第98話 くっころ男騎士と記憶改変
夕方。僕はアデライド宰相が出してくれた馬車に乗って、スオラハティ辺境伯の邸宅へ向かっていた。
「……なんだか石鹸の匂いがするな。風呂にでも入って来たのか?」
対面の席に座ったアデライド宰相が、眉間にしわを寄せて聞いてくる。ひじ掛けで頬杖を付き、足をぶらぶらとさせて明らかに不機嫌そうな様子だった。
「いや、朝に入ったっきりですが……汗くさい状態で出向くのも失礼でしょうし、できれば身を清めてから出発したかったのですが……時間がなくて」
フィオレンツァ司教には、かなりの長時間愚痴や雑談に付き合ってもらってしまった。不思議なことに相談をしていた時の記憶がまるで泥酔中のようにあいまいになっていたが、妙にスッキリした気分だ。まるで邪念が消えたような……。これもフィオレンツァ司教の話術の巧みさのおかげだろう。時間があったら、またお願いしたいものだ。まあ多忙を極めているあの人のことだから、そう簡単に私用で面会はできないだろうが。
とはいえ、それで時間を食ってしまったせいで、帰宅してすぐに辺境伯邸へ向かう羽目になってしまった。僕はまだしも司教は時間の余裕なんかまったくないだろうに、長時間拘束してしまって非常に申し訳ない。
「ふうん……で、何もなかったのか? 大聖堂では」
妙に警戒してる様子だな、アデライド宰相は。フィオレンツァ司教が気に入らないのだろうか?
「オレアン公に関するショッキングな話以外は、普通の雑談だけですよ」
「本当か?」
「護衛の人も、何も変わったことはなかったと言っていたでしょう? 大丈夫ですって」
「確かに、その通りなのだが……」
頬杖をついたまま。アデライド宰相は低い声で唸った。どうも納得していない様子だな。本当に何も異常はなかったというのに、何が引っかかっているのだろう?
「妙に胸騒ぎがするというか、なんというか」
「謀反なんて話を聞かされたら、そりゃあ胸騒ぎもするでしょう。僕だって落ち着かない気分ですよ」
「……それもそうだな」
なにしろ相手は王家の血族に連なる大貴族だ。序列は低いが、王位継承権すら持っている。大貴族と呼ばれる連中はスオラハティ辺境伯をはじめとして何人か居るものの、オレアン公はその中でも頭一つ抜けているといっていい。
それが王家に牙を向けるのだから、大変だ。外様のスオラハティ辺境伯家などとは信頼のされかたが段違いだろうから、完全な奇襲に成功するはずだ。もしクーデターが実際に起きたら、王都は天と地がひっくり返ったような騒ぎになるに違いない。
「本当にやらかすと思うか、あの老害は」
「わかりません。冷静に考えれば、やらない方がメリットは大きいでしょう。しかし、合理的判断を捨ててバクチに出てくることも、ままあることです」
オレアン公爵家には歴史もあるし、カネもある。クーデターなんかしなくても、権力をゆっくりと合法的に掌握する方法はあるはずだ。実際、これまでのオレアン公はそういう方針で動いていたように見える。それが突然今までの戦略を捨て、武力行使に踏み切るなんて言うのは流石に考えづらいんだが。
「ただ、純軍事的に考えれば、オレアン公が勝算アリと判断する可能性は十分あります。リースベンで紛争があったばかりですから、神聖帝国との国境では緊張が高まっています。こちらの頼みの綱である辺境伯軍の主力は、領地を離れることができません」
辺境伯が中央での戦争に介入して領地を空にしてしまえば、神聖帝国の領邦領主たちがこれ幸いと侵攻を始めるだろう。部隊は下手に動かせない。
「王軍は……オレアン公の息のかかった連中もそれなりに居るからな。部隊単位で敵味方が分かれる可能性が高い」
「王軍相打つ、というわけですか」
「できれば避けたい事態だが、な……」
「……」
「……」
僕もアデライド宰相も、しばらく黙り込んだ。考えれば考えるほどドツボにはまっていく感覚がある。
「あるいは、こういう可能性はないだろうか? フィオレンツァ司教はオレアン公のスパイで、クーデターの対処のためにこちらが軍を動員したら、それを逆手に取ってこちらにクーデターの容疑を掛けようとしている、とか」
「……可能性は、ありますね」
正直、フィオレンツァ司教は疑いたくない。幼馴染と言っていい彼女にハメられたら、ソニアに裏切られるのと同じくらいのショックは受けるはずだ。しかし、状況によっては家族や親友ですら疑わねばならないのが軍人という物だ。可能性がある限り、思考を停止するわけにはいかない。
「余計な疑念を陛下に抱かせないためにも、大部隊に戦闘準備をさせるのは避けるべきです。即応戦力はありますから、まずはそちらを使って時間稼ぎをするプランで行きましょう」
「そうだな。オレアンがコトを起こした場合、あるいはこの情報自体が我々をハメるための策略だった場合……その両方を考えておかなければならない。これはなかなか難しいぞ」
「杞憂だった、というのが一番楽でいいんですけどね」
民間人が大勢住んでいる王都が戦場になる可能性が高いわけだからな、実際に戦闘になればどんな被害が出るやらわかったもんじゃない。そもそも、市街地戦自体僕は嫌いなんだよ。前世で僕が戦死したのも市街地戦の真っ最中だったし……。
「しかし、最悪に備えるのが僕の仕事です」
「うむ、よろしく頼むぞ。正直に言えば、辺境伯よりも王軍の将軍たちよりも、君のことを信頼している。バックアップには全力を尽くすから、どうか頑張ってくれ」
「もちろん、お任せを」
ここまで言われて奮起しないヤツは居ない。僕はにっこりと笑って頷いた。
「まあ、とはいえ今詳細を詰める必要はない。我々だけで出来ることは限られているからな。ちょうど良いタイミングで辺境伯にお呼ばれしたものだ。食事の際に、ついでにいろいろ話し合っておくとするか」
……仕方ないんだけどさ、たぶんスオラハティ辺境伯は思い出話や近況報告なんかを期待して僕を呼んだと思うんだよね。それがいきなりこんな物騒な話題に変わるわけだから、辺境伯はとても残念がりそうな気がするな。なんだか非常に申し訳ない……。