第10話 江南の絆と、新たなる黎明
昨夜の血生臭い激闘など微塵も感じさせないほど、江南の朝は爽やかに晴れ渡っていた。
高く澄み切った青空から黄金色の陽光が降り注ぎ、隠れ家である古びた屋敷の台所からは、心地よい鼻歌と食欲をそそる香りが漂っている。
「さあ、蒸し上がりましたよ。熱いうちに召し上がれ」
温詞が卓の中央に置いたのは、江南名物の『蟹粉小籠包』だった。
「うわぁ……! カニのいい匂いがする!」
第三皇子の黎明が、満面の笑みで歓声を上げる。
そんな平和な光景の向かい側で、元暗殺者の弟子である小蘭だけは、青ざめた顔で固まっていた。
(……信じられない。昨夜、帝都の恐ろしい暗殺部隊を相手に、あんな化物みたいな力を見せたのに。今、目の前で笑っているこの優男は、いったい何者なの……?)
「……あんた。本当に何者なの……?」
小蘭が震える声で問いかけると、温詞は彼女の前に熱いお茶を差し出した。
「ただの、料理と掃除が少し得意な居候ですよ。……ほら、茶柱が立っています。今日は何か良いことがあるかもしれませんね」
温詞はいつもの穏やかな微笑みを浮かべている。
その顔を見て、小蘭は小さく息を吐いた。この男の深淵には到底届かない。だが、不思議と恐怖よりも、この背中を追いたいという強い憧れが胸に芽生え始めていた。
◇◆◇
朝食を終え、買い出しのために江南の大通りへ出た一行は、異様な空気に足を止めた。
街のあちこちに、温詞と黎明によく似た似顔絵が貼り出されていたのだ。
帝都から送り込まれた役人たちが、多額の懸賞金をかけて二人を『大罪人』として指名手配していた。
「この似顔絵の男と子供を見なかったか! 匿えば同罪とみなすぞ!」
役人たちが怒鳴り散らし、賞金稼ぎたちが目を血走らせている。
温詞が笠を深く被り直した、その時だった。
「おおっ、役人様! その男なら、ついさっき東の船着き場へ逃げていくのを見ましたぜ!」
声を上げたのは、先日温詞が助けた『翠湖楼』の店主だった。
「いやいや、あっしが見たのは西の街道だ!」
街のあちこちで、江南の商人や町人たちが、わざと大声で偽の目撃情報を叫び始めた。
自分たちを助けてくれた『竹箒の英雄』を守るため、街の人々が一丸となって役人を撹乱し始めたのだ。
「温詞さん! こっちよ!」
路地の陰から、『金掌商会』の娘、麗月と護衛の飛燕が現れ、温詞たちを裏路地へと引き込んだ。
「お父様が商会の隠しルートを手配してくれたの! 今すぐ荷馬車に隠れて、南へ逃げて!」
麗月が必死の形相で訴えかける。
だが、温詞は静かに首を振った。
「……お気遣い、心より感謝いたします。ですが、我々がここから逃げれば、帝都の奴らは必ずこの街に報復を行うでしょう。この美しい江南の地を、汚させるわけにはいきません」
温詞が静かに微笑んだ、その瞬間だった。
ドゴォォォンッ!
大通りの方から、凄まじい爆発音と悲鳴が上がった。
◇◆◇
温詞たちが大通りへと駆け戻ると、そこは地獄絵図と化していた。
帝都の暗殺部隊『暗鬼』のリーダーが、部下たちに松明を持たせ、翠湖楼の店主を人質に取って広場の中央に立っていたのだ。
「小癧な真似をしおって! あの優男を出さねば、この街を端から火の海にしてくれるわ!」
「や、やめろ……! 街の人たちには手を出さないでくれ!」
店主が悲鳴を上げる。
暗鬼のリーダーが、残忍な笑みを浮かべて松明を屋台に投げ込もうとした。
「……人の庭を荒らすのは、万死に値する愚行ですよ」
凛とした、氷のように冷たい声が広場に響き渡った。
群衆をかき分け、温詞がゆっくりと前に進み出る。その手には、先ほど市場で買ったばかりの、泥のついた太い『長ネギ』が一本握られていた。
「出たな、化け物め! 死ねぇっ!」
屋根の上に潜んでいた賞金稼ぎたちと暗鬼の部隊が、一斉に温詞めがけて毒矢を放った。
逃げ場のない飽和攻撃。だが、温詞はスッと目を閉じ、呼吸を整えた。
(道術・『一念通天』)
温詞の意識が空間いっぱいに広がり、周囲のすべての殺気と矢の軌道が完全に可視化された。
温詞は手首を滑らかに返し、長ネギを独楽のように回転させる。
柔らかなネギの弾力と絶妙な勁力が、飛来する無数の矢をすべて絡め取り、背負い投げのように石畳へと叩き落としていく。
バキバキバキッ!
「なっ……ネギ一本で、俺たちの矢をすべて……!?」
驚愕するリーダーの目の前に、温詞の姿が陽炎のようにブレて消えた。
「奇術・『転瞬歩』」
次の瞬間、温詞はすでにリーダーの懐に潜り込んでいた。
「がっ!?」
温詞の掌底が、リーダーの胸板にピタリと触れる。
「内家功・『震天掌』」
ドゴォォォォンッ!!
凄まじい衝撃波が爆発した。
リーダーの巨体は数十メートルも後方へと吹き飛び、運河の濁った水の中へと派手な水柱を上げて墜落した。
さらに、その衝撃波の余波は突風となって広場を駆け抜け、部下たちが持っていた松明の火をすべて一瞬にして吹き消してしまった。
◇◆◇
「ひぃっ……! ば、化け物だぁぁっ!」
圧倒的な力の差を前に、残された役人と暗鬼の刺客たちは完全に戦意を喪失し、我先にと街の外へと逃げ出していった。
静けさを取り戻した広場に、しばらくの間、呆然とした空気が流れる。
やがて、誰からともなく、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
「英雄様万歳!」
「俺たちの江南を守ってくれたぞ!」
街の人々が笑顔で駆け寄り、麗月や飛燕もほっとしたように息を吐く。
黎明が嬉しそうに走り寄り、温詞の腰にぎゅっと抱きついた。
「温詞、すっごくかっこよかった! やっぱり温詞は世界一だね!」
「せっかくの新鮮なネギが、少し傷んでしまいましたね」
温詞は折れ曲がった長ネギを見て苦笑いしながら、黎明の頭を優しく撫でた。
その光景を少し離れた場所から見ていた小蘭は、強く拳を握りしめ、自分自身の心に誓った。
(私は……この人のように強くなる。この江南の街と、そして若様を、命を懸けて守る『盾』になるために!)
小蘭は暗殺者の冷たい目ではなく、希望に満ちた真っ直ぐな瞳で、温詞の背中を見つめていた。
温詞はゆっくりと顔を上げ、遥か遠くの帝都がある北の空を睨み据えた。
ここが自分の居場所だ。どんな刺客が来ようとも、この手で必ず守り抜いてみせる。
「……さあ、帰りましょうか。今日は特別に、夕飯も豪華にしましょう」
温詞がいつもの穏やかな笑顔で振り返ると、黎明と小蘭は弾かれたように頷いた。
温かく優しい江南の風が、三人の髪を揺らす。
逃亡者として始まった彼らの旅は終わりを告げ、愛する人々と街を守り抜くための、新たな『日常』が今、確かに幕を開けたのだった。
◇◆◇
【第一部 完結】
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