第6話 暗殺者の残骸と、深夜の訪問者
江南の街の喧騒から遠く離れた、鬱蒼とした森の中。
木漏れ日すら届かないような薄暗い木立を抜けた先に、その古びた屋敷はひっそりと佇んでいた。
「……お父様、いくらなんでもここは気味が悪すぎませんか?」
『金掌商会』の娘である麗月が、身震いしながら父親の背中に隠れた。
立派な門構えではあるものの、瓦は剥がれ落ち、庭には背丈ほどもある雑草が生い茂っている。どこからか、ヒューッと冷たい風が吹き抜けたような気がした。
「おいおい、本当にここで寝起きする気かよ。幽霊が出そうだぜ……」
護衛の飛燕も、腰の双剣に手を当てながら周囲を警戒している。
「いえ、素晴らしい環境ですよ。人目もつきませんし、何より静かで修業には最適です」
だが、温詞だけは涼しい顔で、ボロボロの屋敷を満足げに見上げていた。
「とりあえず、今日は遅いですし、屋敷の案内はここまでとしましょう。温詞殿、何か困ったことがあれば、いつでも商会を頼ってくれ」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
温詞が深く頭を下げると、麗月や飛燕たちはそそくさと街の方へと帰っていった。
森の中に残されたのは、温詞と、第三皇子である黎明の二人だけとなった。
◇◆◇
ギィィ……と軋む音を立てて、重い木製の扉を開ける。
屋敷の中は真っ暗で、一歩足を踏み入れただけで、むせ返るような埃とカビの匂いが漂ってきた。至る所に分厚い蜘蛛の巣が張っている。
「うわぁ……。温詞、ここ、お掃除するの大変そうだね」
黎明が小さな手で口と鼻を覆いながら、困ったように眉を下げる。
「ふふっ。お任せください、レイ。こういう時のための便利な術があるのです」
温詞は屋敷の中央に立つと、スッと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
彼の胸が大きく膨らみ、周囲の空気が一気に温詞の口元へと集まっていくような、不思議な圧迫感が生まれる。
「道術・『浄化息』」
ゴォォォォッ!
温詞が勢いよく息を吹き出した瞬間、目に見えない強烈な突風が屋敷の中を駆け巡った。
それはただの風ではない。気を帯びた清浄なる風が、積もった埃、天井の蜘蛛の巣、そして澱んだ空気のすべてを巻き込み、開け放たれた窓や裏口から一気に外へと吹き飛ばしたのである。
「わぁっ! すごい風!」
黎明が吹き飛ばされないようにしゃがみ込む。
数秒後、風がパタリと止むと、さっきまでの廃墟のような有様が嘘のように、屋敷の中は塵一つないピカピカの状態になっていた。
「すごいよ温詞! 魔法みたいだ!」
黎明が目を丸くして歓声を上げる。
「さて、これで気持ちよく眠れますね。少し床を拭いたら、休みましょうか」
温詞が微笑むと、黎明は「ぼくも手伝う!」と、どこからか見つけてきた古い布を濡らして、楽しそうに床板を拭き始めた。
(……この子は本当に、どんな環境でも健気に振る舞ってくれる。だからこそ、絶対に守り抜かねば)
温詞がそんなことを思いながら黎明を見守っていた、その時だった。
「あれ? 温詞、ここの床板、なんかガタガタするよ」
黎明が部屋の隅の床板を指さした。
温詞が近づいて調べてみると、確かに一枚だけ、不自然に浮き上がっている板がある。
指をかけて持ち上げると、床下には小さな隠し戸棚が作られていた。
「……なんでしょうね、これは」
中から出てきたのは、埃を被った古い木箱だった。
蓋を開けると、一通の黄ばんだ書簡と、鞘に収められた漆黒の短剣が静かに横たわっていた。
温詞は書簡を開き、そこに書かれている文字に素早く目を通す。
『南天の星が落ちる時、真の主がここに現れる。我が業と刃を継ぐ者よ、闇夜に備えよ』
「…………」
温詞は無表情のまま、パタン、と書簡を閉じて箱に戻した。
「どうしたの? なんて書いてあったの?」
「いえ。前の住人の忘れ物のようです。……これはいけませんね、ひどく厄介ごとの香りがします」
温詞は苦笑いを浮かべると、木箱を元の床下にそっと戻し、何事もなかったかのように上から板を被せた。
(暗殺者の家という噂は、どうやら本当だったようですね。……まあ、関わらなければ良いだけのことです)
◇◆◇
その日の深夜。
長旅の疲れが出たのか、黎明は寝室の布団でスースーと規則正しい寝息を立てていた。
温詞は一人、屋敷の瓦屋根の上に座っていた。
彼の頭上には、澄み切った夜空にぽっかりと満月が浮かんでいる。昼間、翠湖楼の店主からお礼として貰った安い酒を小さな杯に注ぎ、月を眺めながら静かに嗜んでいた。
(江南の月は、帝都で見るよりもどこか優しく感じられますね……)
温詞が杯を口に運ぼうとした、その時。
カサッ。
庭に生い茂る木々の枝が、風もないのに不自然に揺れた。
(……来ましたか)
温詞は表情を変えることなく、杯の酒を見つめたまま動かない。
シュバッ!
空気を切り裂く鋭い音と共に、暗闇の中から銀色の閃光が飛び出してきた。
それは、温詞の喉元を正確に貫こうとする鋭利な刃――手裏剣のような暗器だった。
だが。
温詞は手に持った杯をピクリとも動かすことなく、ほんの数センチだけ、スッと首を横に傾けた。
ヒュンッ!
暗器は温詞の頬をかすめ、背後の瓦に突き刺さって甲高い音を立てた。
杯の中の酒は、一滴たりとも波打っていない。
「……夜分遅くに、物騒な挨拶ですね。どなたか存じませんが、屋根から降りてきませんか?」
温詞が静かな声で虚空に向かって語りかけると、背後の大木の枝から、一人の人影が音もなく屋根の上に舞い降りた。
全身を黒い軽装束で包み、顔の下半分を布で覆った、小柄な人影だった。
手には、先ほど黎明が見つけたのと同じような、短い刃を逆手に構えている。
「……気づいていたのか。結界の気配が乱れていた」
覆面の奥から発せられたのは、意外なほど若く、澄んだ声だった。
「侵入も何も、私は商会からここを借りただけの、しがない居候ですよ」
「問答無用! 師匠の形見を盗むような輩は、この私が始末する!」
小柄な襲撃者は屋根瓦を蹴り、驚くべき身軽さで温詞に肉薄した。
月明かりの下、銀色の刃が乱舞する。上段、下段、そして足払いからの突き。息つく暇もない怒濤の連続攻撃だ。
チャキッ! キンッ!
しかし、温詞はそのすべてを、座ったままの姿勢でかわし続けていた。
相手の刃が触れる直前に体をそらし、あるいは手首を軽く叩いて軌道をずらす。温詞の動きは最小限でありながら、まるで舞を踊っているかのように美しかった。
(……この身のこなし、まだ荒削りですが、かなりの修練を積んでいますね。それに、この足捌きは……)
温詞は相手の攻撃をいなしながら、冷静に分析を終えた。
「くっ……! ちょこまかと!」
襲撃者が焦りを見せ、大きく跳躍して上空からの一撃を狙った。
温詞の頭上を越え、背後に着地して首を刈ろうとする算段だ。
だが、温詞は相手が空中に飛んだ瞬間に立ち上がり、月の光を背に受ける位置へと移動した。
襲撃者が瓦屋根に着地した、その刹那。
「奇術・『影縛り』」
ダンッ!
温詞が足元を強く踏み鳴らした。
彼が踏みつけたのは、月明かりによって瓦の上に濃く伸びた、襲撃者の『影』の首元であった。
「なっ……!?」
着地したはずの襲撃者の体が、まるで目に見えない太い鎖で縛り付けられたかのように、ピタリと硬直した。
「体が……動かない!? なんだ、これは!」
「無理に動かない方が身のためですよ。……動けば、あなたの影が千切れてしまいますからね」
温詞が静かに警告すると、襲撃者は恐怖に目を見開き、息を呑んで動きを止めた。
◇◆◇
勝負は一瞬で決した。
温詞は動けなくなった襲撃者に近づき、その顔を覆っていた黒い布をスッと払い落とした。
そこに現れたのは、麗月と同年代くらいの、まだあどけなさの残る少女の顔だった。
肩まで切り揃えられた黒髪に、勝気で鋭い目つき。彼女は下唇を噛み締め、悔しそうに温詞を睨みつけている。
「……やはり。暗器の軌道からして、女性だろうとは思っていました。あなたが、この屋敷の前の住人のお弟子さんですか?」
「……私は小蘭。師匠の屋敷を荒らすお前を、絶対に許さない!」
小蘭は動けないながらも、必死に威嚇するように叫んだ。
(やれやれ。どうやら、泥棒か何かと勘違いされているようですね)
温詞は小さくため息をつくと、自らの体から立ち昇る気の圧力を、ほんの一瞬だけ解放した。
ゾワッ……!
小蘭の全身から、一気に血の気が引いた。
目の前に立つ優男が、突然、見上げるほど巨大な神獣に変貌したかのような錯覚。それは、圧倒的な実力差を本能で悟らせるほどの、純粋で巨大な気配だった。
「ひっ……!」
小蘭は完全に毒気を抜かれ、手から短剣を取り落とした。
「落ち着いて聞いてください。私は金掌商会からこの屋敷を借りただけです。箱の中身は持ち出していません。盗む気もありません」
温詞が穏やかな笑顔に戻り、影から足をどけると、小蘭の体の呪縛が解けた。
彼女はペタンと瓦の上に座り込み、まだ信じられないという顔で温詞を見上げている。
「お前……。いや、あなたは、いったい何者なの……? これほどの達人が、どうしてこんな所に……」
「ただの、しがない武術師範ですよ。……ところで小蘭殿」
温詞は懐から、丁寧に布に包まれた小さな木箱を取り出した。
「お腹、空いていませんか?」
「え?」
木箱を開けると、そこには昼間の翠湖楼で包んでもらった、まだほんのりと温かい小籠包が並んでいた。
おいしそうな匂いが風に乗って漂うと、小蘭のお腹から、グゥゥ……と可愛らしい音が鳴った。
小蘭は顔を真っ赤にして、慌ててお腹を押さえる。
「夜食の準備があります。よろしければ、下でお茶でも淹れましょうか」
温詞が優しく手を差し伸べると、小蘭は戸惑いながらも、恐る恐るその手を取った。
江南での隠遁生活に、どうやらまた一人、騒がしい居候が増えることになりそうだ。
温詞は月の光に照らされながら、少しだけ困ったように、しかし楽しげに微笑んだ。
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