第十九話 作家の復活
父はよく、『美しい言葉に囲まれて死にたい』と言っていた。
だから私は、父の見舞いの時に詩を朗読している。
ベッドの脇の丸椅子に座り、父が好きだった詩を朗読する。この部屋は父一人しかいない。普通の声量で読み上げる分には、苦情の心配をしなくていいのが嬉しい。
読みながら、父を見る。父は眠ったままだ。瞼はピクリとも動かない。顔に血の気はない。手足は骨と皮ばかり。まるで木乃伊だ。ベッドの横のモニターだけが、父がまだ生きていることを教えている。
ページをめくる。まだまだ詩は続く。この詩は抽象的な言葉ばかり並んでいて、意味はさっぱり分からない。こういうのが好きなところが父らしいなと思う。
父は本の虫だった。朝から晩まで本を読んでいた。
『ここにある本が俺の脳みそだ。俺が子どもの頃から読んできた』
父がよく言っていた。これは、比喩でもなんでもない。家の中は本で溢れかえり、床の踏み場もなかった。私は玄関とキッチン、あとは小部屋一つだけで過ごしていた。友達も彼氏も呼べない家だった。
父が普通じゃないと気づいたのは、小学校の頃。家族について作文を書いた時だ。普通の家は親が働くらしい。教師からえらく心配されたことを覚えている。謎に金だけはあったらしく、生活に不自由はなかったのは良かったけど……。
父は私を愛してくれたけど、まともな子育ての方法を知らなかった。父は私に文字の読み書きを教えてくれたけど、それ以外のこと、例えば自転車の乗り方とか、綺麗な泥団子の作り方とか、喧嘩した後の仲直りの方法とか──そういったことは、何一つ教えられなかった。私が尋ねても、父は困った笑顔を浮かべるだけ。本の世界しか知らない父には、そういうことは全然分からなかったんだろう。当然、料理も洗濯もできなかった。家事は全てお手伝いさんがやってくれた。
父は、間違いなく、社会不適合者だった。こちらが言わなければ食事も風呂もトイレも忘れて本を読む、どうしようもない人だった。
でも私は父が嫌いじゃない。
紙の臭いがする書斎で、『君はかわいい。かわいい子』と言って私の頭を撫でていた父を、どうしても嫌いにはなれない。
「──ふぅ」
長い詩を読み終えた。窓の外が暗くなり始めている。
「どうだった?」
父に、朗読が聞こえているといいな。
聞こえていたとしても、意味は理解できていないだろうけど。
サイドテーブルに詩集を置く。今父が持っている、たった一つの本だ。
他の本は全て無い。家の裏手の山が崩れ、土砂にやられてしまった。
本が全滅したのは、老体の父には強すぎるショックだった。あっという間に認知症になり、寝たきりになり、今は肺炎で死につつある。
「また来るね」
病室のドアを開ける。
父の書斎に出た。
……?
振り返る。病室がある。父が眠っている。
前を見る。書斎がある。病院の廊下ではなく。土砂に紛れて消滅した、あの書斎だ。擦り切れた畳の床。大きな茶色の机。座り心地の良い椅子。古い蛍光灯。三方の壁に立つ巨大な本棚。
ただ、この書斎には本がない。一冊もない。
本棚の前には、見知らぬ男が立っている。年齢は……不詳。若いようにも年寄りにも見える。緑のエプロンをつけていて、書店員みたいだ。彼の横には段ボールが載った台車が置かれている。
意味が分からない。
本当に分からない。何が起きている?
「こんにちは。私達は新月書林のものです」
彼が言った。
「え?」
「こんにちは。私は新月書林のものです」
それは聞いた。
「あなたのお父様に、本を届けに参りました」
私の横を、すっと誰かが通る。父だ。寝たきりの父がスタスタと歩いていく。
男が台車から一冊の本を取り出し、父にそれを渡した。父はその場にベタッと腰を下ろし、胡座をかいて、本を読み始めた。パラパラパラ、とページをめくっていく。そういえば、父は速読家だった。
読み終えると、父はその本を本棚にしまった。そして次の本を男から受け取り、また読み始めた。
「えーと、父さん?」
返事はない。こっちをちらりとも見向きもしない。そういえば、読書中の父はいつもこうだった。集中していて聞こえないらしい。
父がまた本棚に本を置いた。また読む。また置く。本棚があっという間に一段埋まる。次、二段め。三段め。本棚が丸々埋まると、次の本棚に本が並び始める。
私は部屋にそろそろと入った。床を踏んだ感触、部屋の空気の臭い。記憶と全く一緒だ。作り物とは思えない。
にこにこ笑っている男に近づく。
「あなたはなんなの?」
「私は新月書林のものです。題名を忘れた本を届けるサービスを展開しております」
「そういう伝説は聞いたことがある。でも、こんなの本当にあるわけがないでしょ?」
「ございますよ。この書店はフィクションではありません。ほら、お父様が読んでらっしゃるでしょ?」
「それがおかしいのよ。父は寝たきりなのよ」
「お父様は、本を失ったために、生きる力や記憶の全てを失ってしまいました。ならば、本を取り戻したら、またそれらが復活すると思いませんか?」
「は?」
「まあ、少しの間だけでもいてあげてください」
本を読む。本棚に戻す。壁の一面が丸々本で埋まる。次の壁を埋め始める。あの小さな段ボールには一体どれだけの量の本が入っているんだろうか。無尽蔵なんだろうか。
ふと、父の姿が変わっていることに気づく。入院着が普通のグレーの服に。肉付きが良くなり、髪の毛がふさふさになっている。
若返っている。
壁の二面目が埋まった。三面目も埋まった。ドアの両脇の本棚も埋まる。父は老人から壮年へ、中年に戻っていく。
床に本が積み上げられはじめた。だんだんと床の踏み場が無くなっていく。私は部屋の真ん中から入り口側へ、徐々に追いやられる。やがてドアの前まで本が置かれ始めて、私は病室に戻る。父の見た目はいまや私より若くなっている。
ある本を読んだ瞬間、無表情だった父の表情が変わった。ふにゃっとした笑顔になった。
父は床の本の塔を崩しながら、私の元へやってきた。
私を抱きしめて、頭を撫でた。
「いい子。いい子」
それから私の胸に本を押し付け、くるりと背中を向けて書斎に戻った。バタン、ドアがしまった。
ピーッと背後で甲高い機械音が鳴った。
振り返ると、ベッドの上には痩せこけた父が横たわっている。モニターが何かのアラートを発している。
ドアが開き、バタバタと看護師が入ってきた。ドアの向こうは書斎ではなく、病院の廊下だった。
看護師が医者を呼ぶ。医者が走ってきて、私に「ご臨終です」と言う。私は、はぁ、ともはい、とも言えないような受け答えをする。
腕の中にある本を見る。カラフルな色合いの絵本だ。
作者の名前は、父と、私の母。
母についてはほとんど知らない。物心ついた時からいなかった。存在しないから関心もなかった。
本を開く。カラフルなお城がページから飛びだした。仕掛け絵本だ。文章の筆跡は父だ。なら、この水彩画は母か。
知らない絵本を胸に抱きしめながら、私は父の亡骸を見つめていた。
あの日から、私は本を読んでいる。
いつか父と母に再会することを夢見て。




