第8話 江南の英雄、弟子を取る?
その日の江南の街は、一つの奇妙な噂で持ちきりになっていた。
「聞いたか? あの悪名高い『鉄腕門』が、たった一人の男に壊滅させられたらしいぞ」
「ああ、聞いたとも! なんでも、ただの『竹箒』をひと振りしただけで、大男たちを森の彼方まで吹き飛ばしたんだとか」
「人間の皮を被った竜神様に違いない! 我が街の英雄だ!」
水路沿いの茶屋でも、市場の片隅でも、人々はその『竹箒の達人』の話題で持ちきりだった。
そんな喧騒の中心である大通りを、深く編み笠を被った温詞が、ひっそりと歩いていた。
隣には、上等な飴玉を頬張って上機嫌な第三皇子、黎明が手を繋いで歩いている。
「温詞、なんだかみんな、楽しそうにお話ししてるね!」
「シーッ。レイ、あまり大声を出してはいけませんよ」
温詞は周囲の目を気にしながら、足早に路地を抜けようとした。
皇宮の追っ手から逃れるため、目立たず、ひっそりと暮らすのが江南での最大の目的だったはずだ。それなのに、昨日の鉄腕門との騒動のせいで、完全に街の注目の的になってしまっている。
(目立たずに隠れ住むはずが……これでは本末転倒ですね)
温詞が心の中で深いため息をついた、その時だった。
「あっ! いらっしゃいましたよ、英雄様!」
突然、大通りの向こうから、聞き覚えのある大声が響いた。
見れば、昨日助けた老舗楼閣『翠湖楼』の店主が、満面の笑みで手を振りながら駆け寄ってくるではないか。
「ひぃっ……」
温詞が思わず後ずさるが、時すでに遅し。店主の声を聞きつけた街の人々が、わらわらと集まってきた。
「おおっ、あの方が!」
「竹箒の達人様! どうか、うちの息子に武術を教えてくだされ!」
「英雄様! これ、うちの畑で採れた大根です! どうかお納めを!」
あっという間に人だかりができ、温詞と黎明はもみくちゃにされてしまった。
「皆様、誤解です。私はただ、庭のお掃除をしていただけの、しがない旅の者でして……」
温詞が苦笑いしながら弁明するが、興奮した群衆の耳には届かない。
「ご謙遜を! さあ英雄様、これは私からのささやかなお礼です。江南でも最高級の茶葉ですから、どうか受け取ってください!」
翠湖楼の店主が、立派な木箱に入った茶葉を無理やり温詞の腕に押し付けてくる。
そこへ、騒ぎを聞きつけた『金掌商会』の娘、麗月も護衛の飛燕を連れてやってきた。
「温詞さん、すごいです! 街中があなたの噂で持ちきりですよ!」
麗月は尊敬と憧れの入り混じった熱い眼差しを向け、飛燕は悔しそうに舌打ちをしている。
「ちくしょう、俺だって鉄腕門くらい……いや、竜巻は無理だけどよ」
「……まいりましたね」
温詞は冷や汗を流しながら、この熱狂からどうやって抜け出そうかと頭を悩ませるのだった。
◇◆◇
どうにか人混みを抜け出し、両手いっぱいの野菜や貢物を抱えて隠れ家の屋敷に戻ってきた温詞たち。
だが、屋敷の門をくぐった先でも、さらなる頭痛の種が待ち受けていた。
ドサッ!
「……どうか、私を弟子にしてください!」
庭先に立つなり、元暗殺者の弟子である少女、小蘭が地面に勢いよく両膝をつき、深く頭を下げてきたのだ。
「小蘭殿? いったいどうしたのですか、急に」
温詞が荷物を置きながら尋ねると、小蘭は顔を上げ、真剣そのものの鋭い瞳で温詞を真っ直ぐに見つめた。
「昨日の夜の身のこなし……そして今朝の、箒の一振り。私はこの目で、あなたの底知れぬ力を見ました。師匠を超えるには、あなたのような化け物……いえ、達人に学ぶしかないと悟ったのです!」
小蘭は拳を強く握りしめ、地面に額を擦りつけるほどの勢いで懇願した。
「どうか、あなたの技を私に教えてください! 何でもします! 掃除でも、洗濯でも、薪割りでも!」
温詞は困ったように眉を下げる。
「お断りします。私はただのしがない武術師範です。人に教えられるような、大層な技など持ち合わせておりませんよ」
「嘘よ! あんな竜巻を起こしておいて、ただの武師なわけないじゃない!」
小蘭が食い下がるが、温詞は首を縦に振らない。
暗殺術を身につけている小蘭に、これ以上強力な技を教えるのは危険だと判断したのだ。それに、彼が教えるべき相手は、ただ一人――目の前にいる幼き皇子だけである。
「ねえ温詞、いいじゃないか! 小蘭お姉ちゃん、すごくお掃除頑張ってたよ!」
黎明が無邪気に温詞の袖を引っ張る。
「レイまで……。ですが、武術の道は生半可な気持ちで歩めるものではありません」
「なら、認めてもらえるまで勝手に修業させてもらうわ! この屋敷の家事は、全部私が引き受けるから!」
小蘭はそう宣言するや否や、ものすごい勢いで井戸へ走り、水汲みを始めてしまった。
(やれやれ……。しばらくは、騒がしい日々が続きそうですね)
温詞は小さく息を吐き、翠湖楼の店主から貰った高級な茶葉を手に、台所へと向かった。
◇◆◇
午後。
江南の心地よい風が吹き抜ける縁側で、温詞はゆっくりとお湯を沸かしていた。
最高級の茶葉にお湯を注ぐと、花のように甘く、そして深い香りがふわりと広がる。
温詞は目を閉じ、その香りを肺の奥深くまで吸い込んだ。
(……今だ!)
その穏やかな静寂を切り裂くように、屋敷の梁の上に潜んでいた小蘭が動いた。
彼女は気配を完全に殺したまま、両手から三本の鋭い暗器を同時に放った。
ヒュンッ! ヒュンッ! ヒュンッ!
空気を裂く微かな音と共に、毒の塗られていない刃が、無防備な温詞の背中めがけて一直線に飛んでいく。
(弟子にしてくれないなら、力ずくでその技術を盗んでやるわ。さあ、どうやって防ぐ!?)
小蘭が息を呑んで見守る中。
温詞は、振り返ることすらしなかった。
彼は茶器を手にしたまま、ただ静かに、閉じていたまぶたをパッと開いただけだった。
「道術・『一寸光陰』」
バチィィンッ!
温詞がまぶたを開いたその一瞬。
彼の目から放たれた不可視の鋭い『気』が、すさまじい風圧となって背後へと弾け飛んだ。
「なっ!?」
空中で、三本の暗器が見えない壁に激突したかのようにピタリと止まり、次の瞬間、バラバラと音を立てて縁側の床に叩き落とされた。
振り向くこともなく。
指一本動かすこともなく。
ただ『瞬き』をしただけで生じた風圧が、飛来する暗器をすべて叩き落としたのだ。
「ば、化け物……」
梁の上にいた小蘭は、恐怖と驚愕で全身の産毛が逆立つのを感じた。
もし今のが実戦で、あの風圧が自分に向かって放たれていたとしたら、間違いなく全身の骨が砕け散っていたはずだ。
温詞はゆっくりと振り返り、床に落ちた暗器を一瞥すると、涼やかな顔で小蘭を見上げた。
「小蘭殿。無駄な殺気は、せっかくの美味しいお茶の味を落としてしまいますよ。お茶菓子もありますから、降りてきなさい」
「……は、はい」
完全に戦意を喪失した小蘭は、すごすごと梁から降り、大人しく縁側に座ってお茶をすするしかなかった。
温詞の底知れぬ実力に対する畏敬の念が、彼女の中でさらに深く根を下ろした瞬間だった。
◇◆◇
場面は変わり、江南の街の裏側。
陽の光も差し込まない、じめじめとした薄暗い路地裏でのことである。
「くそっ、くそぉぉっ! あの優男のせいで、俺の築き上げたすべてが水の泡だ!」
汚水にまみれた壁に背を預け、元・鉄腕門の門主がギリギリと歯ぎしりをしていた。
たった一振りの箒で弟子たちを吹き飛ばされ、組織は壊滅。街の人々からも石を投げられる始末で、彼はいまや裏社会の権力を完全に失っていた。
「……随分と無様な姿だな、江南の裏を牛耳っていた男が聞いて呆れる」
突如、暗がりの中から氷のように冷たい声が響いた。
「誰だ!」
門主が立ち上がると、そこには頭から深い黒の外套を被った男が立っていた。
外套の隙間から、帝都の役人が持つ鈍色の金属証が妖しく光っている。
皇帝直属の暗殺部隊――『暗鬼』の長である。
「て、帝都の役人様が、こんな薄汚い路地裏に何の用だ……?」
門主が怯えながら尋ねると、男は懐から丸められた一枚の羊皮紙を取り出し、門主の顔に向かって無造作に投げつけた。
「その二人の顔に見覚えはないか?」
羊皮紙を開いた門主は、ハッと息を呑んだ。
そこに精巧な筆致で描かれていたのは、涼やかな目鼻立ちをした青年と、まだ幼い少年の似顔絵だった。
「こ、こいつら……! 間違いない、俺の門下生たちをコケにしやがった、あの忌々しい優男とガキだ!」
門主が憎悪に満ちた声で叫ぶと、黒外套の男は口元を三日月のように歪めた。
「素晴らしい。どうやら、本当にこの江南の地にネズミが逃げ込んでいるようだな」
「役人様! こいつらを探しているのか? なら、俺に任せてくれ! 俺の残った手下を総動員して、必ず居場所を突き止めてみせる!」
「ほう。良いだろう」
男は冷酷な笑みを深め、門主の肩をポンと叩いた。
「この二人の目撃情報を探せ。見つけ次第、すぐに俺に報告しろ。……だが、決して生け捕りにする必要はない。見つけ次第、周りの人間もろとも、皆殺しだ」
「へへっ、承知したぜ……! あの優男、絶対に八つ裂きにしてやる!」
復讐に燃える門主の濁った瞳の奥で、江南の街を血に染める恐ろしい陰謀が、静かに動き始めていた。
◇◆◇
隠れ家の屋敷は、穏やかな夕暮れ時に包まれていた。
庭先では、黎明が一生懸命に小さな拳を突き出している。
「えいっ! やぁっ!」
「違うわ若様、もっと腰を落として! 足の裏で大地を掴むのよ!」
「くっ……こう、小蘭お姉ちゃん?」
「そう、そんな感じ! 若様、筋が良いわね」
小蘭が付きっきりで黎明に武術の基礎を教えている。二人のやり取りは、まるで本当の姉弟のように微笑ましく、平和そのものだった。
だが、縁側に座ってその光景を眺めていた温詞の表情は、どこか険しかった。
不意に、北の方角――遥か遠くの帝都がある方角から、一陣の冷たい風が吹き抜けた。
(……この風が運んでくる、微かな鉄の匂い。血の匂いですね)
温詞は目を細め、静かに立ち上がった。
研ぎ澄まされた彼の感覚は、すでに江南の街に這い寄る、不穏で巨大な『影』の存在を確実に捉えていた。
(追っ手の手が、ついにこの街まで伸びてきたか。……静かな生活も、長くは続かないようですね)
温詞は愛用の長剣の柄にそっと触れると、夕陽に赤く染まる空を、静寂の中でただじっと見つめ続けるのだった。
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