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訳あり武師の江南暮らし ~宮廷を追われたので、奇術と道術で最強の護衛になります~  作者: 塩野さち


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第2話 一飯の恩義

 夜明けの冷たい空気が、肌を刺すように冷たい。

 険しい山道を抜け、冷たい河を渡り終えた頃には、東の空がうっすらと白み始めていた。


 温詞(おんし)と第三皇子の黎明(れいめい)は、ようやく追っ手の気配が完全に消えたことを確認し、街道から外れた獣道で足を止めた。


「はぁ、はぁ……っ」


 黎明は膝に手をつき、荒い息を吐いている。

 七歳の幼い体で、夜通し山野を駆け抜けたのだ。立っているのが不思議なほどに疲弊しているはずだった。


 グゥゥゥ……。


 不意に、可愛らしい音が静かな森に響き渡った。

 黎明はハッとして顔を赤らめ、慌てて自分のお腹を両手で押さえる。


「ち、違うぞ! 今の音はぼくじゃない!」


「ふふっ……。申し訳ありません、私の腹の虫が鳴いてしまったようです」


 温詞は優しく微笑み、黎明の嘘に合わせて自分の胃のあたりをさすった。


(これ以上の無理は禁物だ。どこかで休息を取り、腹ごしらえをしなければ、黎明様のお体がもたない)


 温詞が周囲を見渡すと、遠くの谷間に薄っすらと煙が立ち上っているのが見えた。

 小さな集落がある証拠だ。


「黎明様、あちらに村があるようです。少し休ませてもらいましょう」


「……うん」


 二人は身なりを整え、皇族であることを隠すために、黎明の上等な上着を裏返して着せた。温詞もまた、自らの剣を布で巻き、ただの旅の武芸者を装うことにした。


◇◆◇


 たどり着いたのは、十数軒の古びた家が身を寄せ合うように建つ、貧しい農村だった。

 どの家の屋根も傷んでおり、畑の土は痩せ細っている。帝国の動乱が、こんな辺境の村にまで重い影を落としていることが一目でわかった。


 温詞は村外れにある、一際小さな民家の戸を叩いた。


「ごめんください。旅の者ですが、道に迷ってしまいまして。少しばかり、休ませていただけないでしょうか?」


 ギィィ、と軋む音を立てて、戸が少しだけ開く。

 顔を出したのは、ひどく腰の曲がった白髪の老婆(ろうば)だった。


「……見ない顔だねぇ。こんな何もない村に、何の用だい?」


「幼い弟が、長旅で疲れてしまいまして。もしよろしければ、一杯の白湯だけでも恵んでいただけないでしょうか」


 温詞が深く頭を下げると、老婆は黎明の青白い顔を見て、同情したように目を細めた。


「……可哀想に。さぁ、中にお入り。こんなボロ家でよかったらね」


 二人は感謝を述べ、土間へと足を踏み入れた。

 家の中には家具と呼べるものはほとんどなく、隙間風がピューピューと吹き込んでいる。


 老婆はかまどに火をくべると、欠けたお椀に熱いものを注いで二人の前に差し出した。


「お粥なんて立派なものじゃないけどね。(あわ)を煮たすすり汁だよ。温かいうちにおあがり」


「ありがとうございます。この恩は忘れません」


 温詞が礼を言うと、黎明は待ちきれない様子でお椀を両手で包み込んだ。

 宮廷の豪華な食事しか知らない皇子にとって、それは見たこともない粗末な食べ物だ。だが、黎明は躊躇うことなく、それに口をつけた。


「……おいしい!」


 黎明の顔が、ぱぁっと花が咲いたように明るくなる。


「こんなにおいしいもの、ぼく、初めて食べたよ!」


「そうかい、そうかい。たくさんお食べ」


 老婆は目を細めて笑った。

 温詞も一口すする。味付けは薄い塩味だけで、決して美味しいとは言えないものだった。だが、冷え切った体には、そのささやかな温もりが何よりもありがたかった。


(民の暮らしは、ここまで困窮しているのか……)


 温詞が帝国の行く末に思いを馳せていた、その時だった。


 ドゴォォン!


 突然、民家の戸が外から乱暴に蹴り破られた。

 蝶番が吹き飛び、木片が土間に散らばる。


「ひぃっ!?」


 老婆が悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。

 土足のままズカズカと踏み込んできたのは、三人の男たちだった。


 先頭に立つのは、見事な猪首(いくび)をした筋骨隆々の大男だ。

 その体には革の鎧をまとい、腰には分厚い青龍刀(せいりゅうとう)を下げている。地方の役人を装っているが、その粗野な振る舞いは野盗そのものだった。


「おいババア! 今月分の税をまだ納めてねぇな! 皇帝陛下のための『特別戦費』だ、とっとと金を出せ!」


 男――剛石(ごうせき)と名乗る役人は、下品な声で怒鳴り散らした。


「お、お役人様! どうかお待ちください! 先月、なけなしの麦を持っていかれたばかりで、もう家には食べるものすら……」


「うるせぇ!」


 バキィッ!


 剛石は容赦なく足を振り上げ、老婆がすがりつこうとした小さなちゃぶ台を蹴り飛ばした。

 ちゃぶ台が宙を舞い、残っていた鍋の汁が土間にぶちまけられる。


「ああっ……! おらが孫のために残しておいた汁が……」


 老婆が地に這いつくばり、こぼれた汁を素手でかき集めようとして泣き崩れた。

 その光景に、黎明が弾かれたように立ち上がった。


「やめろ!」


 黎明の澄んだ声が、狭い家の中に響く。

 彼は小さな拳を固く握りしめ、大きな剛石を真っ向から睨みつけていた。


「おばあさんは、ぼくたちに大切なご飯を分けてくれたんだ! お前たちのような悪者が、いじめていい人じゃない!」


 剛石は目を丸くし、それから腹を抱えてゲラゲラと笑い出した。


「あぁん? なんだこのガキは。旅の乞食か? 俺に説教しようってのかい!」


 剛石が太い腕を振り上げ、黎明の小さな頬を力任せに張ろうとした、その瞬間。


 パシッ。


 乾いた音が響いた。

 いつの間にか黎明の前に立っていた温詞が、剛石の太い丸太のような腕を、片手で軽々と受け止めていたのだ。


「……なに?」


 剛石が顔をしかめる。

 腕を振り払おうとするが、まるで岩に挟まれたようにビクともしない。


「お前たち」


 温詞の声は、冷ややかな氷のようだった。

 普段の穏やかな笑みは消え失せ、底知れぬ静かな怒りがその瞳に宿っている。


「民を守るべき役人の身でありながら、その権力を笠に着て弱者を虐げるとは。……万死に値する愚行だ」


「な、なんだとテメェ! 俺に逆らう気か!」


 剛石が腰の青龍刀を引き抜こうとした瞬間、温詞は掴んでいた手首を軽くひねった。


柔術(じゅうじゅつ)螺旋転(らせんてん)


「ぐぎゃあぁっ!?」


 メキメキッ、と嫌な音が鳴り、剛石の巨体が空中で錐揉み回転をして土間に叩きつけられた。

 ドスーン! と家全体が揺れるほどの衝撃が走る。


「あ、兄貴! てめぇ、よくも!」


 背後にいた二人の手下が一斉に剣を抜き、温詞に斬りかかってきた。


 温詞は黎明を背中で庇ったまま、一歩もその場から動かない。

 右から迫る刃を左手の甲で軽く弾き返し、そのまま流れるような動作で男の胸倉を掴む。そして、もう一人の男に向かって、掴んだ男の体を放り投げた。


 ドゴッ!


「ごふっ!」


 二人の手下は激しく衝突し、白目を剥いて気絶した。

 ほんの数秒の出来事である。


「て、てめぇ……! タダで済むと思うなよ!」


 激痛に顔を歪めながら、剛石が立ち上がった。

 彼は怒りで顔を真っ赤に染め、全身の筋肉をパンパンに膨張させる。


「俺の硬気功(こうきこう)を舐めるなよ! 鋼鉄のように硬いこの肉体に、お前のような細腕の打撃が通じるか!」


 剛石が青龍刀を両手で構え、猛牛のように突進してくる。

 家を丸ごと破壊しかねないほどの勢いだ。


(これ以上家を荒らさせるわけにはいかないな)


 温詞は小さく息を吐き、右手のひらをスッと前に突き出した。

 構えらしい構えもない、ただ手を伸ばしただけの自然体。


 突進してきた剛石の胸板に、温詞の掌がピタリと触れる。


「死ねぇぇっ!」


 剛石が勝利を確信して叫んだ、その直後。


内家功(ないかこう)寸勁(すんけい)


 ドンッ!


 大砲でも撃ち込まれたかのような、低く重い音が炸裂した。

 筋肉の鎧など全く意味をなさなかった。剛石の巨体は、目に見えない巨大な杭で打ち抜かれたかのように後方へと吹き飛び、破れた戸口から外の泥水の中へと転がり出た。


「がっ……はっ……!」


 剛石は白目を剥き、口から泡を吹いて完全に意識を失っていた。


◇◆◇


 外が急に静まり返り、村人たちが恐る恐る家から顔を出し始めた。

 悪逆非道な役人たちが泥だらけで倒れているのを見て、誰もが信じられないという顔をしている。


「あ、あの……。旅のお方……」


 老婆が震える声で温詞に声をかけた。


「お怪我はありませんか? 怖がらせてしまって、申し訳ありません」


 温詞は振り返り、いつもの穏やかな笑顔に戻って老婆の手を握った。


「あいつらは、すぐに目を覚ますでしょう。ですが、しばらくは悪さができないほどに骨にヒビを入れておきました。……とはいえ、このままここに居ては、村の皆さんに災いが降りかかるかもしれませんね」


 温詞は懐から小さな革袋を取り出し、老婆の手に押し付けた。

 中には、ずっしりと重い銀貨が数枚入っていた。


「ひぃっ!? こ、こんな大金、受け取れません!」


「いいえ、受け取ってください。これは、世界で一番美味しかったお粥の代金です。そして、もし彼らが報復に来た時のための、村の皆さんの逃走資金にしてください」


 温詞がそう言って頭を下げると、黎明も横に並んで、深々と頭を下げた。


「おばあさん、ごちそうさまでした! すごくおいしかったよ!」


 そのまっすぐで純粋な瞳に、老婆の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……ありがとうございます。旅のお方、どうか道中、お気をつけて……」


 村人たちが手を合わせる中、温詞と黎明は村を後にした。

 背中に差し込んできた朝日の光が、二人の進む道を黄金色に照らし出している。


「温詞。ぼく、大きくなったら、あのおばあさんみたいな人たちが、安心してご飯を食べられる国を作りたい」


 黎明が前を向いたまま、ぽつりと言った。

 その横顔は、七歳の子供とは思えないほど凛々しかった。


「ええ。きっとなれますよ、黎明様なら」


 温詞は皇子の決意を心に刻み込みながら、はるか南の地――江南を目指して、再び力強く歩み始めた。


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