで手を払い。「僕、ヴァンランと言います。グエン=ヴァンラン。ベトナムから来た、留学生。今は、四・・いや、三年生だね。」

「ベトナム・・ですか。」

 男は俺の感想を物足りなく感じたのか、

「あの、本当に嬉しいんだ。君に会えたことが。」と念を押して、サングラスを外した。知的な瞳に、俺は思わず、

「タイガーさん?」

「あれ?」向こうも同じ反応で。「僕のこと、知ってるの?それは本当に嬉しいよ。」

「いや・・・タイガーさん・・・この前お会いしましたよ。上海南京路駅で。」

「え?」ヴァンランは顔をしかめて。「駅で?」

「何でも、インターンシップとかで・・・」

「インターン、シップ・・・」ヴァンランは徐に手帳を取り出すと、付箋のついたページを開いた。「今日は、何曜日だっけ・・・あ!」表情が明るくなる。「『素晴らしき世界鉄道で研修』。これかあ。そうだね、じゃあ、きっとその時会ったんだね、君と。」

「あの・・」

「ああ、今のは気にしないでね。」ヴァンランは笑って。「でも俺も驚いたよ。君がエンゴシトの一員だとはね。」

 沈黙が流れた。

「・・・何ですか、それ?」

「・・・もしかして、何か悪いこと言ったかな?」

「そうじゃありません。俺がうまく漢字変換できなかったというか・・」

「漢字・・」ヴァンランは戸惑った様子で。「エンゴシトのこと?」

「はい。俺、本当に知らないんです。」俺は続けて。「自己紹介が遅れました。俺は葦原龍也といいます。俺も大学生ですが、一年生です。」

 俺は、「ツバメ」で反応したタイガーさんも、チャンのように俺の名前で鋭く反応するだろうと予想したものの、タイガーさんはただ相槌を打っただけだった。俺の名前より俺の問いに随分当惑したようだ。

「タツナリ君、だね。」ヴァンランは言った。「おかしいなあ、『知らない』だって?先代の使徒さんから話は?」

「先代も何も、『使徒』なんて言葉は初めて聞きましたよ。」

「ははあ・・・」ヴァンランは丸椅子の上で丸くなりながら考え込んだ。「エンゴシトを知らない、か・・・。いやね、『エンゴシト』っていうのは、ツバメの五人の使徒、つまり燕五使徒っていう意味なんだ。僕自身、この話を初めて聞かされたのは、先代の使徒であらせられるある年配の方からなんだ。・・・ところで、タツナリ君、これ、持っている?」

 そう言ってヴァンランは、懐から先程の物体を取り出した。俺が首を振ると、

「じゃあ・・・もしかして、これをさ、鼻に近づけてさ・・・」

「え?」

「あー、そうだ!きっとそうだ!」ヴァンランは満足げに頷いた。「君、嗅いだんだよ、君の印綬を。嗅いだ!こんなにひどい臭いのもの、よく嗅いでみたねえ。」

「ええと――」

「でも、タツナリ君は、印綬を持っていない。燕五使徒の名前も知らない。いや、でも、『ツバメ』のことは知っていたね。ね?となると、結論はどうなる?先代さんが君を後継者に指名して亡くなってしまい、印綬を受け取らなかった?ああ、でそれじゃなんで君が鼻でくんくんできたんだい?うーん、それで結論はどうなる?」

「あのお・・」悩ましげなヴァンランに、俺は遠慮がちに口を開いた。

「・・タイガーさんのお話を聞く限りだけど、俺がその、燕五使徒の五人の中に含まれているように聞こえるんですけど・・・」

「そうだよ。」俺の青ざめた顔を不思議そうに眺めて。「それが?」

「で・・でも俺・・」背中が不自然に涼しくなり始めて。「・・身に覚えとかありませんし、それに『ツバメ』とか、そんなに訳の分からない集団なんかに・・何を根拠に俺が『ツバメ』だって言うんですか?」

「――言葉だよ。」俺の困惑ぶりを、ヴァンランは楽しそうに眺めて。「君は僕と言葉が通じる。」

「ええ、そのようですが――」

「今、僕たちが話している言葉、何語だと思う?」

 そう言われて、俺は首を傾げた。

「変に思われるかもしれませんが――俺、今タイガーさんが話している言葉、みんな日本語に聞こえるんですよ。」

「ふうん。」ヴァンランの満足げな溜息。「じゃあ、やっぱり君は青色の印綬の持ち主だ。いいかい――」

 ヴァンランは話し始めた。

「僕たちが今話している言葉は、五使徒にしか通じない――正確には、現代に生きる人には分からない、世界一古い言語なんだ。」

「世界一古い、言語――古典語ってことですか?」

「うん。言語学者でさえまだこの言葉の一端にも触れたことはない。細かい部分は省いて――この言葉を話すことができ、かつ許されているのは、この五使徒だけなんだ。」

 至極真剣なヴァンランの表情にどう反応すべきか、迷いながら。

「俺が、どうしてそんな言葉を・・」

「簡単なことさ。」ヴァンランは言った。「神の残り香に触れたことがあるんだよ。」

「神の、残り香――」

 その一言に、かすかだが、俺の頭の隅が疼いた。

 書庫には、俺たちの話し声しか聞こえなかった。ヴァンランは廊下を確認してから、説明を続けた。

「一度に全部話すと大変だから、要点だけを説明するね。」とヴァンラン。「昔、神様と人間が仲良く暮らしていた時、神様は人間に神の宮殿、つまり神宮(しんぐう)を五つ造らせた。その五つの神宮の入口には封印がされ、神様が認めた者たちだけが、その封印を解き、中へ通される。燕五使徒は、その神宮のうちの一つ守るために遣わされた五人の使者のことで、五人全員が印綬と呼ばれる、封印用のカギを持っている。そして五人の意思疎通を図るために、全員が古典語を不自由なく使う能力を一時的に与えられる。ちなみに、神宮は山や森の中など、人目につきにくい場所にその入口を隠しているんだけど、ごくたまにその入口を、五使徒以外の人物、それもすごくタチの悪い奴らに見つかってしまう時がある。燕五使徒の役割とは、そんな奴らから入口を隠すために、入口に五つの印章で封印をすることなんだ。封印をすれば、その入口は完全に閉ざされ、二度と開くことはない。でもその代わり、今度は遠くのどこかで、新しい入口が現れるらしいんだ。神様の宮殿だからね、入口は神出鬼没なんだよ。」

 俺には十分すぎるくらい長い説明だった。俺はいつだったかチャンの延々と続く説明を聞かされたのを思い出した。

「あの――質問です。」

「どうぞ。」

「その、入口を封印するってところなんですけど、封印して入口を隠すのが目的なら、どうしてまた別の入口が現れるんですか?その、何だか、イタチごっこというか、無駄というか――」

「それは僕も思った。」ヴァンランは明るく言って。「だから先代に伺ったんだ。そうしたね、神宮の入口がつねに一つはどこかにあるのは、待つ人がいるからなんだって。」

「待つ人。」

「そう。もちろん僕たち五使徒のことなんだけど、その五人の中でも特に、中原の覇者。つまり、中国の正統支配者だよ。」

「中原の覇者、ですか・・」

「印綬には五つも名前があり、うち四つは陰と陽の区別がある。」そう言い、ヴァンランは首にかけた乳白色の印章を握った。「僕の持つ白の陰綬(・・)、対になる青の陽綬(・・)、そして黒の陰綬と赤の陽綬、最後に黄の玉璽だ。本来ならこの燕五使徒のリーダーである黄の玉璽の持ち主が、中国皇帝と同一人物であるべきなんだ。他の四人はサポート役でね。要するに、黄の玉璽という、帝王の証を神から授かった者が、四人の使徒を引き連れ、神宮に来ることが、求められていることなんだよ。」

「ちょ・・・」俺は口を挟んだ。「ちょっと待って下さい。昔の話なら分かりますよ。でも今は中国にも皇帝なんていないのに、使徒が呼び集められるなんて、どういうことなんですか?」

「さあね。それが分かると僕も嬉しいけどね。」無責任な口ぶりでヴァンランはため息をついた。「――とにかく、これで君が使徒のうちの一人だということ、分かってくれたかな?」

「いや・・・その・・・」

「焦ることはない。徐々に受け入れていけばいいんだ。別に悪いことをするわけじゃないんだからね。」ヴァンランは明るく、励ますように言った。「タツナリ君には初めて会ったのに、何だか懐かしい感じがしたんだ。タツナリ君の印綬は、おそらく――青の印綬だ。印綬が上海にあるのかどうかは分からないし、そもそも五人の使徒全員にどこで出会えるかも分からない。だけれど、君と僕がこうも出会えたということは、案外探しているものは、近くにあるのかもしれないね。まあ、探していた本はここにはないみたいだけど。」

 ヴァンランは横に置いていた本を戻そうと立ち上がった。

 俺も立ち上がり、ヴァンランさんの手を見ながら、ふと思い出したことを尋ねた。

「ヴァンランさん。」

「うん。」

「チャンっていう男――知っていますか?」

 ヴァンランは手を引き、眉をひそめ、

「チャン?――友達にはたくさん『張』がいるからなあ。」

「年は若めで、いかつい、MMFの鉄道員なんですけど・・・」

 俺の説明に、ヴァンランはすぐに首を振った。

「じゃあ、ワンさんという人は?ツバメの絵を描くんですけれど。」

「ツバメ?」今度はヴァンランも興味を感じたらしい。「ワン――知らないなあ。『王』っていう奴も知り合いに何人もいるけど、ツバメの絵は上手じゃないからね。」

「『王』じゃなくて、『忘』です。」

「いずれにせよ僕の知り合いじゃなさそうだ。」

「本当に知らないんですか?」

「もしその人たちが燕五使徒に関わっているとしても、僕たち五使徒は互いに仲間の情報を知らされていないんだ。だから僕からは何とも言えない。」

 ヴァンランはサングラスをかけ直すと、俺の前に手を差し出した。

「じきに周囲が騒ぎ始める。そろそろここを出た方がいいね。僕は暫くあの駅を何度も尋ねる予定だから、そこで色々話すべきことを君に伝えるよ。とりあえず、よろしく。」

 出されたヴァンランの手を、若干はばかりながらも、俺は自分の左手で握った。

 ヴァンランは書庫のさらに奥へと進んでいった。俺がきびすを返し、もう一度振り返った時には、ヴァンランのこざっぱりとしたパナマ帽は、もう消えていた。

 ――厄介なことになってしまった。

 通路につながる書棚の裏側へと向かいながら、俺は力なく肩を落とした。

 一週間前、目が覚めたら、俺は異国の地を走る列車のベッドにいた。そして俺の名前を聞いて一方的に俺を「ツバメ」と決めつけた車掌と、読心術を心得たサングラスの持ち主である運転士に会った。さらに二人の紹介で、「ツバメ」の絵を描く、世界中全ての言語をペンから紡ぎだす不思議な女性と知り合った。何の関係もないところに放り込まれたと思っていた俺だが、今「ツバメ」の中の一人と出会い、そして自分もその仲間の一人であると打ち明けられる。次々に俺の前で、「偶然」が、身に覚えもない「必然」へと変化していく。

 でも、だからどうしろと言うのだろうか。書棚に並ぶ数々の本が、重々しく頭上から俺を睨んでいる。脳天に、古傷がうずくような痛みが走る。ただ、怖かった。俺の覚え知らぬところで、「必然」は着々と歩みを進めているように思えて。

駅に出たが、チャンはいなかった。俺の方も、会いたい気分ではなかった。細かく調べるまでもなく、俺は改札の前を素通りし、あの車掌たちが出てきたという通路へ向かった。

タイル張りの通路は、やがて坂になり、階段が現れる。漏れる光を認めると、すぐに光華楼の前に俺は現れた。また学生たちが驚いた表情で俺を見てきたが、俺は気にせず、ただ暫く、呆然と、聞こえない音を探すかのように、じっと立ちすくんでいた。

 よく考えれば、チャンがいなければ、俺は駅には戻れない。だが、それも今はどうでもよかった。もともとあの駅は俺の戻る場所ではないのだ。戻るべき場所へは、戻ろうという意志がある限りは、戻れる気がした。偶然そう思ったのか、必然か。

「龍也――――?」

 重たい体が息を吹き返したように、ぶるっと大きく震えた。

「マジで、龍也―――?」

 同じ大学を受けた時から、同じ机に座った時から、ずっと聞き続けてきた、つっけんどんで、だから快いその声に、そう呼ばれた。

 俺は振り返り、身震いするまま声を上げた。

「あかり―――」


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