──選択肢:最恐
──暗闇の中に立っていた。
風もなく、温度もなく、音もない。呼吸しているはずなのに、肺に空気が入った感覚すらない。
死後の世界、というやつだろうか。いや、そんな詩的なもんじゃない。ただの「無」。
端的に言えば「ネット回線が切れた夜みたいな世界」だ。
俺――九条 悠は、生前をあっさり振り返る。
会社では「お前ってさ、仕事は遅いけど真面目だよね」と言われ、評価されず。
アイデアは全部上司に横取りされ、誰かの失敗の尻拭いは全部俺。
恋人もいない。友達もいない。
挙げ句の果てに、駅の階段で変に滑って頭を打ち、そのまま死んだ。
「あー……クソみたいな人生だったな」
自分で言っても悲しくもならない。慣れきってしまったせいか、毒も感情も薄い。
その瞬間。
――カンッ
足元に、石の音が鳴った。いつの間にか俺の目の前に、三枚の石板が並んでいた。
よくある異世界転生モノで見たような、「転生先での職業を決める儀式」みたいなやつだ。
それぞれに刻まれた文字は、くっきりと輝いている。
【攻撃】
【治癒】
【知識】
なるほど。まあ順当だ。
攻撃を選べば剣士か勇者。治癒なら回復役。知識なら魔術師とか参謀とかか。
どれを選んでも、少なくとも前世よりはマシな人生にはなるだろう。
そう考え、俺が最初の石板へ手を伸ばしかけた時。
――――カリ……カリ……
……音がした。
どこからともなく聞こえた“ひっかくような音”が、俺の右側、視界の端を引っかいた。
そこに――四枚目の石板があった。
他の三枚と違い、文字が黒く塗りつぶされている。
泥か、煤か、あるいは血かもわからない。とにかく読めないように意図的に塗り潰されている。
苛立ったように、石板全体が「見るな」「選ぶな」と言わんばかりに震えている。
それでも、俺がじっと見ていると――塗りつぶされた黒が、じわりと滲んで文字を浮かび上がらせた。
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——さ……い……きょ……う
——さい……きょ…………
——サ イ キ ョ ウ
脳の奥を、生の指先でぐずぐずにかき混ぜられるような“何か”が響いた。
声なのか。雑音なのか。それともただの幻覚か。
わからない。ただ確かなのは――意味だけが、異様にはっきりと脳に刻まれた。
【最強】
……そう、聞こえたはずなのに。
その瞬間、俺の脳内では違う文字が浮かび上がっていた。
【最恐】
ぞわり、と理解が逆流する。
「いや違う、“強”じゃない、“恐”だ。間違いなく今のは“恐怖”のほうだ」
理解してからじゃない。認識が勝手に書き換わっていた。
最強と最恐――読みは同じでも、響きも色も匂いもまるで違う。
なのに「強」のほうがただの飾りのようにすり潰され、
代わりに「恐」が脳内の視界いっぱいに巨大な黒い手で塗り広げられていく。
背骨を、冷たい液体が逆流する。
呼吸ができない。心臓がひっくり返る。
理解した。
これは祝福じゃない。
――畏怖を押しつけてくる、“契約”だ。
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だけど――それでも、俺の手は止まらない。
なぜなら。
> 「俺はもう、“無難”で死ぬのは飽きた」
そうだ。
前世の俺は、常に「最適解」を選び続けた。
怒られないように。波風立たないように。
失敗しないように。嫌われないように。
その結果が――あのザマだ。
何も得ず、誰にも認められないまま、滑って死ぬ人生。
だったら。
今度は真逆を選ぼう。理不尽なぐらいぶっ壊れた選択肢を。
たとえ呪われようが、破滅しようが――今さら怖くはない。
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「俺は――最恐を選ぶ」
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石板に触れた瞬間、世界が轟音と共に裂けた。
光ではない。音でもない。ただ「悲鳴」が世界を満たした。
俺の耳ではなく、魂にぶちまけられるような“誰かの叫び”。
――やめろ
――それは選ぶものじゃない
――戻れ
――返せ
――それは人に扱えるものではない
何百、何千という声が重なり、俺を止めようとする。
だが俺は――笑っていた。
「今さら誰に止められる筋合いがある?」
その瞬間。
視界が真白に弾け、身体がどこかへ落ちていく。
景色が流れ、風が爆ぜ、何かの匂いが混じる。
土の匂い。草の匂い。湿った空気。
――俺は新たな世界に降り立った。
そして。
俺の影が、地面に落ちた瞬間――"揺れた"。
まるで、地面が俺を恐れて震えたかのように。
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