第1話 亡命の序曲
大陸の空を、不吉な鈍色の雲が分厚く覆っていた。
風は湿気を帯びてねっとりと肌にまとわりつき、まるで嵐の前の静けさのように、世界は息を潜めている。
時は十世紀。
長きにわたり栄華を誇った華耀帝国は今、水面下で蠢く権力闘争によって、激しい動乱の渦中にあった。
そんな重苦しい空気を切り裂くように、宮廷の一角にある豪奢な演武場では、鋭い気合とともに木剣が空を打つ音が響き渡っていた。
「はぁっ! やあっ!」
小柄な体から発せられる声は、まだ幼く甲高い。
一生懸命に木剣を振るうのは、若干七歳の第三皇子、黎明である。
彼の額には玉のような汗が浮かび、上等な絹の稽古着はすでに汗で肌に張り付いていた。
「腰が高いですよ、黎明様。敵は常に、あなたの隙を狙っています。足の裏で大地を掴むように、重心を落としてください」
若き武術師範である温詞は、少し離れた場所から静かな声で告げた。
細身で長身、涼やかな目鼻立ちをした彼は、手にした木剣を軽く下段に構え直す。その所作には一切の無駄がなく、流れる水のように自然であった。
「くっ……こうか? 温詞!」
黎明は歯を食いしばり、言われた通りにぐっと腰を落とす。そして、小さな体を目一杯使って、温詞に向かって木剣を振り下ろした。
パーン!
乾いた音が演武場に響く。
温詞は一歩も動くことなく、手首の返しだけで黎明の一撃を軽々と受け流した。勢い余った黎明は前のめりに転びそうになるが、温詞がすかさず手を差し伸べて支える。
「まだまだ力みすぎています。剣は腕力で振るうものではありません。気の流れを意識し、体全体を連動させるのです」
「……わかった。もう一回だ!」
黎明は息を切らせながらも、負けん気の強い瞳で温詞を見上げた。
(この子はまだ幼い……。本来なら、蝶を追いかけたり、書物を読んだりして無邪気に過ごすべき年齢だ)
温詞は皇子の小さな背中を見つめながら、内心で深く息を吐いた。
(だが、皇帝の血を引く以上、いつか必ず戦いから逃れられない日が来る。私が教えられることは、すべて教えておかなければ……)
温詞がそんな悲壮な決意を新たにした、その瞬間だった。
ゾクリ、と。
背筋を這い上がるような、凍り付くほどの殺気が演武場を包み込んだ。
それは明確な敵意を持ち、一直線に黎明へと向けられている。
◇◆◇
「……黎明様、私の後ろへ!」
温詞が鋭く叫ぶのと同時に、演武場を取り囲む高い屋根から、数条の黒い影が音もなく舞い降りた。
真っ黒な装束に身を包んだ、暗殺者たちである。
気配を完全に殺した彼らの動きは、まるで影が意志を持って実体化したかのようだった。
「ひっ……!」
黎明が短い悲鳴を上げ、温詞の背中にしがみつく。
暗殺者たちは一言も発することなく、無機質な瞳で二人を見据えた。そして、袖口から一斉に刃を取り出す。
鈍く光るその投剣には、致死性の猛毒がたっぷりと塗られていた。
シュバッ!
風を切る音とともに、無数の投剣が四方八方から温詞と黎明に向かって放たれる。
逃げ場はない。常人であれば、瞬く間に全身を貫かれていただろう。
「奇術・連環布!」
温詞は流麗な動きで両手の指を絡ませ、複雑な印を組んだ。
そして、たっぷりと生地を使った長袖を、宙に向かって大きく振り払う。
パキィィン!
ガラスが割れるような高い音とともに、温詞と黎明をドーム状に包み込むように、淡く輝く布の膜が展開された。
毒の投剣が次々と布の膜に激突するが、すべて甲高い音を立てて弾き返され、バラバラと床に落ちていく。
「なっ……」
感情を見せなかった暗殺者の一人が、わずかに動揺を見せた。
「黎明様、しっかり私に掴まっていてください! 絶対に手を離してはなりませんよ!」
温詞は怯えて震える皇子をしっかりと片腕で抱きかかえると、力強く地面を蹴った。
「はああぁっ!」
気合とともに、温詞の体から青白いオーラが立ち昇る。
道術による身体強化だ。全身の経絡を巡る気を爆発的に高めることで、一時的に人間の限界を超える身体能力を得る。
バンッ! と石畳が砕け散るほどの踏み込みを見せ、温詞は瞬時に暗殺者の包囲網を突破した。
疾風のごとき速さで宮廷の回廊を駆け抜け、庭園の壁を跳び越える。
背後からは怒号と、追っ手の足音が複数聞こえてくるが、温詞の道術によって強化された足には到底追いつけない。
温詞は迷うことなく、宮廷の背後にそびえる険しい裏山へと逃げ込んだ。
◇◆◇
裏山に入ると、日はすっかり落ち、周囲は深い霧に包まれていた。
鬱蒼と茂る木々が月明かりを遮り、一寸先も見えないほどの暗闇が広がっている。
「はぁ、はぁ……温詞、怖いよ……」
温詞の腕の中で、黎明が小さな声で呟く。
その体は冷たく、小刻みに震えていた。
「大丈夫です、黎明様。私がついています。もうしばらくの辛抱ですからね」
温詞は皇子を安心させるように、優しく背中を叩いた。
足跡を残さないよう、木の根や岩の上を飛び移りながら慎重に進む。
だが、温詞の顔には焦りの色が濃く浮かんでいた。
先ほどの暗殺者たちは振り切ったはずだ。しかし、先刻から背後にまとわりつく「別の気配」が、一向に消えないのだ。
その足音は、暗殺者のように気配を消そうとはしていなかった。
ドスン、ドスンと、まるで巨大な獣が歩くような重い足音。それでいて、一歩ごとに凄まじい圧迫感を放ちながら、確実に距離を詰めてきている。
(この尋常ではない気は……まさか!)
温詞が足を止めた、その時だった。
「逃がさぬと言ったはずだ、温詞」
低く、地響きのような声が霧の向こうから響いた。
行く手を阻むように、切り立った崖の上に一人の大男が立っていた。
見上げるほどの巨躯。巌のような筋肉。そして、手には身の丈ほどもある巨大な大刀が握られている。
皇宮守護の任に就く、帝国屈指の達人――雷厳である。
「……雷厳殿。貴方ほどの御方が、なぜこれほど卑劣な企てに手を貸すのですか」
温詞は黎明を安全な岩陰に隠すと、自らは前に進み出た。
そして、背中に負っていた細身の長剣をゆっくりと引き抜く。
白銀の刀身が、僅かな月明かりを反射して冷たく光った。
「国を統べるには、弱き芽は摘まねばならん。それがたとえ、幼き皇子であろうともな」
雷厳は見下ろすような視線で、冷酷に言い放つ。
「今の皇帝は老い、帝国は腐敗している。このままでは国が滅ぶのだ。新たなる強き指導者を玉座に据えるため、第三皇子にはここで消えてもらう」
「……己の正義を語りながら、幼い子供を手に掛けようというのですか。それはただの暴挙だ!」
「問答無用!」
雷厳が天に向かって咆哮すると、その全身から青白い電光が激しく放たれた。
バチバチと火花が散り、周囲の空気が焦げるような匂いが漂う。
雷法の使い手である彼は、雷の力を己の肉体に宿すことで、巨体に似合わぬ超絶的な速度を生み出すことができる。
ズンッ!
崖の上から飛び降りた雷厳は、一瞬にして温詞の目の前まで距離を詰めた。
振り上げられた巨大な大刀に、恐ろしいほどの雷光が収束していく。
「消し飛べぇっ!」
凄まじい轟音とともに、大刀が容赦なく振り下ろされた。
ドゴォォーン!
大刀が直撃した大地が深く割れ、爆発したかのように土煙が舞い上がる。
周囲の木々が衝撃波でへし折れ、すさまじい破壊力が辺りを蹂躙した。
「……遅い」
だが、雷厳の耳に届いたのは、背後からの静かな声だった。
温詞は紙一重でその一撃をかわし、空中に高く跳躍していたのだ。
温詞は宙を舞いながら、素早く懐に手を入れる。
引き抜いたのは、朱色の文字がびっしりと書き込まれた数枚の符咒だった。
「符術・爆炎鳥!」
温詞が空中に符咒を投げ放ち、印を結ぶ。
すると、紙片は瞬く間に紅蓮の炎を巻き上げ、巨大な炎の鳥へと姿を変えた。
灼熱の熱気を放ちながら、炎の鳥は鋭い鳴き声を上げて雷厳へと襲いかかる。
「小癧しいわ!」
雷厳は振り返りざまに、雷を纏った大刀を真横に一閃した。
バリィィン! という轟音とともに、雷と炎が激突する。
雷厳の絶大な腕力によって、炎の鳥は真っ二つに切り裂かれ、火の粉となって虚空に霧散した。
「……ふん、他愛もない」
雷厳が鼻で笑った、その瞬間。
霧散した炎と煙の奥から、音もなく滑り込んでくる影があった。
温詞である。
彼は爆炎鳥を囮にして、雷厳が大振りをしたその一瞬の隙を見逃さなかった。
雷厳の広大な懐に深く潜り込んだ温詞は、右の掌を雷厳の分厚い胸板にぴたりと当てる。
「なにっ!?」
雷厳が驚愕の声を上げた時には、すでに遅かった。
「内家功・震天掌!」
ドッ……!
一見すると、ただ触れただけのような軽い一撃。
だが、それは外側の肉体ではなく、内側の臓腑を直接破壊する恐るべき浸透系の技であった。
遅れて、爆発的な勁力が雷厳の体内で弾けた。
「ごっ……ああぁぁっ!」
雷厳の巨躯が、まるで木の葉のように数メートル後方へと吹き飛ぶ。
ズドーン! と背中から大木に激突し、幹を真っ二つにへし折ってようやくその動きを止めた。
「……ぐはっ!?」
地面に崩れ落ちた雷厳は、大量の血を吐き出し、片膝をつく。
分厚い胸板を押さえ、信じられないという目で温詞を睨みつけた。
「はぁ、はぁ……。まさか、お前のような若造が、これほどの勁力を隠していたとは……。我が内臓を、一撃でかき回すとはな……」
温詞は無表情のまま長剣を正眼に構え、雷厳に向かってゆっくりと歩み寄る。
追撃の手を緩めるつもりはない。さらなる術を発動させるため、左手で静かに印を組み始めた。
だが、雷厳は痛みに顔を歪めながらも、ふっと苦笑いを浮かべて首を振った。
「よかろう……。今日のところは、貴殿の執念に免じて引いてやる。相討ち覚悟でやり合えば、その皇子を巻き込むことにもなるからな」
雷厳がよろよろと立ち上がると、彼の全身を再び青白い雷光が包み込んだ。
「だが、忘れるなよ温詞。皇帝の血を引く者が生きている限り、地獄の果てまで追手は続くぞ。……その首、洗って待っておれ」
言い残すとともに、雷厳の姿は眩い閃光に包まれた。
パシィィン! という破裂音とともに、彼の巨体は煙のようにかき消え、後には焦げた大地の匂いだけが残された。
◇◆◇
雷厳の気配が完全に消え去ったことを確認すると、温詞は張り詰めていた気を解き、ふうっと荒い息を吐き出した。
長剣を鞘に納める彼の手は、極度の緊張と疲労でわずかに震えていた。
「温詞……!」
安全な岩陰から、黎明が泣きそうな顔をして駆け寄ってくる。
そして、温詞の裾をぎゅっと力強く握りしめた。
「怖かった……! 温詞が死んじゃうかと思った……」
「申し訳ありません、黎明様。恐ろしい思いをさせてしまいましたね」
温詞は膝をつき、黎明の目線に合わせて優しく微笑んだ。
そして、泥で汚れた皇子の小さな頬を、そっと手で拭う。
「温詞……。ぼくたち、これからどうなるの? お父様やお母様のところには、もう帰れないの?」
無邪気な問いかけが、温詞の胸を鋭く締め付けた。
宮廷はすでに敵の手に落ちているかもしれない。戻れば、間違いなくこの幼い命は奪われるだろう。
(これからは、逃亡の日々が続く。この幼い皇子に、どこまで過酷な運命を背負わせることになるのか……)
温詞は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに力強い眼差しを取り戻し、遥か南の空を見上げた。
「大丈夫ですよ、黎明様。どんな困難が待ち受けていようとも、必ず私が、あなたをお守りします。私の命に代えても」
「……うん。ぼく、温詞を信じる」
黎明は涙をこらえ、力強く頷いた。
冷たい夜風が、二人の髪を揺らす。
温詞は再び黎明の小さな手をしっかりと握りしめた。
「行きましょう。まずは追っ手を振り切るために、さらに山深くへ入ります。そして、河を渡りましょう」
二人は暗闇に包まれた険しい山道を降り始めた。
目指すのは、皇宮の権力が及びにくく、豊かな水と緑に恵まれた広大な地――江南である。
長きにわたる逃亡劇と、数奇な運命が交錯する旅が、今ここに幕を開けたのであった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




