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訳あり武師の江南暮らし ~宮廷を追われたので、奇術と道術で最強の護衛になります~  作者: 塩野さち


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第5話 江南の美食と、不届きな客

 長江の厳しい洗礼を乗り越え、一行を乗せた船はついに江南(こうなん)の船着き場へと到着した。


 船を降りた温詞(おんし)黎明(れいめい)の目の前には、帝都の重苦しい空気とはまるで違う、活気に満ちた別世界が広がっていた。

 水路が網の目のように巡る街並みには、白壁と黒い瓦屋根の美しい建物が立ち並んでいる。川沿いには青々とした柳の枝が風に揺れ、行き交う人々の表情もどこか明るく、穏やかだった。


「すごいね、温詞! お水の上に家がいっぱいあるよ!」


 黎明は目を輝かせ、あっちこっちを指さしてはしゃいでいる。


「ええ、本当に美しい街ですね。ここなら、少しは安心して過ごせるかもしれません」


 温詞は周囲の気配を探りながらも、自然とこぼれる笑みを隠せなかった。

 長きにわたる逃亡生活で張り詰めていた心が、この穏やかな風景によって少しだけ解きほぐされていくのを感じる。


「さぁさぁ、長旅で疲れたでしょう! まずは江南の美味いものでも食べて、英気を養おうじゃないか」


 商隊を率いる『金掌(きんしょう)商会』の主人が、豪快に笑いながら一行を案内した。

 向かったのは、街で一番の繁華街に建つ老舗の楼閣――『翠湖楼(すいころう)』である。


◇◆◇


 翠湖楼の最上階、景色が一望できる特等席に案内された一行の前に、次々と豪華な料理が運ばれてきた。


「さあレイ君、遠慮しないでたくさん食べてね。江南に来たら、これを食べなきゃ始まらないわよ」


 主人の娘である麗月(れいげつ)が、得意げな顔で一つの大皿を勧めた。

 皿の上には、見事に飾り包丁が入れられ、黄金色に揚げられた大きな魚が乗っている。その上からは、甘酸っぱい香りを放つとろみのある餡がたっぷりとけられていた。


「これが江南名物、松鼠桂魚(しょうそけいぎょ)(ケツギョの甘酢あんかけ)よ。お魚がリスみたいな形に見えるから、そう呼ばれているの」


「うわぁ……! すっごくいい匂い!」


 黎明は箸で一口分を切り分け、ふうふうと冷ましてから口に運んだ。


「……おいしいっ! 外はサクサクで、中はふわふわだ! 甘酸っぱくて、ほっぺたが落ちちゃいそう!」


 満面の笑みを浮かべる黎明を見て、温詞も目を細めた。


(宮廷の料理も贅を尽くしたものでしたが、こうして気兼ねなく笑い合いながら食べる食事は、何よりも美味しく感じられますね)


 温詞の前には、湯気を立てる竹の蒸籠が置かれていた。

 中には、薄い皮に包まれた小籠包(しょうろんぽう)が綺麗に並んでいる。


「レイ、こちらも熱いうちにどうぞ。ただし、中の肉汁がとても熱いので、少し皮を破って汁を吸ってから食べるんですよ」


「うん!」


 温詞が優しく教えると、黎明は小さな口で一生懸命に小籠包を頬張った。

 その隣では、若き武芸者の飛燕(ひえん)が、信じられないほどの勢いで料理を平らげている。


「いやぁ、船の上じゃロクなもん食えなかったからな! やっぱ陸の飯は最高だぜ!」


 飛燕は口の周りを餡だらけにしながら、豪快に笑った。


「もう、飛燕さんはお行儀が悪いんだから。少しは温詞さんを見習って、静かに食べなさいよ」


 麗月が呆れたようにため息をつく。

 そんな賑やかで平和な時間が、いつまでも続くかのように思われた。


 だが。


 ドカドカドカッ!


 突然、階下の階段から、木組みの床が抜けるのではないかというほど乱暴な足音が響いてきた。


◇◆◇


「おい! ここの特等席は、俺たちの門主が使うことになってるって、いつも言ってんだろうが!」


 怒鳴り声とともに最上階に姿を現したのは、お揃いの黒い胴着を身にまとった五人の男たちだった。

 どいつもこいつもガタイが良く、顔には傷跡があり、到底まともな客には見えない。


「ひぃっ……! も、申し訳ございません! 本日はすでに、こちらのお客さまたちが……」


 店主が青ざめた顔で揉み手をして謝るが、先頭に立つ男は容赦なく店主を突き飛ばした。


「うるせぇ! 俺たち『鉄腕門(てつわんもん)』に逆らう気か! 江南の街が誰の縄張りで回ってるか、教えてやろうか!」


 男たちは我が物顔で温詞たちのテーブルに近づくと、バンッ! と乱暴に卓を叩いた。

 並んでいた皿が跳ね上がり、スープがこぼれる。


「さっさと失せろ、田舎者ども! ここは俺たちの席だ!」


 その粗野な振る舞いに、黎明がビクッと肩を震わせて温詞の背中に隠れた。


「……おいおい。せっかくの飯がマズくなるじゃねぇか」


 食事を邪魔された飛燕が、ギリッと歯を鳴らして立ち上がった。

 彼は口元を乱暴に拭うと、腰の双剣(そうけん)に手をかける。


「またお前らみたいな手合いか! 行く先々でチンピラに絡まれるなんて、俺たちもツイてねぇな。いいぜ、俺がまとめて表に放り出してやらぁ!」


 飛燕が勢いよく双剣を抜いた。

 だが、ここは狭い楼閣の最上階である。周囲には卓や椅子が所狭しと並び、天井もそれほど高くない。


「死ねやぁっ!」


 鉄腕門の男の一人が、太い腕を振り回して殴りかかってきた。

 飛燕はそれを躱し、右の剣で反撃に出ようとする。


 ガキンッ!


「ああっ!?」


 飛燕の剣は男には当たらず、後ろにあった太い木の柱に深く突き刺さってしまった。


「バカな奴め! 室内でそんな長い得物を振り回すからだ!」


「ちぃっ! 抜けねぇ!」


 飛燕が焦って剣を引っぱっている隙に、別の男たちが飛燕を取り囲み、あっという間に身動きを取れなくしてしまった。


(飛燕殿……。野外での戦いには長けていますが、状況に応じた立ち回りはまだ未熟ですね)


 温詞は静かにため息をつきながら、手元の小籠包を箸で摘み上げた。


「へぇ……。よく見りゃあ、すげぇいい女も連れてるじゃねぇか」


 飛燕を無力化した男たちのリーダー格が、いやらしい笑みを浮かべて麗月へと近づいてきた。


「ちょうどいい。俺たちの門主への手土産にしてやるよ。来い!」


 男が太く汚い手を伸ばし、麗月の細い腕を掴もうとした。


「きゃっ……! 触らないで!」


 麗月が顔を引きつらせて後ずさる。

 男の手が彼女の衣に触れそうになった、その刹那。


「……食事の邪魔をするのは、ひどく野暮というものですよ」


 静かで、しかし底冷えするような声が響いた。

 温詞である。


 彼は椅子に座ったまま、右手で持っていた箸の先を、男の伸ばした腕に向かってスッと突き出した。


 トンッ。


 まるで木を叩くような、軽く乾いた音が鳴る。

 温詞の箸先が、男の腕にある経絡――ツボを正確に突いたのだ。


「あ……?」


 男の動きが、不自然にピタリと止まった。


「な、なんだぁ!? 腕が……腕が動かねぇ!」


 男は目を見開き、自分の腕を左手で叩くが、まるで石のように固まって全く言うことを聞かない。


「奇術・『点穴箸(てんけつばし)』。あなたの腕の気を巡る経絡を、一時的に塞がせていただきました」


 温詞は涼しい顔で言い放ち、そのまま箸で摘んでいた小籠包をパクリと口に運んだ。

 熱い肉汁を味わい、満足そうに頷く。


「な、何をしやがったこの野郎!」


 異変に気づいた残りの四人が、血相を変えて温詞に襲いかかってきた。

 四方八方から、岩をも砕く鉄腕門の拳が振り下ろされる。


 しかし、温詞は焦る素振りも見せず、座ったままスッと上体を沈めた。

 拳が空を切り、男たちの体勢が前のめりに崩れる。


「道術・『転瞬歩(てんしゅんほ)』」


 フワリ、と。

 温詞の姿が、陽炎のようにブレて消えた。


「消えた!?」


「どこに行きやがった!」


 男たちが慌てて周囲を見回した時、すでに温詞は彼らの背後に立っていた。

 音もなく移動する、神速の歩法である。


「お掃除の時間ですね」


 温詞は男たちの襟首や帯を、両手で軽々と掴み上げた。

 男たちの巨体など、まるで羽毛のように重さを感じさせない。


「へっ……?」


 男たちが間抜けな声を上げた次の瞬間。


「たぁっ!」


 温詞は手首のスナップだけを使い、男たちを窓の外へと次々に放り投げた。


「うおわぁぁぁっ!?」


「助けぇぇぇ……っ!」


 ドボンッ! バシャァッ!


 男たちの悲鳴は、窓の下を流れる運河の濁った水音と共にかき消えた。

 飛燕を取り囲んでいた最後の男も、状況を理解する前に温詞に襟を掴まれ、同じように運河へとダイブしていった。


◇◆◇


 静けさを取り戻した店内には、しばらくの間、唖然とした空気が流れていた。


 やがて、一部始終を見ていた他の客たちから、ワッ! と割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。


「すげぇ! あの鉄腕門の連中を、箸一本と素手だけであしらっちまったぞ!」


「なんて鮮やかな身のこなしだ!」


 温詞は少し困ったように微笑むと、震えている店主の元へと歩み寄り、懐から小さな銀貨を数枚取り出して手渡した。


「お騒がせして申し訳ありません。これは、散らかしてしまった卓の片付け代と、あちらの柱の修理代です」


 温詞が指さした先には、いまだに飛燕の双剣が突き刺さったままの柱があった。


「あ、ありがとうございます……! 旅のお方、本当に助かりました!」


 店主は涙ぐみながら、何度も何度も頭を下げた。


「温詞さん……。あなたって、本当にすごいわ」


 麗月が頬を紅潮させ、尊敬と熱を帯びた瞳で温詞を見つめている。

 その横で、ようやく柱から剣を引き抜いた飛燕が、バツが悪そうに舌打ちをした。


「ちくしょう、また俺の良いとこ無しじゃねぇか……」


「やっぱり温詞は世界一だね! あんな悪者、全然怖くないや!」


 黎明が自慢げに胸を張り、温詞の腰に抱きついた。


「さあ、料理が冷めてしまいますよ。お掃除も終わりましたし、ゆっくり食事の続きといたしましょう」


 温詞が優しく促すと、一行は再び卓を囲み、江南の美食を心ゆくまで堪能したのだった。


◇◆◇


 食後、金掌商会の主人が温詞たちを呼んだ。


「温詞殿。先ほどは見事な腕前だった。だが、鉄腕門の連中は執念深い。このまま宿屋に泊まるのは危険かもしれん」


「ええ。私もそう思っていました」


「そこでだ。我が商会が管理している空き家がある。少し街外れだが、人目は避けられるはずだ。そこを、当面の君たちの隠れ家として提供しよう」


「本当ですか? それは願ってもないお話です」


 温詞が深く頭を下げると、主人は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。


「ただ……その屋敷、少しばかり『曰く付き』でな。以前、凄腕の暗殺者が住んでいたとかで、夜な夜な妙な物音がするという噂があるのだ。気味が悪くて、誰も寄り付かんのだよ」


(暗殺者の家、ですか……。皇宮からの追っ手を警戒するには、むしろ都合が良いかもしれませんね)


 温詞は内心でそう思いながら、涼やかな笑顔で頷いた。


「お気遣い痛み入ります。雨風がしのげるだけで十分でございます」


 こうして、江南での温詞と黎明の新生活は、謎に包まれた曰く付きの屋敷から幕を開けることになった。

 はたして、その屋敷で二人を待ち受けているものとは――。


「とても面白い」★四つか五つを押してね!

「普通かなぁ?」★三つを押してね!

「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

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