第4話 怒濤の長江、水上の死闘
大陸を横断する巨大な大河、長江。
その北岸にたどり着いた『金掌商会』の商隊は、目の前に広がる光景に息を呑んで立ち尽くしていた。
対岸が見えないほどの圧倒的な川幅。本来なら雄大な景色が広がっているはずだが、今日に限っては様子が違った。
季節外れの濃く白い霧が、川面をねっとりと覆い尽くしていたのである。
「……お父様、前がまったく見えませんね」
商会の娘である麗月が、不安そうに父親の袖を引いた。
恰幅の良い商会の主人は、眉間に深いしわを刻んで霧の奥を睨みつけている。
「ああ。この霧は不吉だ。ただの天候の崩れならいいが……もしや、河族の連中が使う『霧隠の術』かもしれない」
「河族、ですか?」
温詞が静かに尋ねると、主人は重々しく頷いた。
「長江をねぐらにする水賊たちだよ。水上の戦いでは無類の強さを誇り、道術にも長けているという噂だ。だが、ここを渡らねば、目的地である江南にはたどり着けん」
主人は意を決したように、渡し船の船頭たちに指示を出した。
大量の荷と人員を運ぶため、商隊は数艘の大きな平底船に分乗して出発することになった。
温詞と、彼が「弟」として連れている第三皇子・黎明、そして麗月と、若き武芸者の飛燕は、同じ船の中央に陣取った。
「ちっ、こんな霧の中を進むなんて正気の沙汰じゃねぇな」
飛燕は腰の双剣に手をかけながら、苛立たしげに舌打ちをした。
彼は足を開いて踏ん張っているが、川のうねりに合わせて船が揺れるたび、少しだけ顔をしかめている。どうやら、船の上はあまり得意ではないらしい。
「温詞、なんだか怖いよ……」
黎明が温詞の服の裾をぎゅっと握りしめる。
温詞は優しく黎明の背中を撫でた。
「大丈夫ですよ、レイ。私が必ずお守りします」
船がゆっくりと岸を離れ、白い霧の中へと滑り出していく。
水が船底を打つチャプチャプという音だけが、不気味なほど静かに響いていた。
◇◆◇
川の中ほどまで進んだ頃だった。
ふわりと風が吹き、周囲の霧がさらに一段と濃くなった。
一寸先も見えないほどの完全な視界不良。隣の船の姿はおろか、自分たちの乗る船の舳先さえ霞んで見えない。
ジャン! ジャン! ジャーン!
突如として、静寂を切り裂くような耳障りな銅鑼の音が、四方八方から鳴り響いた。
「ひっ!?」
麗月が短い悲鳴を上げてしゃがみ込む。
「なんだ!? どこから鳴ってやがる!」
飛燕が双剣を引き抜き、周囲を鋭く見回した。
霧の奥から、無数の黒い影がぬるりと姿を現す。
それは、周囲を完全に包囲するように配置された、小回りの利く何十艘もの小舟だった。
それぞれの小舟には、上半身裸で奇妙な刺青を入れた男たちが乗っている。彼らの手には、鋭く尖った銛や湾刀が握られていた。
「ヒャハハハ! 金掌商会のお大尽様、長江の真ん中へようこそ!」
下品な笑い声とともに、一つの影が水面を滑るようにして現れた。
小舟に乗っているのではない。その男は、信じられないことに素足で直接水面を蹴り、まるで氷の上を滑るように高速で移動していたのだ。
(あれは……足に気を込めて水面を歩く絶技、『水上飛』か)
温詞は目を細め、その男の動きを冷静に観察した。
男は温詞たちの乗る船のすぐ近くまで来ると、手にした身の丈ほどもある巨大な銛を肩に担ぎ、ニヤリと笑った。
「俺は河族の首領、蛟竜のカンだ! この川を無事に渡りたくば、荷の半分と……そこの綺麗な小娘を置いていけ!」
カンが太い指で、震える麗月を指さした。
「ふざけんな! 誰がお前らなんかに荷を渡すかよ!」
血の気の多い飛燕が、激昂して船縁に飛び乗った。
「俺がまとめて切り刻んでやらぁ!」
飛燕が双剣を構え、カンに向かって飛びかかろうとした、その瞬間。
「飛燕殿、お待ちください! 水面を見て!」
温詞が鋭く制止するが、遅かった。
ザバァッ!
「うおわっ!?」
水の中から突然、無数の手が伸びてきたのだ。
息を潜めて潜水していた河族の刺客たちが、飛燕の両足首をがっちりと掴んだ。
船の上での戦いに不慣れだった飛燕は、あっさりとバランスを崩し、真っ逆さまに河へと引きずり込まれそうになる。
「くっ、放せ! この水生虫どもが!」
飛燕は必死に剣を振り回すが、足場が揺れる船の上では力が入らず、次々と現れる敵の手を振り払いきれない。
「温詞さん、飛燕さんが!」
麗月が青ざめた顔で叫ぶ。
温詞はため息を一つこぼすと、懐から素早く一本の丈夫な縄を取り出した。
「レイ、少しの間だけ我慢してくださいね」
「えっ? う、うん!」
温詞は黎明の体を太い帆柱に押し当てると、手際よく縄でぐるぐると縛り付けた。これで、どんなに船が揺れても振り落とされる心配はない。
「麗月お嬢様。どうか、目を閉じて耳を塞いでいてください。少しばかり、騒がしくなりますので」
温詞が静かで優しい声で告げると、麗月はその不思議な安心感に包まれ、こくりと頷いて両手で顔を覆った。
◇◆◇
温詞は船縁へと歩み寄ると、懐から二枚の朱色の呪符を取り出した。
「さて……。水場での戦い方を、少しお教えしましょうか」
彼が呪符を指に挟んで軽く息を吹きかけると、文字が淡い青色の光を放ち始めた。
「奇術・『水鏡の術』」
温詞が呪符を川面に向かって投げ放つ。
呪符が水に触れた瞬間、パァァン! という弾けるような音とともに、周囲を覆っていた濃霧が鏡のようにキラキラと輝き始めた。
「な、なんだぁ!?」
小舟に乗っていた河族たちが、驚愕の声を上げる。
光を反射した霧は、無数の幻影を生み出した。河族たちの目には、味方の姿がすべて武装した温詞の姿に見え始めたのだ。
「うおぉぉっ! こっちに来るな!」
「てめぇ、どこを狙ってやがる!」
パニックに陥った河族たちは、完全に同士討ちを始めた。互いに銛を突き合い、湾刀を振り回し、次々と自分たちの小舟から川へと転落していく。
「おのれ、小癧な術を!」
首領のカンが激怒して叫ぶ。
「船底に潜っている奴ら! その船ごとひっくり返して、川の底に沈めてしまえ!」
カンの号令で、飛燕の足を掴んでいた刺客たちが一斉に船底へと潜り込み、下から力任せに船を揺らし始めた。
グラァッ!
巨大な平底船が大きく傾き、悲鳴が上がる。
(なるほど。船ごと沈める気ですか。ならば――)
温詞は腰を深く落とし、右手のひらを水面すれすれの船縁にピタリと当てた。
彼の全身から、目に見えるほどの膨大な冷気が立ち昇る。
「道術・『氷結掌』」
ドンッ!
温詞が掌底で船縁を打ち据えた。
その瞬間、温詞の掌から放たれた極寒の気が、船の木材を伝って水面へと一気に放出された。
メキメキメキッ!
すさまじい音を立てて、船の周囲数メートルの川面が、あっという間に分厚い氷の板へと姿を変えた。
下から船を揺らそうとしていた水中の刺客たちは、逃げる間もなく氷の中に閉じ込められ、身動き一つとれなくなってしまった。
「なっ……長江の濁流を、一瞬で凍らせただと!?」
カンは目を見開き、信じられないものを見るように温詞を凝視した。
◇◆◇
「残るは、あなただけですね」
温詞は氷の張った水面を見下ろしながら、静かにカンへと向き直った。
「ふざけるな! 俺様を誰だと思っている!」
激昂したカンが、足元の水を蹴り上げて高く跳躍した。
そのまま空中で体をひねり、全身の体重と気を込めた巨大な銛を、温詞の心臓めがけて一直線に突き下ろしてくる。
ゴォォォッ!
風を切り裂く轟音が鳴り響く。
常人であれば、すくみ上がって一歩も動けないほどの迫力だ。
だが、温詞は微動だにしなかった。
彼は突き出された銛の刃先を、あたかも春風に揺れる柳の枝のように、ほんのわずかに上体を反らすだけで紙一重でかわしてみせた。
「なにっ!?」
カンが驚愕した時には、すでに温詞の手が動いていた。
温詞は空を切った銛の太い柄を両手で軽く掴むと、カンの勢いを殺すことなく、そのまま自分の懐へと深く引き込んだ。
「内家功・『波濤砕』」
温詞の掌が、カンの分厚い胸板に触れる。
押し込むような動作は一切ない。ただ、波が岩にぶつかって弾けるように、体内の勁力を一気に爆発させた。
ドゴォォォン!!
「がっ……はぁぁっ!?」
カンの巨体が、まるで大砲で撃たれたかのように宙を舞った。
彼は十メートル以上も後方へと吹き飛び、乗っていた自分の小舟を粉々にへし折りながら、派手な水柱を上げて川のど真ん中へと墜落した。
◇◆◇
首領が手も足も出ずに一撃で倒されたのを見て、残っていた河族たちは恐怖に顔を引きつらせた。
「ば、化け物だぁぁっ!」
「逃げろ! 首領を助けて逃げろぉっ!」
彼らは慌ててカンを水から引き上げると、蜘蛛の子を散らすように、残りの小舟を必死に漕いで逃げ去っていった。
やがて、河族たちが作り出していた霧隠の術が解け、視界を覆っていた濃霧が嘘のように晴れていく。
雲の切れ間から、黄金色の太陽の光が川面に差し込んだ。
前方には、緑豊かな山々と、活気に満ちた美しい街並みが広がっている。
江南の地であった。
「ぷはぁっ! 死ぬかと思ったぜ……」
どうにか自力で船に這い上がってきた飛燕が、全身ずぶ濡れになりながら大の字に倒れ込んだ。
彼は荒い息を吐きながら、信じられないという目で温詞を見上げる。
「あんた……。水の上を凍らせるわ、首領を一撃で吹っ飛ばすわ……。やっぱり、ただの武芸者じゃねぇな……」
温詞は飛燕の言葉を軽く受け流し、帆柱に縛り付けていた黎明の縄を解いてやった。
「温詞、今のすごかった! 敵がバタバタ倒れていったよ!」
黎明が目をキラキラさせて飛びついてくる。
「もう目を開けてもよろしいですか?」
指の隙間からそっと様子をうかがっていた麗月が、恐る恐る立ち上がった。
彼女は温詞の凛とした立ち姿を見て、頬をほんのりと赤く染める。
「温詞さん。あなた、いったい何者なんですか? あんな不思議な術、お父様が雇っていた護衛たちでも使えませんでしたよ」
「……ただの、田舎で修業を積んだしがない武芸者ですよ。今回は、たまたま運が良かっただけです」
温詞はいつものように涼やかな微笑みを浮かべ、それ以上は語ろうとしなかった。
長江の厳しい洗礼を退け、一行を乗せた船は、ついに目的の地である江南の船着き場へと静かに滑り込んでいった。
新たな地での波乱に満ちた生活が、今、始まろうとしていた。
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