第三章 邂逅 その4
五
俺達がエスカレーターで降りて来るなり、チャンはワンのもとに駆け寄った。瞳を見つめる。額に触れた手は、頬へと下りていく。二人は黙して語らなかったが、ワンさんの表情からチャンが何かを――それも急いで――見つけようとしていることは容易に分かった。
「忘さ、印章の展示室のところで長居をしていたんだ。」
イチローの言葉に、チャンは顔を上げて。
「印章――?」
俺はチャンの表情が硬くなるのに気付いた。緊張しているというよりも、あえいでいるような、苦い表情だった。突然チャンの体が傾いたので、慌てて俺はチャンの肩を支えた。
「大丈夫だ――」チャンは俺の手を払いながら。「――それで、結局『ツバメ』は見つからなかったのか?」
「それならタツナリが答えてくれるってさ。」
俺はイチローの顔を見た。何の変哲もない、忌々しいサングラスが光っている。
「どういうことだ?」チャンの射るような眼光。
俺はたった今起きた出来事を、チャンとイチローに伝えた。鼓動は未だ不安げに震えている。
「――本当に、そいつはいなくなったのか?」
チャンの表情はすぐれない。
「いたのは確かだ。でも」俺は遠慮がちにつなげた。「いついなくなったかは、あまり自信はない。」
「そいつと話は。」
「してない。」
「イチロー。」チャンは言った。「どう見るんだ?」
「うーん・・」イチローは考えるふりをして、音声案内機を受けつけに返却した。
「タツナリが目を離している間に、その人が展示室から出て行っただけなんじゃないの?たとえいたんだとしても、もうここにはいないよ。それにそろそろ帰らないと。」
いたって現実的な回答に、俺はあっさり納得した。が、チャンは、
「でも、ワンも、だぞ?ワンも何かに気付いていた。」
チャンは俺の方を振り返りながら、
「いなくなったんだろう?そいつは。じゃあ何で捜そうとしないんだ?どうしてお前ら、もうこのまま帰ろうとするんだ?まだ相手は近くにいるはずだぞ?」
「もういないよ、チャン。」イチローは言った。「忘を見てみなよ。今はいつも通り、すっかり落ち着いているじゃないか。」
イチローの言う通り、小柄なワンさんの両肩には、俺が初めて見た時のように、静かな平穏が腰を下ろしていた。瞳にも、先程までには強い意志を感じない。
「今じゃない、さっきだ。直前まで、ここにツバメがいた。確かだ。魯迅公園でワンがツバメの絵を描いたのを見ただろう?見たよな?ワンの予感は正しかった。正しかったんだ。だからその証拠が消え失せる前に、早く―――」
「チャン」イチローはチャンの肩を押さえて。「チャンが慌ててどうするんだよ。らしくもない。」
チャンは口籠った。広い両肩は不穏に上下に揺れていた。
俺たち四人は博物館をあとにした。空は灰色の雲のせいで、低く重苦しく感じた。靴の音、タイヤの音、クラクション。頭上には雨の気配。手を伸ばせば触れられそうな駅の出入り口は、あたかも蜃気楼のように遠く感じる。足どりは鈍く、空気も沈んでいる。
すると突然、背後で聞こえていた足音が途絶え、勢いよく逆走する音に変わった。俺と、イチローと、それからワンさんは、急いで振り返った。俺たちの後ろを億劫そうに歩いていたチャンは、すでに博物館の中へ飛び込んでいた。
「チャン!」イチローは叫んだ。
「お前らは戻ってろ!ちょっと見たいものがある!」
言うが早いが、チャンの姿は建物の中へ消えてしまった。
急いで後を追おうとするイチローを止めて、俺は言った。
「ワンさんと先に戻っていて下さい。俺が見てきますから。」
そう言うと、イチローの返事も待たずに、俺も博物館へと駆け出した。
怪訝な顔の受付嬢にIDカードを見せ、俺は慌ただしくエスカレーターを駆け上がった。他の展示室には脇目もふらずにひた走ると、果たしてチャンが立っていた。
印章の展示室だった。汗まみれのグラサン男の俺を避けるようにして展示室へ入った観光客たちは、ガラスケースに貼りついたように動かないもう一人の不審人物に、思わず足を止める。
「――チャン。」
俺は、ゆっくり、展示室に、足を踏み入れた。幅の広いチャンの背中は直立不動だ。
「――チャン。」
周囲の視線をはばかりながら、少し大きめに名を読んだ。人だかりの出来ている他のガラスケースとは対照的に、そこはチャンの独占状態だった。
隣に立ち、俺は三度呼んだ。
「――チャン。」
不動の体が反応した。手許に何かが見えたが、それも一瞬だった。電撃でも受けたかのように、チャンは素早く振り向いた。その時の表情は忘れようにも忘れられない。強気な気性に後押しされた頼もしさを持つ男が、その時だけは、あまりに弱く、無防備で、どこかに逃げ場を求めている、そんな表情をしていた。
「――どうしたんだよ、チャン・・・」
俺は気が動転していた。ガラスケースの光に照らされたチャンの顔を見るや、俺は思わず目を背けた。
チャンは徐にサングラスを外し、手の甲で目蓋を拭っていた。ふと、俺の脳裏に、チャンが俺をワンさんに最初に会わせた時のことを思い出した。あの時も、チャンは突然激高し、かと思えば、声の出ない嗚咽をもらしていた。だが、今のチャンは、それよりもずっと脆く見えた。あの時、チャンの肩を震わせたのがやり切れなさからくる失望なら、今は影のない恐怖なのかもしれない。
衆人環視の中、俺はチャンに話しかけようとしたが、俺の手が背に触れたとたん、チャンはサングラスもかけずに、いきなり俺の両腕をがっしと掴み、ほとんど哀願するような声で、何度も叫んだ。
「俺は死にたくない!死にたくないんだ!アシハラ・・・・俺は死にたくない。焼かれて死ぬのも、撃たれて死ぬのも、ましてや隣で人が固くなっていくのを見るのも、もうたくさんだ。アシハラ・・・・俺は死にたくない。いや、もう死んだんだ。死んだんだぞ、俺は?なのにどうしてまた死ねと・・・・ああ、アシハラ・・・俺は・・・俺は・・・死にたくない、死なせたくない!」
「チャン、しっかりしろよ、おい!」俺は泣きそうになって大声を上げた。
「アシハラ・・・・死なせるな・・・俺を・・・・死にたくない・・・死にたくねえ!」
「チャン・・・しっかりしろよ。誰も死ねなんて言っていないし、大丈夫だから。チャン。」
「アシハラ・・・・アシハラ・・・・」
「チャン!」俺も大声で叫んでいた。「アシハラって、俺のことかよ?おい!」
ふと、チャンの叫びが止んだ。あたりは異様な静けさに包まれた。いつの間にか展示室には、俺とチャンの二人だけになっていた。チャンは、赤い目をきょとんとさせて、まるで初めて自分の名前を聞いたように、小さく尋ねた。
「チャン―――俺が?」
「――は?」
「そうか、チャンか、俺は――そう言えばそんなこともあったな・・・」
チャンは黙って頷くと、サングラスをかけ直した。そして、今の今まで泣き叫んでいたことが嘘のように、平然とした様子で、自ら展示室から出て行った。慌てて俺はチャンの背中を追いかける。
エスカレーターを早足で降りる。吹き抜けの空間を急ぎ足で通り抜ける。再び暑い屋外へ飛び出す。俺より歩幅も速度も一段上のチャンは、俺が追いかけてくるのを知ってか知らずか、足を徐々に早めて、駅への地下通路へと潜っていく。
上海南京路方面のホームへの階段を降りていくと、突風で制帽が頭から飛び上がった。慌てて飛びゆく制帽を捕まえ、制服の前ボタンをぎゅっと掴みながら階段を降りていくと、チャンが、煌々と光る赤いライトを見ながら、のんびりと呟いた。
「――電車、行ってしまったか・・・。」
列車のライトが見えなくなるのを見届けると、チャンは電光掲示板で次の列車の時間を一瞥し、椅子に腰を下ろした。
幾分、いや随分、チャンは平静を取り戻したようだった。これほど情緒の不安定な男も初めて見たが、今は何も言わず、静かにチャンの隣に座ることだけにした。無言のまま、二人は反対側のホームのレールを眺めていた。轟音が耳に届くまで。
訳の分からないアナウンス。多分、エスペラント。それから先のアナウンスは、俺にはどれも、日本語だった。
「只今、南京路、東方明珠塔方面の列車が到着します――」
「龍也。」
チャンの口元が動いた。列車の音と重なって、正確には聞こえなかったが、俺は返事をした。続けてチャンが言った。
「お前―――まだ痛むのか?」
チャンのサングラスには、ホームに滑り込む列車が映った。俺たちは列車に乗り込む。
時間帯のせいか、そこまで混雑してはいなかった。戸袋の傍に俺たちは並んだ。音を立てて扉が閉まる。列車が動き出す。車窓は闇に包まれる。電光表示に『上海南京路』が点滅する。
乗客たちは連れと歓談していたが、なにぶん騒音が大きいせいで、数歩離れているだけで聞き取れない。だから、俺にしか聞こえない声でチャンが語りかけてきたことに、最初は気がつかなかった。
「さっきは。」
「聞こえないけど?」
「さっきは。」少し大きな声でチャンは言った。「――見苦しい姿を、見せたな・・・」
「いや――」俺はどう答えたものかと思いつつ。「――別に、謝るほどでもないだろ?」
俺の言葉に、少しチャンは元気を取り戻したようすで、そうか、と言った。
「でも、正直、びっくりしたけどさ―――」
何気なく俺が続けると、チャンは言った。
「博物館のソファーで居眠りしていたときさ、夢を見たんだ。」
「夢。」
チャンは周囲を静かに見回してから、手でついたてを作り、口に当て、耳元で、
「――上海事変だ。」
「―――?」
「上海事変。」チャンは幾分顔を曇らせて。「知らないのか?」
「そりゃあ、知っているけどさ・・・・」俺は戸惑いながら。「・・・ここでかよ?」
チャンと同じように乗客に目を向けてから、再び俺はチャンと向き合った。そう言えば、ここは上海で、チャンも中国人であることに、今更ながら気づいたように思えた。自然と、吐く息の重みが口に伝わる。
「――二回あったのだよな?一回目は一九三二年初め。日本が満州事変を起こした次の年、国際社会の注目を中国東北部から反らし、中国の抗日運動を抑え込むために、日本側が軍隊を上海に動員した事件。もともとは日本人僧侶に対する中国人側の暴行殺人が原因となって中国側の反日活動が激化、上海の日本人居留者たちの安全確保のために軍隊を派遣したことになっているけど、実は暴行殺人事件の黒幕は関東軍だった。中国側の激しい抵抗に遭い、結局戦闘は四か月後に終了。そして二回目は一九三七年の夏。七夕に起きた盧溝橋事件後、日本は北京や天津を占領、その勢いで蒋介石の南京政府を降伏させ戦争を早期に終わらせるために、上海へ進軍した。上海は一時的に日本軍によって占領されることになるけれど、後から見れば、これが日中戦争泥沼化のきっかけにもなった。」
小声の早口で俺が話すと、チャンは、ほう、と感心した様子で、
「なるほど――とすると龍也は、それなりに歴史を知っている日本人、なわけなんだな。独学か?」
「まあ・・・」俺はいかんとも反応しがたく、口を歪めて。「家庭の事情、だな・・・」
チャンは眉をひそめた。
「いや――」俺は口をつぐんだ。「――俺のひいじさんが、二回目のに巻き込まれたんた。」
「―――」
「軍人としてじゃない。丙種不合格・・・・って言って分かるかな。とにかく、言語学者の卵だったんた。」
チャンは訝しげに空咳をした。「どうして言語学者の卵がそんな時に上海にいたんだ?」
「知らねえよ。ひいじいさんは俺が生まれてすぐに死んじゃったし・・・」
「そうか・・・話したくないこと、話させて、すまん――」
「いいよ、別に。」俺は言った。「それで、急に何の話だよ?」
「あぁ――」チャンは答えた。「――俺も二回目のを体験したんだ。夢でな。」
「・・・」
「・・ほら、上海は日本の横浜よりも古い貿易港で、当時も都会だったろ?別にさ、後から生まれたお前にどうこう言うつもりは毛頭ないけれど、ああいう都会での戦争は、夢の中でも関わりたくはないな。」
「・・そうだな。」
俺の反応に、チャンは笑って。
「大丈夫だ、俺は。もう、痛まない。覚悟は、出来た。」
「――何だよ、また・・」
一体チャンは夢の中で、どこで何をしていたのだろうかと尋ねようとしたが、ドアの前に立っていた俺たちの肩を叩く人がいた。不安げな顔の乗客数人だった。立ち聞きされていたのかと思い、背筋が妙に寒くなったが、乗客たちの口から出た言葉は、
「すみません。私は南京路に用事があるのですが・・・この電車は、いつ着くんでしょうか?」
俺はチャンと顔を見合わせ、それから時計に目をやった。
「確かに・・」
乗客の言う通りである。上海博物館から中心駅である上海南京路までは二分もかからない。しかし列車は優に五分以上は快走を続けている。その上でいくら走っても列車は闇の中を進むばかりなのだ。
気付けば、座席に座っている乗客たちも、一様に心配そうな面持ちで俺たちで見ているのだ。チャンは冷静に、分かりました。今確かめてきますと言い、
「龍也、最後尾行くぞ。ついて来い。」と俺の背中を叩いた。
十両編成の列車の中を、俺たちは逆向きに進んでいった。どの車両の乗客も、俺たちと目が合うたびに、どうなっているのかと尋ねて来た。中には苛立ちのあまり絡んでくる男もいたが、そういった乗客一人ひとりに、チャンは丁寧に応じていた。さすがは、と思う一方で、これがつい先ほど博物館で泣き出した男だと思いだすと、その変わりようが不安だった。
最後尾の車両に渡る直前、窓の外が光に包まれた。駅の明かりだ。乗客たちは口を開け、チャンと俺も不意に現れた駅を見た。上海駅よりはずっと低い天井。長いプラットホームが黄色みがかった照明によって浮かび上がっている。乗客は一人もいなかった。駅はあっという間に闇に飲まれた。
「今の駅は―――?」
「さあ。速度が速すぎて駅が読めなかった。」チャンは窓に付けていた顔を離し。「それにしても見たことない駅だ。・・あれも世界鉄道の駅なのか?」
「そうじゃなかったら、どうしてこの電車が通るんだよ?」
最後尾に辿り着き、乗務員室の扉をチャンは叩いた。出て来た車掌はチャンの知り合いのようだった。
「どうなっている。運転士からの連絡はあったか?」
チャンの言葉に、車掌は一瞬眉をひそめたが、黙って首を横に振った。
「俺も博物館を出て暫くしてから、妙だと思って運転士に連絡したんだ。だが運転士側からは何の連絡もない。」
「運転室に直接行ってみるのは?」俺はチャンに尋ねた。
「そいつは無理だ。」チャンは言った。「どうもこの編成は、前後非対称のようだからな。つまり、最後尾のこの車両は、車内から乗務員室へ出入りできるが、先頭車両は、乗務員室と車内が完全に分け隔たれている。運転室に入るには、車両の外側にある扉からしか入れないんだ。」
「ところで、チャン――」車掌は訝しげに。「俺もお前も上海人だけど、俺は勤務中なんだ。エスペラントで話すのが社の規則じゃないか。なぜ上海語で話す。それに」車掌は俺を指差して。「こいつ、誰?」
「あぁ――新入りだ。」チャンは俺の肩に手を置いて。「まだエスペラントを習得出来てなくてよ、俺が面倒役を引き受けているのさ。」
車掌はしかめた顔を崩さなかったが、それ以上は追及しなかった。
「とにかく」チャンは言った。「ここは、循環ラインから離れている。運転士にもう一度連絡して、一旦停止するよう伝えてくれないか。このままではどんどん南京路から離れていってしまう。」
「りょうか――」車掌は頷きかけて、いきなり前のめりになり壁に体を打ちつけた。俺も背中から倒れかけたが、チャンが素早く支えた。急ブレーキがかかったのだ。チャンは扉についた丸窓から車内を覗いた。車内でも突然のブレーキに、乗客たちが青ざめ、慌てているようだった。チャンは急いで車掌室を飛び出し、乗客たちを宥め始めた。俺はチャンを追って車掌室を出た途端、急に身が軽くなり、足が浮いたと思うと、一メートル程先に胸から床へ落ちた。起き上がる暇もない。乗客の悲鳴と列車の金切り声がユニゾンする。車輪の絶叫は五線譜を駆け上がり、頂点に達する。断末魔のような叫びを耳に刻ませて、列車は完全に、完全に停車した。
「・・・何て運転だ・・・」年配の乗客を肩に抱きながら、チャンは舌打ちした。
俺は吐き気を催しながら、ゆっくりと立ち上がった。目元がくらくらする。不気味な程の静けさの中、乗客たちはこわごわと顔を上げた。一人の乗客が声を漏らした。つられて誰かも何か言葉を口にした。俺は胸の痛みを忘れてしまった。針で刺すような頭の痛みの一端が、脳天に再び蘇ったからだ。
気絶していたのか、だいぶ間があって、ようやく車掌が扉を開いた。何人かの乗客は勇気を出して降りたが、ほとんどはドアの縁で踏みとどまっていた。俺は背中を押されて外へ出された。見上げると、果たしてチャンだった。
俺たちの足音が冷たい床に響くと、端から波のように白い光が頭上を滑った。それと共に、灰色の壁と埃の積もったプラットホームが、眼前に音もなく現れた。
「――痛むのか?」
チャンはそれらしきことを口にしていた。俺は脳天で何かが解き放たれようと疼くのを必死にこらえようとして、俺はよろめいた。振り返った俺の目には青と白の近郊列車ではなく、銀色の流線形の特急車が映っていた。
「おい、龍也、大丈夫か?」
タイル張りの床、動かない電光掲示板、殺風景な改札機の列。
「・・・龍也・・・?」
長い通路、そこに落とされた四角い光。森の茂み。砂利道。朱い鳥居。
無だったはずの頭の中のその場所から、ありもしない記憶が湧き上がろうと、もがいている。
「――見ろ、龍也、看板だ――」
遠くに聞こえるチャンの声を頼りに、俺は病弱そうな顔を上げた。
記憶と現実の駅名看板が重なりかけたが、すぐにそれらは分裂した。それと共に、俺の脳天の痛みも和らいでいった。
KIOTO・・・ではなかった、
「妙だな。」チャンは看板を覗き込んで言った。
「ここの駅名だ。『SHANGHAO』。ここも、『上海』って駅名らしい。」