第3話 江南への隠れ蓑
数日後。
温詞と黎明は、帝国南部の交通の要衝である商業都市、彩郷へと足を踏み入れていた。
石畳の敷かれた大通りには、色鮮やかな絹織物や香辛料を積んだ荷車がひしめき合い、活気に満ちた商人たちの声が飛び交っている。
先日の貧しい村とは打って変わった豊かな光景に、黎明は目を丸くして周囲を見回した。
「すごい人だね、温詞! あそこでお肉を焼いてるよ!」
「はぐれないように、私の手から離れないでくださいね。ここからは、私はあなたの『兄』ですから」
温詞は黎明の小さな手をしっかりと握り、優しく微笑みかけた。
(皇宮からの追っ手は、間違いなく街道に検問を敷いているはずだ。我々二人だけで江南を目指すのは、あまりにも危険すぎる)
温詞は周囲の喧騒に紛れながら、頭の中で今後の算段を立てていた。
(だが、大規模な商隊に紛れ込めば、身分を偽る『隠れ蓑』になる。荷物や人員が多い商隊なら、検問の目も誤魔化しやすい)
二人が向かったのは、街で最も大きな商館を構える『金掌商会』の裏庭だった。
そこでは今、江南へ向かう大規模な商隊の出発に向けて、護衛の武芸者を募集する試験が行われていた。
◇◆◇
「次は、そこの細っこい優男! お前、護衛の志願者か?」
恰幅の良い商会の主人が、名簿から顔を上げて温詞を指さした。
温詞は静かに前に進み出て、深く一礼する。
「はい。旅の武芸者で、名を温詞と申します。江南に親戚がおりまして、この弟を連れて行くために、どうか同行させていただけないでしょうか。もちろん、護衛の任は命に代えても全ういたします」
主人は温詞の細身な体格と、その背中に隠れるようにしている幼い黎明を見て、困ったように眉をひそめた。
「うーん……。江南までの道のりは長いし、野盗も出る。小さな子供連れじゃあ、足手まといになるんじゃないかね?」
「おじさん、お願い! ぼく、絶対に邪魔はしないから!」
黎明が温詞の背中から顔を出し、必死に頭を下げた。
その一生懸命で健気な姿に、主人が渋い顔で唸っていると、横から鈴を転がすような明るい声が響いた。
「お父様、いいじゃないですか。この子、とってもお利口そうですよ?」
奥から姿を現したのは、商会の主人の娘――麗月だった。
温詞たちと歳が近い、十五、六ほどの少女である。
淡い桃色の衣をまとい、艶やかな黒髪を二つに結い上げている。その瞳は好奇心に満ちており、活発で物怖じしない性格が全身からあふれ出ていた。
麗月は黎明の前にしゃがみ込むと、懐から赤い木の実の砂糖漬け――山査子の串を取り出して差し出した。
「ほら、甘くて美味しいわよ。お名前はなんていうの?」
「あっ……。あ、ありがとう。ぼくは、黎明……じゃなくて、レイっていうんだ」
黎明は少し戸惑いながらも、温詞をチラリと見て許可を求め、それから嬉しそうに山査子を受け取った。
「レイ君ね。私は麗月よ。よろしくね」
麗月はふわりと微笑むと、今度はスッと立ち上がり、温詞の全身を値踏みするように見つめた。
(……ただの旅人じゃないわね。立ち姿に、まったく隙がないもの)
商人の娘として数多くの人間を見てきた麗月は、温詞が放つ静かで澄んだ気配に、ただならぬものを感じ取っていた。
「おいおい、お嬢様。いくらなんでも、そんな子連れの優男を雇うなんて冗談キツイぜ」
その時、横から小馬鹿にしたような声が割り込んできた。
声の主は、すでに護衛として雇われているらしい若い武芸者だった。
派手な青い装束を着くずし、腰には二本の短い剣――双剣を帯びている。名を飛燕という。
飛燕は鼻で笑いながら、温詞の前に歩み寄った。
「ここは遊び場じゃねぇんだぞ。江南までの道中は命懸けだ。お前みたいなヒョロヒョロの腕じゃ、自分の弟すら守れねぇんじゃないか?」
「……ご忠告、感謝いたします」
温詞は挑発に乗ることなく、涼しい顔で受け流した。
「だけどな、俺は弱い奴と一緒に命を張るのは御免なんだわ。俺が直々に、お前の腕を試してやるよ」
飛燕は近くにあった木刀を二本拾い上げると、そのうちの一本を無造作に温詞へと放り投げた。
「ほら、持てよ。俺の攻撃を三分間しのぎ切れたら、認めてやらぁ」
バシッ。
温詞は飛んできた木刀を、見ずに片手で受け止めた。
その淀みない動作に、飛燕の目がわずかに鋭くなる。
「……飛燕殿。お手合わせは構いませんが、私は木刀は使いません」
「あぁ? どういうことだ?」
「私には、これで十分ですから」
温詞は受け取った木刀を地面に突き刺すと、素手でふわりと構えをとった。
右手は軽く前に出し、左手は胸の前に添える。それは道術も符術も使わない、純粋な武術――太極の構えだった。
「テメェ……! 俺を舐めてんのか!」
飛燕は顔を真っ赤にして激昂した。
「怪我しても知らねぇぞ! 燕返し!」
飛燕が地面を蹴り、猛禽類のような凄まじいスピードで突進してくる。
二本の木刀が風を切り、上下左右から休む間もなく温詞に襲いかかった。
ビュンッ! バシィッ!
目にも留まらぬ連続攻撃。周囲で見ていた他の護衛たちが、息を呑んで後ずさるほどの鋭い太刀筋だ。
だが。
「……遅いですね」
温詞の足元は、まるで地面に根を張ったかのように全く動いていなかった。
彼は上体をわずかに反らし、あるいは顔を数センチだけずらすことで、飛燕のすべての攻撃を紙一重でかわし続けていた。
「な、なんだと!?」
(当たらない! 俺の剣が、まるで暖簾に腕押しみたいに空を切りやがる!)
飛燕は焦りから、さらに大振りの攻撃を繰り出した。
右の木刀を大きく振り上げ、温詞の脳天に向かって全力で叩きつける。
温詞はその一撃を避けることなく、スッと右手を伸ばした。
そして、振り下ろされる木刀の側面に、手のひらを優しく添える。
「柔術・流水」
クルリ、と。
温詞が手首を返した瞬間、飛燕の木刀に込められていた巨大な力が、そのまま飛燕自身へと跳ね返った。
「うおわっ!?」
自分の勢いに振り回された飛燕は、完全に体勢を崩して前のめりに倒れ込む。
すかさず温詞は、飛燕の胸ぐらを軽く掴み、足をすくって宙に浮かせた。
ドスン!
見事な背負い投げが決まり、飛燕は背中から地面に叩きつけられた。
息を詰まらせて咳き込む飛燕の喉仏に、温詞の指先がピタリと寸止めされる。
「……勝負あり、ですね。手荒な真似をして申し訳ありません、飛燕殿」
温詞はいつもの穏やかな笑顔に戻り、飛燕に手を差し伸べた。
◇◆◇
中庭は、水を打ったような静寂に包まれていた。
誰もが、温詞の圧倒的で美しい体術に見惚れていたのだ。
「す、すげぇ……」
飛燕は呆然と温詞を見上げ、それからバツが悪そうに差し出された手を取って立ち上がった。
「……負けたぜ。アンタ、見た目によらずバケモンみたいに強いな。生意気言って悪かった」
「いえ。飛燕殿の剣筋も、若くして素晴らしいキレでしたよ。江南までの道中、心強い味方です」
温詞が嫌味なく褒めると、飛燕は顔を赤くして頭を掻いた。
「お父様! 彼ら、絶対に雇うべきです!」
麗月が目を輝かせて、父親の袖を引っ張った。
主人は大きく頷き、満面の笑みで温詞の手を握りしめる。
「いやあ、素晴らしい腕前だ! ぜひとも我が商隊の護衛をお願いしたい。給金は弾むぞ!」
「ありがとうございます。弟ともども、よろしくお願いいたします」
温詞は深く頭を下げた。
「やったね、温詞!」
黎明が嬉しそうに駆け寄り、温詞の腰に抱きつく。
麗月もその後ろから歩み寄り、温詞に向かってウインクをしてみせた。
「江南までの長い旅、よろしくね。温詞さん」
「ええ、麗月お嬢様。お任せください」
(これで、しばらくは安全に移動できる。皇宮の目をごまかしながら、江南を目指そう)
温詞は心の中で安堵の息を吐きながら、澄み渡る青空を見上げた。
こうして、皇子と武術師範という正体を隠した二人は、騒がしくも個性豊かな商隊の一員として、遥かなる江南への旅を出発させるのであった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




