第660話 聖人司教の暗躍
ワタシ、フィオレンツァ・キルアージはひどく緊張していた。盤面は最終局面に至りつつある。野望の成就は間近だけれど、まだ油断はできない。むしろ、状況はより困難さを増していると往っても過言では無かった。なにしろ、ワタシの手札はどんどん少なくなりつつあるのだから。
(やっぱり、ガムラン将軍のルートは使えそうに無いわね)
将軍との会談を思い出しながら、脳内でそう呟く。王軍の実質的な司令官はガムラン将軍だ。彼女に催眠をかけて適切な判断力を奪ってしまえば、パパの勝利は揺るぎないものになったことだろう。
しかし、ガムラン将軍の心の中はワタシに対する猜疑と警戒で満ちていた。ああいう心理状況の人間に対しては、ワタシの魔眼はまったくの無力だ。催眠をかけようとしても、せいぜい頭を一瞬ボンヤリさせる程度の効果しか発揮しない。
ついでに言えば、ワタシに不信感を覚えているのはガムラン将軍だけではなかった。陣営のトップであるフランセットなど、近ごろはワタシと顔を合わせようともしない始末だ。
まあ、それも仕方の無いことではある。フランセットには短期間のうちに強い催眠をかけすぎた。そうして積み重なった違和感に、近衛団長の不審死が重なれば……彼女の心が急速にワタシから離れていくのも当然のことだった。
(計画通りといえば、計画通りだけど)
ままならない現実を前に、ワタシは密かにため息を吐く。計画通りというのは、決して負け惜しみではない。ワタシとフランセットとの蜜月にトドメを刺した近衛団長殺害事件は……実のところ、彼女を正気に戻すためにあえてしでかした意図的なミスだった。
そういう意味では、ガムラン将軍が警戒心を抱いているのはむしろ朗報ですらある。彼女の考え方はたいへんに実務的だ。こういう人物は、講和中や戦後の交渉窓口として生き残ってもらわねば困る。
(いろいろな想定外はあったけど、なんとか盤面は整った。あとは仕上げるだけね)
まあ、ここからが一番たいへんなんだけどね。フランセットとの縁が切れたせいで、いまのワタシの立場は宙ぶらりん。状況に干渉するための影響力は、ずいぶんと小さくなっちゃった。
ここから仕上げに持って行くのは、なかなか難儀な仕事なのは間違いない。阿呆で間抜けなワタシがどこまでやれるのか、自分でも自信は無い。
……思えば、失敗ばかりの計画だった。ここまで持ち込めたのは、奇跡といっても過言では無い。だからこそ、今さら失敗するわけには行かないんだ。拳を握りしめ、深々と息を吐く。
(ここからが正念場だ、しくじるわけにはいかない)
そんな決意を固めたワタシが向かったのは、王軍が拠点にしている農村の郊外だった。本来ならば田畑があるはずのそこには、今は大量の天幕が立ち並び将兵の寝起きの場所となっている。
その景色を見て、私の心の中には怒りがわき上がる。冬麦を育てるための大切な畑を、軍靴で踏み荒らすなど! まったくもって許しがたい行いだ。間違いなく、来年の麦の収穫量はひどい数字になるだろう。
救いがたい話だけど、その怒りの矛先を向けるべき人間は自分自身だった。なんという矛盾だろうか。我ながら、笑えてくる。うそ、笑えない。
(雪の中でテント泊なんてバカじゃ無いのか!? 殿下は私たちを凍死させる気なんだろうか)
(なぁにが反乱鎮圧だ。結局、殿下と宰相の痴話げんかじゃないか。そんな馬鹿臭いいくさで命を張るなんて、冗談じゃ無い)
宿営地で粛々と出陣の用意を進める兵士たちからは、そんな思念が伝わってくる。田畑をめちゃくちゃにされた農民たちはもちろん、兵隊たちにとってもこの戦争は不本意なものなのだ。
そしてもちろん、両軍の領袖であるフランセットやパパですらも、巻き込まれた被害者という立場には違いない。一連の事変における加害者は、ワタシ一人だけなのだった。
「空を見上げれば、そこにはいついかなる時であっても導きの星が輝いています。しかし、反乱軍と呼ばれる彼女らはそれを見失ってしまいました……。ですが、惑う者が勝利を掴める道理はございません」
見るからに士気に欠ける彼女らを集め、ワタシはそんな演説をした。ガムラン将軍と約束した将兵の激励の一環だ。
我ながら陳腐な論法だが、聞いている兵士たちの表情は真剣だった。戦いを間近に控えた兵隊ほど信心深いものはない。いつもならば聞き流してしまうようなお説教であっても、こういう時ばかりは真面目に耳を傾けてしまうのだ。
さらに言えば、ワタシには清廉潔白なる聖人という風評がある。王太子や将軍の不信を買った今でも、下々の者たちはいまだワタシに尊敬の目を向けていた。生臭坊主として知られるポワンスレ大司教などとは、発言の説得力が違うのだ。
「確かに、冬の戦いは辛く苦しいものです。しかしこの合戦の終了をもって、この国を覆う暗雲は完全に晴れることになるでしょう。あと一歩、あと一歩なのです!」
ここまで白けきった兵士たちの心に火をつけるのは、本来ならよほどの名演説家であってもかなりの難事だろう。けれども、ワタシはアジテーションだけは誰よりも得意だった。
この魔眼をもってすれば、聴衆の心理など丸裸も同然。なにしろ欲している言葉がわかるのだから、偽りの熱狂に乗せるなど赤子の手をひねるより簡単だ。相手の手札を一方的に覗き見しながらやるポーカーのようなものね。
「夜になったら、胸に手をあて天を仰ぎなさい。そして極星の輝きを目に焼き付け、まぶたを閉じるのです。そうすれば、きっとあなたの目の前には暖かで平和な景色が広がっていることでしょう。御星の導きに従えば、その光景は必ず現実のものとなります」
結局のところ、この戦争を歓迎している兵士など一人もいない。だからこそ、平和を求める心にあえて寄り添い、この戦いを耐え抜くように訴えかける。厳しい冬も、いずれは心地よい春へと移り変わるのだ!
……そういう論法を使い、ワタシは兵士たちの戦意を煽った。その狙いは見事に当たり、演説を終えるころには会場のボルテージは最初とは比べ物にならないほど盛り上がっていた。
「……」
演台から降り、ワタシは大きく息を吐く。我ながらひどい欺瞞だ。けれども、ワタシはすでに地獄に堕ちる覚悟を決めている。どのような罪深い行為であっても、今となっては何の抵抗もなく実行することができた。
「すばらしい語説法でした、フィオレンツァ様!」
そんなワタシに、声をかけてくるものがいた。ピカピカに磨かれた甲冑を身にまとった若い騎士だ。その顔に、ワタシは見覚えがあった。
「おや、コデルリエ子爵殿ではありませんか」
「ッ!?」
返事をすると、彼女は驚いた様子で目を丸くする。
「な、名前を覚えていただいているとは……感激です!」
(まさか、一目で名前を言い当てられるとは……流石はフィオレンツァ様だ……!)
口と心で同じようなことを言っている彼女の名は、サラ・コルデリエ。とある大貴族に連なる法衣貴族にして、十代で王軍の歩兵中隊長を任された若き俊英でもある。つまり、門閥貴族によるコネ人事の恩恵をたっぷり受けたボンボンということだ。
「わたくしの説法を幾度となく聞きにいらっしゃった方ですもの。覚えていないはずがないではありませんか」
そんな彼女の名前をなぜ知っているかと言えば……子爵は温室育ちらしい純真さの持ち主であり、その信心の深さからことあるごとに聖堂にも顔を出していたからだ。
説法は週に二回ほど開かれ、毎回さまざまな身分の千人近い信者が参加する。とうぜんワタシも全ての参加者を把握しているわけではないが、何かの機会に利用できそうな者の名はリストアップしていた。このコルデリエ子爵はそんな中の一人なのだ。
「フィ、フィオレンツァ様……!」
感涙すら浮かべてワタシの顔を見つめるコルデリエ子爵の顔は、スケベな事を考えている時のガムラン将軍よりも間抜けだ。彼女は良くも悪くも単純な頭の持ち主で、物事を深く考える習慣がない。つまり、一番利用しやすい手合いだということ。
実のところ、今回の説法は彼女を誘い出すために行ったことだった。なにしろ、もはやフランセットにはもう催眠は通用しない。あたらしい手駒が必要だった。その点、このコルデリエ子爵はちょうどいい。なにしろ、ワタシにすっかり心酔している。
「ここでお会いしたのも何かの縁です。よろしければ、アナタの武運長久をお祈りさせていただいてもよろしいでしょうか?」
そんな提案に、もちろん子爵は喜んで頷いてくれた。……さて、さて。最後の仕込みといきましょう。




