私の呪縛
第一部 薄ら笑い
第一章 夜の静寂
その夜、世界から音が消えた。さっきまで父の笑い声と、母がそれを優しくたしなめる声、そしてカーステレオから流れる少し古いポップスが満たしていたはずの空間は、耳鳴りのような甲高い金属音と、遠ざかっていくエンジンの残響だけを残して、絶対的な沈黙に支配された。
後部座席で眠りに落ちかけていた少女、水野沙希の体は、奇妙な浮遊感のあと、シートベルトに強く食い込まれ、そしてぐったりと弛緩した。彼女が目を開けたとき、視界に映ったのはひび割れたフロントガラスの向こうに広がる、非現実的なほど静かな夜道だった。街灯のオレンジ色の光が、砕けたガラスの破片をきらきらと照らしている。それが美しいとさえ思ったのは、突然の大きな衝撃を受けた後の、一種のショック状態が引き起こした感覚麻痺のせいだったのかもしれない 。
「お父さん? お母さん?」
声は出なかった。喉が張り付いたように動かない。代わりに、彼女はただ前席を見つめた。二つの影が、だらりと不自然な角度で凭れかかっている。動かない。返事もない。車の外では、何事もなかったかのように風が木々を揺らす音だけがしていた。
やがて、遠くからサイレンの音が聞こえ始め、それは徐々に大きくなり、赤と青の回転灯が彼女の小さな世界を激しく点滅させた。車のドアがこじ開けられ、知らない大人の手が伸びてきて、彼女を暗闇の中から抱き上げた。その腕の中で、沙希は自分が自分でないような奇妙な感覚に襲われていた 。救急隊員の袖を固く握りしめながら、彼女は一度だけ振り返った。歪んだ鉄の塊と化した家族の車と、その中で静かに眠り続ける両親の姿を、その目に焼き付けた。
第二章 遺された者
両親を一度に失った沙希は、母方の叔母夫婦に引き取られた。八歳の少女にとって、世界のすべてが突然色を失い、意味をなさなくなった。犯罪被害によって遺された子供は、成人の遺族と比べて精神的な被害がより深刻になることが多い 。沙希の場合も例外ではなく、彼女は言葉を失ったかのようにほとんど話さなくなった。夜は悪夢にうなされ、昼間はぼんやりと窓の外を眺めて過ごす日々が続いた 。時折、突然不安に駆られて興奮状態になることもあり、叔母はそんな彼女をどう扱っていいのかわからず、ただ戸惑うばかりだった 。
警察の捜査は難航していた。目撃者はおらず、現場に残された塗料の破片とタイヤ痕だけが唯一の手がかりだった。1990年代当時、ドライブレコーダーは一般車両にはほとんど普及しておらず、タクシーや一部の事業用車両に導入され始めたばかりだった 。事故現場を記録した映像という、現代では当たり前となった決定的な証拠が存在しなかったのだ。
数週間後、警察は一台の黒いセダンを特定し、その所有者である男、伊藤正幸を取り調べた。男は事故当時、現場近くのバーで酒を飲んでいたと主張し、アリバイを主張した。車の損傷についても、駐車場でぶつけられたものだと説明した。警察は男を重要参考人として捜査を続けたが、彼が犯人であると断定するには至らなかった。
沙希は、叔父と弁護士が交わす会話の断片から、状況を理解しようと努めていた。「証拠が不十分だ」「このままでは起訴できないかもしれない」。その言葉の意味を、彼女は子供ながらに正確に感じ取っていた。法というものが、必ずしも真実を明らかにし、正義をもたらすものではないという冷たい現実を。
第三章 法廷の薄ら笑い
数ヶ月後、検察は伊藤正幸を不起訴処分とした。理由は「嫌疑不十分」 。彼が事故を起こしたという直接的な証拠を、最後まで見つけることができなかったのだ。物証も目撃証言もなく、男の曖昧な供述を覆すことはできなかった 。
その決定が下された日、沙希は叔母に連れられて検察庁の廊下にいた。手続きを終えて出てきた男と、彼女の視線が初めて交わった。中肉中背で、どこにでもいるような平凡な顔立ちの男。しかし、その口元に浮かんでいた微かな笑みを、沙希は見逃さなかった。それは、安堵でもなければ、喜びでもない。すべてを切り抜け、自分の勝利を確信した者の、冷たく傲慢な薄ら笑いだった。
その瞬間、沙希の中で何かが音を立てて砕け、そして同時に、氷のように硬い何かが生まれた。怒りでも、悲しみでもない。それは、生涯をかけても消えることのない、復讐という名の誓いだった。
法制度が彼女を見捨てたという事実は、彼女自身の内に、反転した正義の体系を構築させた。客観的な証拠を求める法が失敗したのなら、自分の正義は主観的で、個人的で、激情に満ちたものになるだろう。物証の欠如が彼を救ったのなら、自分の復讐は一切の証拠を残さない「完全犯罪」でなければならない。それは、彼女を裏切った世界に対する、緻密に計算された哲学的反論の始まりだった。
第四章 長い助走
沙希の人生は、あの日を境に復讐という一点に収斂された。彼女は静かで、観察深く、そして深く傷ついた人間として成長した。学校では目立たず、友人との深い付き合いも避けた。彼女の心は常に張り詰め、些細な物音にも敏感に反応し、人混みでは無意識に周囲を警戒するようになっていた 。これは、長期的なトラウマがもたらす典型的な過覚醒症状だった 。
彼女の学業や個人的な興味は、すべてが一つの目的に向かっていた。それは、復讐に必要な知識と技術を習得すること。法学を学び、法の限界と抜け穴を知った。化学を学び、人の目には見えない痕跡について知った。そして、心理学を学び、人の心の脆さと操り方を学んだ。
彼女にとって、復讐計画は単なる怒りの発露ではなかった。それは、無力な被害者であった自分を、能動的な主体へと変えるための唯一の手段だった 。伊藤正幸という標的を破滅させる未来を計画することだけが、彼女に生きる意味と目的を与えていた。彼女は復讐のために生きていたのだ 。この執着は、彼女自身の悲しみや痛みと向き合うことを避けるための、巨大な防衛機制でもあった 。復讐という鎧を纏わなければ、彼女の心はとうの昔に壊れていただろう。
第二部 設計者
第五章 影山リナという作家
32歳になった沙希は、影山リナというペンネームで生きていた。彼女は、複雑な心理描写と巧妙なプロットで評価される、新進気鋭の心理スリラー作家だった。世間との接触を極力断ち、謎めいた存在として知られていたが、その作品は着実にファンを増やしていた。
都心の高層マンションの一室にある彼女の書斎は、作戦司令室と呼ぶにふさわしい空間だった。壁一面に設置された巨大なホワイトボード。生活感のない、機能性だけを追求した家具。彼女の小説は、社会的な破滅や心理的な操作をテーマにしたものが多く 、それは来るべき日のための、公開された演習に他ならなかった。彼女の隠遁生活は、トラウマによる対人関係の回避という側面と 、復讐計画の匿名性を維持するための実用的な選択という、二つの意味を持っていた。
彼女は新作のプロットを練っていた。ターゲットの社会的信用を失墜させ、家族や友人から孤立させ、精神的に追い詰めていく。その手口は、彼女がこれから実行しようとしている計画の縮図だった。
第六章 標的、伊藤正幸
ホワイトボードの中央には、一人の男の写真が貼られていた。伊藤正幸。50代半ばになり、中堅商社の専務取締役にまで上り詰めていた。高級マンションで美しい妻と大学生の娘に囲まれ、何不自由ない、絵に描いたような成功者の生活を送っている。
沙希は、数年にわたる調査で彼のすべてを把握していた。彼の経歴は、1990年代の日本の企業文化を体現していた。バブル崩壊後の就職氷河期を乗り越え、「24時間戦えますか」という言葉が象徴する猛烈な働き方で会社に忠誠を誓い、成果主義の導入という時代の波に乗って出世街道を突き進んできた 。このような文化では、個人の能力以上に、体面や評判が重要視される。それこそが、彼の最大の弱点だった。
沙希は、伊藤が決して罪悪感に苛まれていないことを確信していた。彼のような人間は、自分の過去の過ちを巧みに正当化し、記憶の奥底に封じ込めることができる 。おそらく彼は、特権意識を持ち、自分の成功はすべて自分の力で勝ち取ったものであり、過去の些細な過ちはその過程で仕方のないことだったとさえ考えているだろう 。その良心の欠如こそが、沙希の復讐心をさらに燃え上がらせる燃料となっていた。
第七章 解体の設計図
沙希はホワイトボードの前に立ち、計画の最終確認を行った。目的は、肉体的な危害ではない。社会的、職業的、そして家庭的な、完全なる抹殺。計画は三つの段階で構成されていた。
第一段階:潜入(トロイの木馬)。 直接的な攻撃はしない。まず、伊藤の会社内に協力者を作る。沙希は、社内での評価に不満を抱き、伊藤を快く思っていない中堅社員をリストアップしていた。彼女は企業ヘッドハンターを装い、その社員に接触する。これは「プリテキスティング」と呼ばれるソーシャルエンジニアリングの古典的な手法だ 。信頼関係を築き、彼を無意識の「インサイダー」へと変えるのだ 。
第二段階:社会的浸食(千のクリックによる死)。 デジタル空間で伊藤の評判を徹底的に破壊する。偽のSNSアカウントを作成して悪意のある噂を拡散させ 、企業の口コミサイトに彼の横暴な振る舞いを匂わせる、もっともらしい悪評を匿名で投稿する 。さらに、検索エンジン最適化の逆をいく「逆SEO対策」を駆使し、彼の名前を検索するとネガティブな情報が上位に表示されるように操作する 。インサイダーから得た情報、例えば彼がよく利用するレストランや娘の大学の掲示板などを利用することで、その攻撃は驚くほどの信憑性を持つことになる 。
第三段階:職業的処刑(産業スパイ)。 インサイダーを遠隔で操り、社内の機密情報にアクセスさせる。顧客リスト、価格戦略、内部監査資料といったデータだ 。1990年代から使われているような古い社内システムは、セキュリティが脆弱で、侵入は比較的容易だと彼女は読んでいた 。入手したデータを巧妙に改竄し、伊藤が横領や競合他社への情報漏洩を行っているかのように見せかける。そして、その「証拠」を匿名で取締役会と経済ジャーナリストにリークする。これは産業スパイの典型的な手口であり、彼の社会的生命を絶つ最後の一撃となる 。
この計画は、単なる行動の連続ではない。それは、伊藤という人間の心理と、彼が属する世界の構造的弱点を徹底的に分析し、そこを突くための心理攻撃だった。沙希は、伊藤が自尊心と評判を何よりも重んじる人間であることを見抜いていた。だからこそ、彼女の攻撃は彼の資産ではなく、彼の社会的地位と信頼関係に向けられていた。彼の世界では、不正行為の「疑い」そのものが、実行と同じだけの破壊力を持つ。彼女は、彼がその人生を築き上げてきた корпораティズム、オンラインでの評判、社会的信頼といった要素そのものを武器に変え、彼自身に突きつけているのだ。それは、あまりにも詩的な復讐だった。
第三部 解体
第八章 インサイダー
「初めまして、影山と申します」。受話器の向こうで、沙希は別人格を完璧に演じていた。声のトーン、言葉の選び方、間の取り方。すべてが、経験豊富なヘッドハンターそのものだった。ターゲットとなった中堅社員、田中は、有名企業からの突然の引き抜き話に明らかに動揺し、そして心を躍らせていた。
沙希は、田中の不満を巧みに引き出した。正当に評価されないことへの苛立ち、上司である伊藤への反感。彼女はそれに深く共感し、彼の能力を絶賛した。「あなたのような有能な方が、なぜ埋もれているのか理解に苦しみます」。ソーシャルエンジニアリングの基本は、相手の自尊心をくすぐり、共通の敵を設定することだ 。
数回の面談を経て、沙希は「転職の準備」と称して、田中から会社の内部情報を引き出していく。「あなたの実績を客観的に示すデータが必要です」「競合他社の動向を分析するため、現在の価格戦略を教えていただけますか」。田中は、輝かしい未来へのステップだと信じ込み、疑うことなく機密情報へのアクセス方法を語り、USBメモリにデータをコピーした。彼は、自分が壮大な復讐劇の駒にされていることなど、知る由もなかった 。
第九章 囁きと蜘蛛の巣
伊藤の周囲で、奇妙な出来事が起こり始めた。彼が贔屓にしている高級寿司店のレビューサイトに、「専務の伊藤という客の態度が横柄で不愉快だった」という書き込みがなされた。彼の娘が通う大学の非公式掲示板には、「伊藤専務の会社はブラック企業だという噂がある」というスレッドが立った。一つ一つは些細で、無視できるほどの小さな棘だった。
しかし、その棘は日に日に増えていった。伊藤のSNSには、彼の発言を曲解した批判的なコメントが付き始め、彼がメンバーであるゴルフクラブのフォーラムでは、彼のマナーを揶揄する投稿が見られた。すべてが匿名で、巧妙に事実を織り交ぜているため、否定することも、反論することも難しい 。
「あなた、最近何かあったの? あなたについて、変な噂を耳にしたわ」。妻の訝しげな視線が、伊藤に突き刺さる。彼は苛立ちを隠せず、「くだらん、ただの嫉妬だ」と吐き捨てた。しかし、彼の心の中では、目に見えない蜘蛛の巣に絡め取られていくような、じっとりとした不安が広がり始めていた。彼の完璧な世界に、最初のひびが入った瞬間だった。
第十章 転落
最後の一撃は、突然、そして致命的だった。月曜の朝、伊藤が出社すると、社内の空気が凍りついていることに気づいた。取締役会から緊急の呼び出しがかかる。会議室の長テーブルには、彼の署名が偽造された書類のコピーと、彼が競合他社の幹部と密会しているかのように加工された写真、そして彼が会社の機密情報を外部に送信したことを示す、改竄されたサーバーログが並べられていた。
「伊藤君、これはどういうことかね」。社長の冷たい声が響く。伊藤は必死に無実を訴えたが、ここ数週間のネット上での悪評が、彼の言葉から説得力を奪っていた。彼はすでに「問題のある人物」というレッテルを貼られていたのだ。彼は罠にはめられたと叫んだが、その態度は追い詰められた人間のヒステリーとしか受け取られなかった。
不正競争防止法違反の疑いで、彼は即日、専務職を解任され、社内調査委員会が設置された 。警察への告発も検討されるという。その日の夕方、彼が憔悴しきって自宅に戻ると、リビングはもぬけの殻だった。テーブルの上には、一枚の書き置きと離婚届が置かれていた。「あなたを信じることができません」。沙希がリークした、偽りの不倫の証拠が、彼の家庭を完全に破壊していた。
数週間のうちに、伊藤正幸はすべてを失った。職を、名誉を、資産を、そして家族を。警察は情報漏洩のルートを捜査したが、匿名化されたサーバーを経由した複雑なデジタル工作の前に、捜査は暗礁に乗り上げた。犯人の影すら掴めなかった。
高層マンションの一室で、影山リナはパソコンの画面に映るニュース記事を静かに閉じた。解体は、完了した。
第四部 空虚
第十一章 饗宴の後の亡霊
伊藤正幸の転落を報じるニュースの見出しを、沙希は無感動に眺めていた。週刊誌は彼のスキャンダルを面白おかしく書き立て、ネット上では匿名の群衆が彼を石礫のように叩いていた。彼女が望んだ通りの光景だった。緻密な計画が完璧に遂行され、憎むべき敵は社会的に抹殺された。
一瞬、胸の奥に冷たい満足感が閃いた。だがそれは、真冬の線香花火のように儚く消え、後には、どこまでも広がる暗く、冷たい空虚感だけが残った。勝利の味は、あまりにも無味乾燥だった。復讐とは、失われたものを取り戻す行為ではなく、マイナスをゼロに戻そうとするだけの、不毛な努力に過ぎないという事実を、彼女は痛感していた 。両親は戻らない。失われた24年間が埋まることもない。ただ、標的が消えた世界に、ぽつんと一人取り残されただけだった。
第十二章 三十年の冬
復讐を遂げた後の沙希の人生は、止まったフィルムのようだった。彼女を駆り立てていた炎は消え、残ったのは燃え尽きた灰だけだった。彼女は小説を書き続けたが、その文章からはかつての鋭利な輝きが失われていた。プロットは精彩を欠き、登場人物は生気なく彷徨うだけだった。
40歳になり、50歳になり、そして60歳になった。彼女の人生は、意味のない日々の繰り返しだった。誰とも深く関わることなく、愛することも、愛されることもなく、ただ静かに時間が過ぎていくのを待つだけ。彼女の人生そのものが、彼女が作り上げた復讐計画の最終的な帰結だった。
復讐を成し遂げるために、彼女は自らゴーストになることを選んだ。匿名で、孤立し、感情を切り離した存在。そして計画が成功した後も、発覚を恐れてその仮面を脱ぐことはできなかった。皮肉なことに、人を欺き、操るために磨き上げた技術は、他者と健全な関係を築く上では猛毒でしかなかった。彼女は伊藤の人生を一年で破壊したが、その代償として、自らの人生を三十年かけて緩やかに窒息させていったのだ。復讐という完璧な犯罪計画は、結果として彼女自身を閉じ込める、終身刑の設計図でもあった。
彼女の心の中では、処理されることのなかった巨大なトラウマが、復讐という蓋を失って溢れ出していた。それは、慢性的なPTSDがもたらす感情の麻痺、他者からの疎外感、そして世界からの離人感として、彼女の魂を蝕み続けた 。彼女は、復讐によって自分を解放したのではなく、自分自身を過去という名の牢獄に永遠に閉じ込めてしまったことに、ようやく気づいたのだった。
第五部 解放
第十三章 告白
沙希が62歳になった初冬のある日、彼女はテレビのローカルニュースで、信じられない光景を目にした。みすぼらしい身なりをした老人が、警察署の前で記者たちに囲まれている。伊藤正幸だった。彼は、50年近く前のひき逃げ死亡事故について、自らの罪を告白したのだ。
しかし、ニュースキャスターは淡々と続けた。過失運転致死罪の公訴時効は10年、民事上の損害賠償請求権の時効も不法行為の時から20年で成立している 。彼の告白に、法的な意味はもはや何もなかった。警察は事件として立件できず、彼は何の罰も受けない。
その事実は、沙希の心に奇妙な波紋を広げた。法的に無意味な告白。それは、かつて法に見捨てられた彼女の人生と、どこか重なって見えた。なぜ今になって? 彼の心に去来したものは、罪悪感か、それとも破滅した人生の最後に物語を求める自己愛か 。いずれにせよ、この告白は、止まっていた彼女の時間を再び動かし始めた。
第十四章 対面
沙希は弁護士を通じて、伊藤正幸との面会を申し入れた。数日後、二人は都内のホテルの静かなカフェで向かい合っていた。伊藤は、沙希が記憶していた傲慢な男の面影もなく、ただ小さくやつれた老人に成り果てていた。
その対面は、怒りをぶつけるためのものではなかった。それは、長年にわたる問いの答えを探すための、静かな探求だった。この種の対話は、被害者と加害者の関係性の回復を目指す「修復的司法」の理念に通じるものかもしれない 。
「なぜ、逃げたのですか」沙希は静かに尋ねた。 「怖かったんだ」伊藤はか細い声で答えた。「キャリア、未来、すべてを失うのが怖かった」 「私たちのこと… 私の両親や、遺された私のことを、考えたことはありましたか」 伊藤はしばらく黙り込み、そしてゆっくりと首を横に振った。「考えないようにしていた。考えたら、自分が壊れてしまうと思ったから」
その言葉に、沙希は激しい怒りではなく、深い虚無を感じた。彼女の人生を呪縛し続けた巨大な存在は、結局のところ、恐怖に駆られた矮小な自己保身の塊でしかなかったのだ。
第十五章 解放の言葉
伊藤は、沙希が何を求めているのか測りかねているようだった。罵倒か、あるいは赦しか。彼は何かを言おうと口を開きかけたが、それを遮るように、沙希が最後の言葉を紡ぎ始めた。
「私は50年間、あなたの罪に人生を定義されてきました」
彼女の声は、震えていなかった。それは、自分自身の魂に向けて語りかけるような、静かで、しかし揺るぎない響きを持っていた。
「あなたのせいで、私は孤児になった。あなたのせいで、私は復讐者になった。そして、あなたのせいで、私は亡霊になりました。私の存在そのものが、あなたという存在へのリアクションだったのです」
彼女は、許しのプロセスにおける「掘り下げの段階」のように、自らが受けた傷と、それが人生に与えた影響を、初めて言葉にして認めていた 。
「でも、それも今日で終わりです」
沙希は続けた。これは赦しではない。彼の行為を決して容認するものではない 。これは、彼女自身の解放宣言だった。
「私があなたに行った復讐…あれは、私をあの夜に縛り付ける、もう一本の鎖に過ぎませんでした。私は今、その牢獄から出ていきます。あなたは、あなたが犯したこと、そしてあなたに為されたことの記憶の中で、これからも生きていけばいい。でも、そこに私はもういません」
その言葉は、彼女が自らの人生の主導権を取り戻すための、力強い選択だった。トラウマを消し去るのではなく、それと共にありながらも、それとは別の新しい自己を築き上げていくという決意表明だった 。彼女は自分自身を、そして「許せなかった自分」を、ようやく受け入れたのだ 。
沙希は立ち上がり、一度も振り返ることなくカフェを後にした。
エピローグ 夜明け
自宅に戻った沙希は、書斎の壁から、色褪せたホワイトボードを取り外した。復讐計画のすべてが書き込まれた、彼女の半生の象徴。そして、机の引き出しの奥から、黄ばんだ新聞の切り抜きを取り出した。両親の事故を報じる小さな記事。彼女はそれらを、何の感慨もなく、静かにゴミ袋に入れた。
書斎は、がらんとして広く感じられた。
彼女はパソコンの前に座り、新規ドキュメントを開く。真っ白な画面に、カーソルが静かに点滅している。彼女は、ゆっくりとキーボードに指を置いた。
これから書かれる物語は、復讐譚ではない。それは、愛の物語かもしれないし、平凡な日常を描いた物語かもしれない。あるいは、庭に花を植える一人の女性の物語かもしれない。
何を書くかは、まだ決めていない。
ただ一つ確かなことは、それは初めて、誰のためでもない、彼女自身の物語になるということだ。呪縛は解かれた。怪物はいなくなったわけではない。ただ、彼女が、呪われた城から自らの足で歩き出すことを選んだのだ。
窓の外で、空が白み始めていた。長い夜が、ようやく明けようとしていた 。




