29話
話しかけるタイミングを失ったまま、殿下がアパートの扉を開くのを見守った私は、少し遅れてその扉を開いた。
殿下が少し驚いた顔で振り返り私を見て、
「……おかえり」
と小さな声でそう言った。
私は、
「殿下もおかえりなさい。夕飯はいかがいたしますか?」
と玄関で靴を脱ぎながら声を掛ける。
部屋で靴を脱ぐのも普通になってきた。
すると殿下は、
「いや…すまないが、また出掛けるんだ。夕飯は必要ない」
と言葉少なに私に言うと何かを机から取って鞄に入れた。
必要な物を取りに来ただけなのだろう。殿下は部屋へと上がった私の横をそそくさと通りすぎようとした。
私はその殿下に、
「殿下、私、この部屋を出て行こうと思っています」
と声を掛けた。殿下は足を止めて私に振り返ると、少し驚いた顔で、
「……ここを出て何処に行くと言うんだ?」
と私に答えた。久しぶりに殿下と目を合わせたかもしれない。
「バイト先の店長から、部屋を貸して貰える方を紹介していただきました。ここは殿下のお部屋です。殿下はここに戻って来て良いのですよ?」
「ここは……ハヤトの部屋だ。私の部屋でもない。私と顔を合わせたくないのなら、私が出て行く。だからマイラが出て行く必要はない」
「私が出て行くのは単なる自立です。バイトを続けていける自信もつきましたし、お金を稼ぐ楽しさも知りました。殿下がどうとか…そんな事じゃありません」
…半分本当、半分嘘だ。でも自信がついたのは本当。前の自分は周りに侮られないよう王太子妃として張り詰めた生活をしていた。どんなに頑張っても誰にも評価されず、少しでも隙を見せれば指を差された。
ここでは、頑張ったら頑張った分だけ評価して貰える。自分の働いた対価を賃金として目に見える形で受け取れる。
私にとって、ここでの暮らしは驚きの連続だが、昔の自分より自分らしく生きているという実感が私には嬉しかった。
殿下は私のその言葉を聞いて、
「止める権利は私にはない。好きにすれば良い」
と言って、目的であった物を入れた鞄を抱え直して、また外へと出ていった。
私はそれを止める事も出来ずに、ただ見守った。
「……いつ出て行くか、言えなかったな……」
という私の呟きは誰の耳にも届く事はなかった。
次の日曜日、店長にやいやい言われたが、私とチアキはバイトの休みを合わせて、ある人物に会いに来ていた。そう例の漫画を描いたあの人だ。
「なんだか少し緊張します」
待ち合わせ場所に選んだカフェで私はチアキにそう言った。
「どうする?マイラちゃんの正体。正直に言う?」
「いえ。信じて貰える自信はないので。あと私の名前もマイラとは言わない方が良いですよね?」
「あーそっか。なら、『まいちゃん』にしよう。ハーフって設定だし、おかしくないでしょ?」
そんな会話をチアキとしていたら、私達の居るテーブルに近づいてくる人物が。
その人物は、私達の脇に立つと、
「えっと……連絡をくれた千秋さん?私、『さき』です」
と少しオドオドとした様子で訊ねてきた。
チアキと私は椅子から立つと、
「はじめまして。私が千秋で、こっちがまいちゃん。今日は無理を言ってごめんなさい。せっかくだから、何か飲みません?」
とチアキが『さき』と名乗る人物に席に座るよう勧めた。
三人とも着席し、私とチアキは改めてアイスミルクティーを、さきさんはカフェラテを注文する。
さきさんは私達を見て、
「良かった~。ネカマだったりしたらどうしようかと、内心ビクビクしてたの。こんな風にネットで知り合った人と会う事なんて、コミケの時しかなかったから」
と少しホッとしたように言った。
「急なお話で驚かせてしまって大変申し訳ありません」
と私が頭を下げると、
「えっと…まいちゃん…さんだっけ?どこか良い所のお嬢さんか何か?」
と私を見て目を丸くした。
私の言葉遣いや所作が、この世界では少し珍しいのはわかっているのだが、長年染み付いたの癖というのは、なかなか変える事は出来ずにいた。こんな私を面白がるお客様も多いので、店長からはそのままで良いと言われていたのだが、初対面ではこうして驚かれる事が良くある。
チアキは少し笑いながら、
「この子、これで通常だから気にしないで。でも、本当に会って貰えるなんて最初は思ってなかったから…。本当にありがとう」
とさきさんに言った。
「でも……私に文句言いに来たって訳じゃないのよね?」
「文句?」
「そう。私のアレね。原作のファンからめちゃくちゃ叩かれてさぁ。ほら、エレーヌファンから見たら、あれはないだろうってね」
とさきさんは言いながら、自分のトートバッグに入れていた、冊子を取り出して私達へと渡した。
「これが……」
と私はそれを手に取る。彼女の描いた『復讐の天使』の二次創作漫画だ。
私が
「見ても良いですか?」
と訊ねると、さきさんは頷いた。
私は一枚ずつ丁寧にその漫画を読む。
「これって……」
と横から覗いていたチアキが口にする。
「そう。私、エレーヌが嫌いで。第一章の幼少期の話とか、そこから伸し上がっていく様は見ていて面白かったし、その時はエレーヌが好きだったんだけど、フェルナンドの側妃になる辺りから、どうも納得出来なくて。だって、エレーヌが不幸になった事柄に、フェルナンドもマイラも関係なくない?なのに二人を殺して、その上ちゃっかり次期王太子妃になるなんて、ダメじゃない?リオン様がそんな女狐に騙されて恋に落ちる所なんて見たくなかったし」
とさきさんは言って、先ほど来たカフェラテを一口飲んだ。




