第9話 月下の暗闘と、万花の鏡
江南の夜は、本来であれば虫の音が心地よく響く、とても穏やかなものだ。
だが、その日の深夜。温詞たちの隠れ家である古びた屋敷の周囲を、呼吸すら躊躇われるほどの、凍りつくような殺気が包み込んでいた。
(……なによ、これ。昼間の『鉄腕門』なんかとは比べ物にならない。本物のプロが来た……!)
寝室で目を覚ました小蘭は、反射的に枕元の短剣を握りしめた。
彼女自身も暗殺者の修業を積んだ身である。だからこそ、肌をチクチクと刺すようなこの異常な気配の正体が、痛いほどに理解できた。
無意識のうちに奥歯が鳴り、指先が微かに震える。
小蘭が音を立てずに部屋を抜け出し、縁側へと向かうと、そこには信じられない光景が広がっていた。
温詞が、月明かりに照らされながら、静かに二煎目のお茶を淹れていたのだ。
彼は焦る素振りなど微塵も見せず、湯気を立てる急須から、美しい手つきで茶碗へと琥珀色の液体を注いでいる。
「……お前、気づいてないの!? 外が完全に包囲されてるわよ!」
小蘭が声を押し殺して叫んだ、ちょうどその時。
「んん……温詞、どうしたの……?」
不穏な空気を察知したのか、第三皇子である黎明が、目をこすりながら寝室から出てきた。
温詞は茶器をコトリと置き、いつもの優しく穏やかな微笑みを浮かべて振り返る。
「レイ、起こしてしまいましたか。悪いネズミが、庭に迷い込んだようです。少しお掃除の仕方を実演して見せましょうか」
「お掃除? うん、ぼくも見たい!」
黎明はまだ寝ぼけ眼のまま、温詞の隣にちょこんと座った。
その無邪気な様子に、小蘭は頭を抱えそうになる。
(バカなっ! こんな殺気の中で、子供を見学させるなんて正気の沙汰じゃないわ!)
◇◆◇
小蘭が温詞に詰め寄ろうとした、その刹那。
ヒュッ! ヒュンッ!
屋根裏、床下、そして庭の鬱蒼とした木々の陰から、黒装束に身を包んだ複数の影が、一斉に飛び出してきた。
皇帝直属の暗殺部隊――『暗鬼』の精鋭たちである。
彼らは一言も発することなく、空中で身を翻しながら、音もなく空気を切り裂く特殊な投剣を無数に放った。
致死性の猛毒が塗られた黒い刃が、四方八方から温詞と黎明めがけて降り注ぐ。
「危ないっ!」
小蘭が短剣を構えて飛び出そうとするが、温詞の動きの方が遥かに早かった。
「……作法がなっていませんね。お客様には、お茶をお出しするものです」
温詞は縁側に座ったまま、空いている左手で、木製の『茶托』を一枚つまみ上げた。
そして、手首のスナップだけを使い、それをフリスビーのように軽く前方へと投げ放つ。
キィィィンッ!
ただの木片であるはずの茶托が、空中で信じられない軌道を描き始めた。
温詞の気を帯びた茶托は、生き物のように跳弾を繰り返し、飛来する毒の暗器を次々と空中で叩き落としていく。
バラバラバラッ!
無数の暗器が、火花を散らして縁側の外へと弾き飛ばされた。
茶托はぐるりと円を描いて温詞の手元へと戻り、彼は何事もなかったかのように、その上に茶碗を乗せた。
「なっ……!?」
暗鬼の刺客たちが、驚愕に目を見開く。
(信じられない……。座ったまま、しかも茶托一枚であの飽和攻撃を完璧に防ぎ切った!?)
小蘭は恐怖も忘れ、ただ呆然とその美しすぎる体術に見惚れていた。
◇◆◇
「小癧な真似を……!」
業を煮やした暗鬼のリーダー格が、懐から黒い玉を地面に叩きつけた。
ボンッ!
濃厚な煙幕が弾け、周囲の視界を一瞬にして奪う。
その煙に紛れ、リーダーの男は温詞の死角――背後から音もなく忍び寄り、必殺の鋭い短刀を温詞の心臓めがけて突き出した。
「もらったぁっ!」
男が勝利を確信した、その直後だった。
「奇術・『万花鏡殺』」
温詞が右手の指先で、宙を滑るようになぞった。
その瞬間。空間の密度が急激に歪み、月明かりを反射してキラキラと輝く、無数の『鏡の破片』のような気の壁が、温詞の周囲に出現した。
まるで、巨大な万華鏡の中に迷い込んだかのような、美しくも恐ろしい光景。
「なんだ、これは!?」
男が放った必殺の突きが、その見えない鏡の壁に触れた。
ガキンッ! という甲高い音と共に、あり得ない現象が起きる。
男の腕が、見えない力によって強引に軌道を百八十度反転させられたのだ。
「がぁっ!?」
男の手から放たれた毒の短刀は、そのまま彼自身の右肩に深く突き刺さった。
さらに、煙幕の向こうから他の刺客たちが放っていた追加の暗器も、すべて鏡の壁に弾き返され、正確に持ち主の足元や肩へと跳ね返っていく。
「ぎゃあぁっ!」
「ああっ! 足が……!」
静かな庭に、暗殺者たちのくぐもった悲鳴が次々と響き渡った。
全員が、自分自身の放った毒の刃によって身動きが取れなくなってしまったのだ。
鏡の破片がパリンと音を立てて幻のように消え去ると、そこには、血を流して庭の土に這いつくばる暗鬼の部隊の無惨な姿があった。
「……自分の放った毒は、自分で責任を取るものですよ」
温詞は冷徹な声で、静かに言い放った。
◇◆◇
「ば、化け物め……!」
右肩を押さえながら、リーダーの男が震える声で呻いた。
彼は恐怖に引きつった目で、縁側に座る温詞を見上げる。
そして、先ほどの一瞬の攻防で見せた、人間離れした気の操作と術の型に思い当たり、ハッと息を呑んだ。
「貴様……その技、まさか宮廷の……最強と謳われたあの武術師範か……!」
男の問いかけに、温詞は無言で立ち上がり、庭先へとゆっくり歩み出た。
雲が流れ、月の光が温詞の顔を照らし出す。
そこに在ったのは、いつもの穏やかで優しい優男の表情ではなかった。
深淵を覗き込むような、氷のように冷たく、絶対的な死を悟らせる瞳。
かつて帝都の裏社会をたった一人で震撼させた、『冷徹な最強武師』の顔がそこにあった。
ゾワァッ……!
リーダーの男は、圧倒的な実力差と死の恐怖に、完全に心が折れる音を聞いた。
「……忘れなさい」
温詞は静かに見下ろし、地を這うような低い声で告げた。
「死人に口なし、とは言いませんが。……今の私は、ただのしがない居候ですので」
その言葉に含まれた絶対的な警告に、生き残った刺客たちはガチガチと歯を鳴らして震え上がった。
「ひぃっ……! 退け! 退けぇっ!」
彼らは這う這うの体で立ち上がると、仲間を引きずりながら、煙が散るよりも早く夜の闇の中へと逃げ去っていった。
◇◆◇
庭に、再び静寂が戻った。
虫の音が、何事もなかったかのように鳴り始めている。
小蘭は縁側の柱にしがみついたまま、呆然と立ち尽くしていた。
「今の……本物の道術なの……? あんな、空間を歪めるような真似……人間の業じゃないわ……」
彼女の呟きに、温詞はくるりと振り返った。
その顔には、すでに先ほどの冷徹な気配は微塵もなく、いつもの人の良さそうな微笑みが浮かんでいる。
「さあ、すっかりお茶が冷めてしまいましたね。もう一度淹れ直しましょうか」
温詞は茶碗を片付けながら、ポカンとしている黎明の頭を優しく撫でた。
「お掃除はこれでおしまいです。レイ、夜更かしはお肌に良くありませんから、もう一度おやすみなさい」
「うん! 温詞のお掃除、キラキラしててすっごくかっこよかったよ!」
黎明はあくびを一つすると、満足そうに寝室へと戻っていった。
(……ただの居候、ですって? 冗談じゃないわ。とんでもない災厄を呼び込む、とびっきりの化け物じゃないの……!)
小蘭は引きつった笑いを浮かべながら、江南の夜空に浮かぶ月を見上げた。
彼女の奇妙な弟子入り生活は、どうやら命がいくつあっても足りないものになりそうだった。
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