第661話 くっころ男騎士と決戦直前
オレアン領を南北に二分する大河、ロアール川。雪風のふきすさぶ中、その両岸には王軍とアルベール軍の部隊が続々と集結しつつあった。
今、僕たちは南岸の丘陵に設営された指揮本部に詰めている。本部そのものは天幕で作られた簡素なものだが、土塁や塹壕、鉄条網によって防護されているため少々の攻撃ではびくともしない。こうした野戦築城は我が軍の得意とする分野だ。
「王軍め、この寒い中水泳の準備をしているぞ。いやはや、元気なことだな」
土塁から頭を出し、双眼鏡を目に当てながらそう呟いた。川向こうの敵陣では、丸太や縄、イカダなどの渡河資材のまわりで忙しそうに働く兵士たちの姿が確認できた。
ガレア王国の中部は、比較的に温暖な土地柄だ。冬も決して厳しくはなく、例年ならば雪の降る日など年に両手の指で足りるほどしかない。
ところが、どうやら今年はそのセオリーが通用しないようだった。初雪は普段よりも遙かに早かったし、しかもそこから毎日のように雪が降り続いている。今年はよほどの厳冬になるだろうというのが、天象官の一致した見解であった。
「寒中水泳ですか。なんとも健康的ですね」
僕と同じような格好で双眼鏡を覗いているソニアが、皮肉がたっぷり籠もった声でそう返した。言うまでも無いが、ガレアの主要人種である竜人は寒さに弱い種族だ。雪の中で川に入るなど、ほとんど自殺行為のようなものだ。
まあ、そもそも冬に戦争をすること自体常軌を逸してるけどな。なにしろ、この世界にはエアコンどころか石油ストーブすらない。戦争のさなかであっても、冬が来れば自然と休戦するのが普通だった。
王軍とて、この状況で合戦はしたくないだろう。丈夫な冬営地を設営し、そこに引きこもっていたいはずだ。しかし、彼女らにはそうするわけにはいかない理由があった。
「今、この状況で皇帝軍に連中の背後を突いてもらえれば……話はずいぶんと簡単になるんだろうが」
周囲に聞こえないような声で、小さくそう呟く。現在、アーちゃんに率いられた皇帝軍一万がこの戦場に向けて急行中だった。
彼女らは、騎兵のみで編成された強力な機動軍だ。新式軍制を全面的に採用している王軍といえど、渡河のさなかに背後から攻撃を受ければ間違いなく総崩れになるだろう。
もっとも、王軍側もそんなことは理解している。彼女らは諸侯から徴収した雑兵をもって決死の遅滞作戦を実行し、皇帝軍の足止めを図っているそうだ。連絡によれば、増援の到着にはいまだしばしの時間が必要だと言うことだった。
「まあ、いま手元にない札に頼り過ぎるわけにもいかない。ひとまずは手札だけでどうにかしなければ」
双眼鏡を降ろし、ゆっくりと息を吐く。こう寒いと、ため息すらも簡単には吐けない。呼気が白く染まるせいで、周囲にまるわかりになってしまうからだ。作戦中の指揮官ほどやせ我慢を強いられる仕事もそうそうない。
今、戦場に集結している戦力は我が軍が二万三千、敵軍が四万だ。兵力比はおおむね一対二、なかなかに絶望的だな。
しかも、王軍は新式兵科を積極的に採用している。小銃や火砲の優位を行かした一方的な戦いを押しつけるのは不可能だと言うことだ。二倍の敵と相対したのはこれが初めてではないが、以前と同じような戦い方はもう出来ないだろう。
「迎撃準備はどうなっている?」
「ハッキリ申しますと、遅れています。寒さと雪で体調を崩す兵士が続出しておりますし、健康な者の労働効率も下がっておりますから……」
ソニアは眉をハの字にしつつ、申し訳なさそうに首を左右に振った。
当然のことだが、こうした問題が発生することは当初から予想されていた。だからこそ、ー防寒着と燃料を限界までかき集め、最優先で支給するなどの配慮も行っているのだが……そこまでしても、この状態だからな。冬季戦ってやつは本当にイヤになるよ。
「野戦築城の進捗は、せいぜい七割といったところでしょうか。風邪や低体温症で戦列を離れる兵士も少なくありません。我が軍は、敵と矛を交えぬまま兵力を損耗し続けています」
「さらに言えば、寒気の影響を受けているのは前線だけではないよ」
不景気な顔でそう付け加えるのは、防寒着でモコモコに着ぶくれしたアデライトだ。彼女は軍人ではないのだが、この戦いにおいては陣幕に詰めて積極的に仕事を手伝ってくれている。
なんでそんな事になっているかと言えば簡単で、補給部門の深刻な人手不足を補うためだった。
なにしろ、アルベール軍は急造の大所帯だ。当然ながらその補給体制はずさんの一言であり、アデライドのような物流の専門家が豪腕を振るわないことにはとても運営していけないのである。
「街道に雪が積もっているせいで、荷車の事故が相次いでいる。食料も弾薬も、まったく予定通りに集まっていない。野戦築城用の建材もだ! まったく、頭が痛いよ」
「そいつはひどい。極星が、戦争などするもんじゃないとお告げを出しているんじゃ無いかと勘ぐりたくなるくらいだな」
薄く笑って、僕は小さく肩をすくめた。まったく、冬は戦争の季節ではないな。
……けれども、冬将軍は敵味方を区別しない。僕たちがこの雪と寒さで四苦八苦しているように、王軍側もなかなかたいへんな思いをしていることだろう。
いや、状況はむしろむこうのほうがひどいかもしれない。なにしろあちらは四万もの大所帯だ。人数が多ければおおいほど、物資の消耗や病気・怪我で戦闘不能になる人間の数は多くなるものだ。
「フランセット殿下も、ガムラン将軍も、おそらくかなり焦っていることだろう。明日、明後日くらいには戦端が開かれていてもおかしくは無い」
戦う前からどんどん兵士の数が減っていくような状況は、指揮官としては耐えがたいものがある。老練なるガムラン将軍はまだしも、経験不足のフランセット殿下にはあまりにも辛い状況だろう。皇帝軍の接近もあり、彼女らの尻にはすでに火が付いていると思われる。
「敵側としては、星降祭までにはいくさを終えたいところでしょうしね。それ以降の継戦は、気候的にも士気的にも厳しいでしょう」
「川や塹壕の中で星降祭を迎えるなんて、誰だって嫌だものな」
ソニアの言葉に苦笑を返す。星降祭というのは、年末直前に行われる星導教の祭典だ。これはいわば前世の世界におけるクリスマスのようなお祭りであり、王侯・平民を問わず誰もが楽しみにしている。
「もちろん、僕だって嫌だ。こんないくさは、さっさと始末をつけてしまおう」
決意を口にしつつ、頭の中で戦場の地図を思い描く。今回の戦いは川を挟んだ防衛戦だ。渡河中の王軍に総攻撃を仕掛け、攻勢をくじく必要があるだろう。万一全軍の渡河を許せば、数に劣るこちらはかなり厳しい戦いを強いられることになる。
問題は、この作戦は一カ所を堅守していればそれで良いというような単純なものではない点だ。なにしろロアール川は幅は広くとも水深はそう深くない川で、おまけに冬期になると水量が減るという特性もある。渡河可能なポイントはあちこちにあった。
ガムラン将軍は間違いなくこの条件を有効活用してくるだろう。広範囲で一斉に攻撃を始め、こちらの対処能力を飽和させてしまうのだ。
「兵隊たちには、かなり頑張ってもらうことになるだろう。今のうちに、士気を上げておく必要があるな……」
これだけ環境が悪いと、兵士の士気もかなり下がっているはずだ。戦いは明日にも始まりそうなのだから、早めに彼女らの戦意に火をつけておかねばならない。
「ここはひとつ演説といこうか。手空きの兵隊に、後方の広場に集まるよう通達を出してくれ」
まあ、もちろん演説ひとつで劇的に士気が改善するはずもないけどな。とはいえやらないよりはマシだろう。後は……酒とたばこかな。それと男も必要か。やれやれ、やる気を出してもらうのも大変だ……。




