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訳あり武師の江南暮らし ~宮廷を追われたので、奇術と道術で最強の護衛になります~  作者: 塩野さち


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第7話 居候の朝と、不穏な足音

 江南(こうなん)の朝は早い。

 木々の葉から朝露が滴り落ち、遠くの街からは活気ある喧騒が微かに風に乗って運ばれてくる。


 温詞(おんし)が目を覚まし、屋敷の裏手にある井戸で顔を洗っていると、サッサッ、という小気味よい音が耳に届いた。

 音のする方へ目を向けると、昨夜の襲撃者であり、元暗殺者の弟子である小蘭(シャオラン)が、自分よりも大きな竹箒を抱えて一生懸命に庭を掃いていた。


「おはようございます、小蘭殿。随分と早起きですね」


 温詞が声をかけると、小蘭はビクッと肩を揺らし、警戒するように箒を構え直した。


「……勘違いしないでよね。私は昨夜の勝負に負けたから、借りを体で……つまり、労働で返しているだけなんだから!」


 小蘭はツンとそっぽを向きながら言い放った。

 だが、その鋭い視線は、温詞の隙を突いて床下の『形見の短剣』を奪い返そうと、常に虎視眈々と狙っているのがありありと伝わってくる。


(ふふっ。素直ではありませんが、根は真面目な子のようですね)


 温詞が苦笑いしていると、屋敷の中から目をこすりながら黎明(れいめい)が起きてきた。


「ふわぁ……。おはよう、温詞。……あれ?」


 黎明は庭にいる小蘭を見つけると、一瞬目を丸くし、それからパァッと顔を輝かせて駆け寄った。


「わぁっ! 新しいお姉ちゃんだ!」


「えっ!? ち、違うわよ! 私はお姉ちゃんじゃなくて……」


 突然、小さな子供に無邪気に抱きつかれ、小蘭は真っ赤になって戸惑った。

 暗殺者として孤独な修業を積んできた彼女にとって、こんな風に純粋な好意を向けられるのは初めての経験だったのだ。


「レイ。彼女は今日からここに住むことになった、小蘭殿ですよ。仲良くしてくださいね」


「うん! ぼくはレイっていうの。よろしくね、小蘭お姉ちゃん!」


「……っ。よ、よろしく……若様」


 小蘭は黎明のキラキラとした瞳に完全に毒気を抜かれ、どう接していいか分からず、とりあえず身分の高そうな『若様』という呼び方で誤魔化した。


◇◆◇


 朝の挨拶を終え、温詞は朝食の準備に取り掛かった。

 古い台所のかまどに火をくべ、昨日街で買っておいた食材を調理していく。


 江南の朝食といえば、熱々の豆乳――豆漿(とうじゃん)と、細長い揚げパン――油条(ようたお)が定番である。

 温詞が手際よく生地を伸ばし、油の入った鍋に落とすと、ジュワァァッ! という食欲をそそる良い音が響き渡った。


(今だ……!)


 小蘭は、温詞が鍋に背を向けているその一瞬の隙を見逃さなかった。

 彼女は音もなく忍び寄り、袖口に隠し持っていた予備の小刀を抜き放つと、温詞の首筋めがけて鋭く突き出した。


 カキンッ!


「えっ……?」


 小蘭は自分の目を疑った。

 温詞は振り返ることもなく、左手で油条をひっくり返しながら、右手に持ったただの『菜箸』で、背後からの小蘭の刃を完璧に受け止めていたのだ。


「朝から元気ですね、小蘭殿。ですが、台所での刃物は危ないですよ」


 温詞は涼しい声で言いながら、手首を軽くひねった。

 それだけで小蘭の手から小刀が弾き飛ばされ、カランと音を立てて床に転がった。


「ば、化け物……。どうして後ろが見えているのよ」


 呆然とする小蘭をよそに、温詞は次々と料理を仕上げていく。


「さて、ご飯の前に、昨日使ったお皿を綺麗にしておきましょうか」


 温詞は水桶に溜まった汚れた皿の前に立つと、軽く息を吸い込んだ。


「道術・『一洗万事(いっせんばんじ)』」


 シュバババッ!


 温詞の指先から、清浄な気を帯びた細い水流が幾筋も放たれた。

 水流はまるで意志を持っているかのように皿の表面を滑り、こびりついた汚れをたった一瞬で完全に洗い落としてしまった。

 洗い終わった皿は、キュッキュッと音を立てるほどピカピカに輝いている。


「なっ……! そんな家事みたいなことに、高貴な道術を使うなんて……! お前、絶対に頭がおかしいわ!」


 小蘭は頭を抱えて戦慄した。

 彼女の常識では、道術とは厳しい修業の果てに身につける、戦闘のための神聖な力なのだ。


「ふふっ。術は生活を豊かにするためにあるのですよ。さあ、騒いでいるとお腹が減りますよ」


 小蘭がなおも文句を言おうと口を開きかけた、その瞬間。


 パチンッ。


 温詞が小蘭の鼻先で、軽く指を鳴らした。


「奇術・『眠竜香(みんりゅうこう)』」


「……あ、れ……? なんだか、急に眠く……」


 指を鳴らした音と共に、甘く心地よい香りがふわりと漂う。

 小蘭は抗う間もなく糸が切れたように意識を手放し、カクンと膝を折った。

 温詞は倒れ込む彼女を優しく抱きとめると、そのまま食卓の椅子に座らせた。


「少しの間、おとなしく待っていてくださいね」


 温詞が微笑みながら豆漿を器に注ぎ終えると、ちょうど黎明が台所へとやってきた。


「わぁ、いい匂い! あれ、小蘭お姉ちゃん、寝てるの?」


「ええ。昨夜は夜更かしをしてしまったようですからね。レイは温かいうちに食べてください」


 平和で穏やかな朝食の時間が、ゆっくりと流れていくはずだった。


◇◆◇


 ドスン、ドスン、ドスン!


 静かな森の空気を切り裂くように、大勢の乱暴な足音が屋敷へと近づいてきた。

 それも、十人や二十人ではない。土煙を上げて進軍してくるような、尋常ではない数だ。


「……レイ。少しここで待っていてください」


 温詞は箸を置き、静かに立ち上がった。

 窓から外を窺うと、屋敷の周囲はすでにお揃いの黒い胴着を着た屈強な男たちによって、完全に包囲されていた。


 昨日の翠湖楼で叩き出した、武闘派門派『鉄腕門(てつわんもん)』の連中である。


「おい、田舎者! さっさと出てきやがれ!」


 門下生たちをかき分けるようにして、一際巨大な男が前に進み出た。

 身の丈は二メートル近くあり、丸太のような腕には無数の鉄の輪がはめられている。彼こそが、この界隈を牛耳る鉄腕門の門主であった。


「我が門下生たちを肥溜めに叩き込んだ無礼者は貴様か! この俺の顔に泥を塗った代償、命で払ってもらうぞ!」


 門主が咆哮すると、木々の葉がビリビリと震えた。


「温詞……」


 黎明が不安そうに温詞の袖を掴む。


「大丈夫ですよ。少し、庭の掃除をしてくるだけですから」


 温詞は黎明の頭を撫でると、寝こけている小蘭を一瞥した。


「レイ、小蘭殿。デザートの梨を剥いている間に終わらせてきますね」


 温詞はそう言い残し、ゆっくりと屋敷の扉を開けて外へと出た。


◇◆◇


「へっ、逃げずに出てきたか。その度胸だけは褒めてやる」


 門主は温詞の細身の体格を見て、鼻で笑った。


「やっちまえ! 骨の髄まで砕いて、運河の魚の餌にしてやれ!」


「「「おおぉぉぉっ!!」」」


 門主の号令と共に、数十人の門下生たちが一斉に温詞に向かって襲いかかってきた。

 怒号が飛び交い、無数の拳が雨あられのように降り注ぐ。


 だが、温詞は剣を抜くことさえしなかった。

 彼はゆっくりと歩を進めながら、庭の片隅に立てかけられていた小蘭の『竹箒』をスッと手に取った。


「……朝から騒々しいのは、ご近所迷惑ですよ」


 温詞は両手で竹箒を構えると、静かに腰を落とし、体内の気を丹田へと集中させた。


内家功(ないかこう)・『旋風掃(せんぷうそう)』」


 温詞が竹箒を、横凪ぎに大きく一振りした。


 ゴォォォォォォッ!!


 ただの竹箒から放たれたとは思えない、凄まじい衝撃波が発生した。

 箒の軌道に沿って空気が圧縮され、巨大な竜巻となって鉄腕門の男たちを飲み込んでいく。


「な、なんだぁぁっ!?」


「うおわぁぁぁっ!」


 巨漢の男たちが、まるで枯れ葉のように為す術もなく宙へと巻き上げられた。

 竜巻は屋敷の庭を舐めるように進み、男たちを数十メートル先の森の奥深くへと次々に吹き飛ばしていった。

 ドゴォッ! バキィッ! という木々に激突する鈍い音が、遠くから連続して響いてくる。


「……な、なにが、起きたんだ……?」


 ただ一人、竜巻の範囲から外れていた門主は、腰を抜かして地面にへたり込んでいた。

 自分の誇る精鋭たちが、たった一振りの『箒』で一掃されてしまったのだ。彼の頭は完全に理解を拒絶していた。


「さて」


 温詞が竹箒を肩に担ぎ、涼しい顔で歩み寄ってくる。


「ひぃっ……! く、来るな! 化け物ぉぉっ!」


 門主は情けない悲鳴を上げながら、這うようにして森の奥へと逃げ出していった。

 その後ろ姿を見送りながら、温詞は小さくため息をついた。


「これでは、また庭の掃除のやり直しですね」


◇◆◇


「ふわぁ……。あれ、私、寝てた……?」


 屋敷の食卓で、小蘭が目をこすりながら身を起こした。

 いつの間にか、窓の外からは鳥のさえずりが聞こえ、すっかり平和な朝の空気に包まれていた。


「おはようございます、小蘭殿。よく眠れましたか?」


 台所から戻ってきた温詞が、切り分けられた瑞々しい梨が乗った皿を机に置いた。


「さあ、梨が剥けましたよ。油条もまだ温かいですから、たくさん食べてくださいね」


 温詞はいつもの穏やかな微笑みを浮かべている。

 だが、小蘭は気づいていた。

 窓の外の庭の土が、まるで嵐が過ぎ去ったかのように不自然に抉れ、周囲の木々の枝が折れていることに。


(私が寝ている間に、何があったの……? それに、あの目にも留まらぬ身のこなしと、途方もない気の力……)


 小蘭は、温詞が淹れてくれた温かい豆漿をすすりながら、確信した。


(この男、ただの武術師範なんかじゃない。その所作、その実力……間違いなく、宮廷の奥深くに仕えるような、とんでもない化け物だわ)


 小蘭が温詞の正体に一歩近づき、そしてその底知れぬ実力に密かな畏怖を抱いた瞬間であった。


 江南の隠れ家での生活は、こうして波乱と驚きと共に、本格的に幕を開けるのであった。


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