第一章 轟音
本当に、奇妙なこともあるものだ。
俺の耳奥では、今なお、あの音が物々しく響いている。
一
八坂を詣でた年明けすぐに、必修のリーディングの期末試験があった。大学の一年は早い。この前まで冬休みだったのに、これが終わればもう春休みかと思うと、狂うほどに勉強していた去年の自分に何だか申し訳ない。
この一年の俺の堕落ぶりは、解答用紙が如実に示している。傷一つ無い、汚れ無き、白。要するに、白紙答案なのだ。
シャーペンが解答を用紙に書きなぐる音。試験監督と学生の息遣い。すっかり試験場の空気に馴染んでしまったその音は、取り立てて耳に障るわけでもない。むしろ無音と言った方が自然だった。
リーディングは、とことん苦手だ。ついでに言うと、ライティングも、である。読めないくらいに試験問題が難しい訳ではなく、そもそも俺が「読めない」のだ。読めてせいぜいひらがな、カタカナ、それと申し訳程度の漢字くらい。小学校の思い出と言われると、一人居残ってノートに四字熟語の直しをしていた時に、教室から拝んだ、滲んだ太陽が眼前に蘇る。それでいて現役でこの大学の入試を突破できたのは、奇蹟と言わずに何と言おう。
ひょっとしたらと思って、朝鮮語を第二外国語としてみたものの、ハングルが俺に語りかけてくることはついぞなかった。彼らは、俺にとっては、飽くまでも丸や四角の無機質な記号に過ぎなかった。彼らの奏でる異国語の調べなど、俺には到底聞こえないのだ。
とにかく、この世の中の文字体系は、俺と反りが合わないらしい。そんな気がする。
というわけで、俺はもう暫く、語らない英文と睨み合いを続けていたものの、程なくして角膜あたりに幾何学模様の浮遊物が現れ始めた。おそらく脳回転が飽和状態に達してしまったのだろう。答案を裏返すと、俺は、窓辺に横たわる吉田山の林に目をくれていた。山の向こうには観光客が邪魔で仕方ない銀閣寺やら哲学の道やらがある。情趣のあった紅葉の面影をすっかり脱ぎ落したこの裏山に目をくれながら、少し冷めてきた頭の奥から、今日もあかりと昼飯を食うはずだということを思い出した。そつのなさにかけては並ぶ者の無い万能女子で、今ではすっかり教授様方から秘蔵っ子待遇を受けている。我らが文学部きっての優等生のあかりだ。それに比べて俺は・・・と、再び視界には吉田山が広がり、この大らかな母なる裏山は、毎年こんな風に留年候補生を温かく見守ってきたのだろうかなどと、情けないことを考え始めた。そんなのが五分、いや十分ほど続いた。
・・・・。
机をさっと撫でるように、微かなノイズが空気を震わせた。
やがてそれは、前頭葉に集中した熱を冷ますように、ゴーッとくぐもった、なおかつ不安感をいたずらにくすぐるような硬い轟音となり、ガラガラと賑やかな音を立てて、踏みつけるように頭上を通り越すと、忽ち細くなり、揺れた振り子の振れ幅が徐々に小さくなっていくように、静寂の中へと帰っていった。
俺だけを残して。
・・・・。
ミステリィとは、かように唐突に、しかも無責任にやって来るもののようだ。
本当に勝手なものだ。よくもまぁヒトが「再履修」の烙印に怯えている時に、と叫びたいはずのくせに、その時既に俺の関心事は、完全にその「音」に奪われていた。
俺はすぐさま解答用紙に「答え」を書きつけ始めた。音の正体はすぐに分かった。列車だ。線路と車輪が擦れてキーキー鳴る、耳に不健康なあの音もちゃんと聞こえたのだ。でも待て。この付近では、叡山電車が地上を走っていて、鴨川沿いに京阪電車が地下線を通っている。けれども、そのどちらもこのキャンパス内まで音が聞こえるはずがないし、そもそも三階のこの教室で地下を走る列車の音が聞こえる訳がない。
次に俺は顔を教室の方へ戻した。しかし、辺りの学生に異変は無く、シャーペンの硬い旋律は、小気味よいテンポで天井を叩いていた。それどころか、白髪頭の老教官が通り際に、葦原君、もう出来たのかい、君は一年を通してほとんど授業に来ていなかったからね、これ落とすと厳しいから頑張りなさいと悲しいお告げをなさった。今、この瞬間に、一人の学生の心を乱すような奇妙な出来事など、何一つ起こらなかったのだ。それが、この教室の常識になっていた。
俺は暗澹たる思いがした。「その他大勢」の反応は、今しがた俺の聞いた音は「幻聴」であるとの結論を下したのだ。入試の時に鼻血を出してパニックになったことはあるが、突如として耳鳴りが聞こえ出したことは一度もない。しかも、さっきのは幻聴にしてはリアル過ぎる。鉄橋の下できったらさぞあれほどの音がするのだろう、というくらいのやかましさだったのだ。それが他人には聞こえない?じゃあ、あれは耳鳴りか。空恐ろしい耳鳴りだ。試験の英文を読んだくらいで、列車並みの轟音がするなら、将来英語の論文を読むことになれば、爆撃機のような爆音を聞かされるのだろう。やれやれ、文字に対する俺の拒否反応もとうとう常人を超えちまったな・・・と自嘲する俺の肩に、ふと生温かいものが触れた。いつの間にか閉じていた目蓋を俺は開ける。
白髪頭の教官が、愛想の尽きた顔で俺を覗き込んでいた。
「葦原君―――午後、暇かね。」
教室には俺と教官の二人しかいなかった。円を作るように置いた腕の中の解答用紙は、意味不明な記号で真っ黒になっており、シミが角を柔らかくしていた。