夢の浮橋、夜を越えて
暁の都を覆っていた雪は、早春の風に吹かれて色と形を失いつつあった。有馬兼光は雲ひとつない空を見上げて、ひとつため息をつく。澄んだ青も、都の喧騒も、兼光の内には響かない。
ぱしゃりと、水を跳ね上げる小さな音が聞こえた。兼光は視線を地上へと戻す。往来に東雲からの使いの姿を見つけて、唇の端を僅かに歪めた。
昨日と、何一つ変わらない今日が来る。
「有馬の蔵人さま」
使いの者は、此方が気に病むほど小さくなりながら、折り畳まれた文を抱えている。兼光は人目に付かないように、彼を屋敷の敷地内へと誘った。
「いつもご苦労様。受け取ろう」
池の畔で兼光がそう告げても、彼は暗い表情のままだった。震える彼の指から、「失礼する」と半ば強引に文を受け取り、その場で開く。
くすんだ薄緑の紙に、美しい文字で歌が綴られている。
鶯の 枝に来鳴けば 打ち思ふ
春の行方を 誰に問ふらむ
兼光は歌を読み上げた。使いの者が目を伏せる。
「あの、我が姫は――」
「姫はこういう御方だよ」
兼光は使いの者の言葉を遮り、告げた。
「すぐに返事を書く。待っていてくれるか」
彼をその場に残し、兼光は屋敷の中へと戻った。これも繰り返される日常の一部。
ほとんど無意識のうちに机に向かう。姫からの文は机の端に置いた。そこには幾つも、今日と同じ色の文が並んでいる。昨日も、その前も、姫からの文はいつも変わらない。一字一句、同じ文字列が記されている――
(……小夜)
彼女の名を、心の中で反芻した。
幼少期、ほんの一年だけ、共に過ごしたことがある。兼光よりも年下で幼かった彼女は、そのことを覚えていないだろう。それでも兼光は、小夜のことを忘れたことはなかった。
――今も。
兼光は筆を取った。姫への返歌は、いつも少しずつ内容を変えている。季節が移ろうように、風が流れ行くように、何かが変わればいい。兼光は筆を止めることだけはしない。
ふと鶯の声が聞こえて、兼光は庭に目を向けた。まだ雪が残る梅の枝で、鶯が鳴いている。枝の先で、淡く色付いた梅の花が顔を覗かせていた。
子供の頃の出来事を思い出す。小夜が元の屋敷へ戻る別れの日に、梅の花を渡したことがあった。男である兼光と違って庭遊びなどできない小夜は、梅に顔を近付けて、その香りを楽しんでいた。
兼光は筆を走らせる。
咲き匂ふ 梅の花こそ あはれなれ
行く春の末に 散り果てむとも
墨を十分に乾かせてから丁寧に折り畳み、庭へと足早に戻った。先ほど見た梅の枝をひとつ手折り、文を結ぶ。東雲の使者に渡すと、彼は深々と頭を下げ、屋敷を出ていった。
*
宵闇が都を覆う頃、兼光は東雲の屋敷を訪れた。
東雲の家人たちはもうすっかり兼光の訪れを日常として受け入れていて、挨拶もそこそこに屋敷の奥、二の姫の暮らす東の対屋へと通された。
御簾越しに、兼光と姫は向かい合う。距離は遠い。それでも、映る影、僅かな衣擦れの音が、確かに彼女がそこにいると物語っている。
「今日は、いかがお過ごしでしたか」
兼光の挨拶は、朝が来て、また夜が来るように、昨日と同じもの。聞き耳を立てていたらしい侍女が、かたんと物音を立てた。
姫からの返事が来るまで、少し間があった。
「今をときめく蔵人さまが、宮中で女房に歌を詠まれたとお聞きしました。ずいぶんと、人気がおありになるのですね」
姫の口調はどこか刺々しい。言われて、そんなこともあったなと思い出した。急ぎの仕事中に声をかけられ、難儀なものだとその場では感じた。
ここで引き合いに出されるのならば、悪くない出来事だった、と評価を改める。
兼光は居住まいを改めて正した。
「私が真に思うのは、梅の花だけですよ」
そう言って、淡く笑みを作る。姫の雰囲気が名残雪のようにゆるりと解けたのが、御簾越しでもわかった。
「お上手ですね。……貴方が贈ってくれた梅の花ですけれど、なぜでしょうね、ひどく懐かしい気持ちがするのです」
姫の言葉に、兼光の時が止まる。彼女はこちらを見ているのか、それとも梅の木を見ているのか、僅かばかり体を揺らした。
「この梅の香りが、私は好きです」
兼光は返事をしなかった。風が吹いて梅の木を揺らす。月光に彩られた白い雪が落ちても、早春の、まだ咲いたばかりの花は散らない。
「……そちらは、寒くはないですか」
姫はいつも、簀子で過ごす兼光にそう声をかけてくれる。昨日も、おとといも、その前も。夜に男が女の家を訪ねる意味を、彼女は知らないふりをしている。
「寒いですが、今夜は月や梅を眺めて過ごしたいのですよ。もうすぐ、雪の季節が終わりますから」
甘言への兼光の返しもまた、いつも通り。何もない夜を過ごす男を姫がどう思うか、兼光は努めて考えないようにしてきた。忘らるる身の上。誓うことなどできはしない。
「……そうですか」
姫の声が響く。ふたりの間に沈黙が落ちた後、ふいに姫は御簾の向こうで立ち上がり、奥へと行ってしまった。切燈台の明かりが揺らめく。衣擦れの音と、物を動かすような音が波紋となって兼光を揺らす。
今まで、こんなことはなかった。兼光は拳を固く握り、姫の動きを見守る。
姫は戻ってきて、御簾の端を軽く捲り上げた。華やかな赤色の着物と、艶やかな黒髪が覗く。そっそりとした指が、小さなものを中から外へとそっと押し出した。
御簾の揺れが収まってから、兼光はそれを手に取った。小さく折り畳まれた文を開く。
兼光は立ち上がり、文を軒先の燈籠に近付けた。
夜を経て 共に眺むる 梅の花
思ひ及ぶは 夢の浮橋
文を、何度か読み返した。綴られたばかりのこの歌を、繰り返す日々の中で兼光は初めて目にした。梅の香りが仄かに漂う。御簾の向こうにいる姫は、微笑んでいるような気がした。
口許まで上がってきた彼女の名を、飲み込む。
「姫には、敵いませんね」
するりと、唇から言葉が漏れる。兼光は腰を下ろしてから、東の対屋から庭をぐるりと見回した。梅の咲く庭は、幼い頃を思い出させる。
例え小夜が覚えていなくても、これからも兼光はここへ通い続ける。
他愛ない話をぽつぽつとする間に、山の稜線に近い空が白み始めた。兼光は烏帽子をそっと正し、立ち上がる。
「そろそろ、行かねばなりません」
「蔵人さま……」
小夜の声が、沈んでいる。夜が明ければ、また同じ一日が始まるのに。兼光の胸に、僅かな痛みが過った。今日の彼女を失いたくない――小さな望みが、兼光の口を開かせる。
「よろしければ、一度でいい。兼光と呼んでは頂けませんか」
ずっとずっと昔の、幼い少女の声が、頭に響いている。
小夜は、御簾のすぐ近くにゆっくりと近寄ってきた。顔さえ見えてしまいそうな近い距離に、小夜がいる。
「……兼光さま」
あの頃よりも美しい声で、小夜が一夜限りの名前を呼ぶ。
「はい。……また、夜にお逢いしましょう」
兼光は小夜に背を向けた。振り返ることなく歩き出す。
東の空から朝日が差し、夢の浮橋のような夜は、終わりを告げた。
*
兼光は有馬の屋敷の前で、今日も使いを待つ。
雪解け水を踏み分けながら、東雲の使いが昨日と同じ時間にやって来る。昨日と同じ今日を告げる者が近付いてくるのを、兼光は黙って見守った、
「有馬の蔵人さま!」
今日の彼は、少し明るい顔をしていた。怪訝に思いながらも、兼光はいつも通り屋敷へと彼を招く。
差し出された文は、梅の枝に結ばれていた。その香りに、胸がざわつく。
いつもと違う文を開いた。鶯色の紙に綴られているのは、いつもと同じ美しい字と、春の行方を問う歌。
違うのは、その後ろに文章が足されていたこと。迷いながら書いたのか、その字は歌に対して小さく、震えている。
『昨日の夜は楽しかったです。……なぜでしょうね、貴方とお逢いしてなどいないのに、そう言わなければと思ったのです』
兼光は文を畳んで、もう一度梅の枝に結び直す。夜を越えた先で見つけたそれを眺めて、目を細める。
「まさか、女性から後朝の文を贈られるとはね」
呟いて、兼光は夢の名残のような笑みを浮かべた。




