第633話 盗撮魔副官の奥の手
ソラン山地の聖ドミニク街道が閉塞されたことにより、今までの作戦計画が完全に頓挫することは確定的になった。新式兵科は強力無比ではあるが、その代わりに物資……とくに弾薬の消耗速度は尋常なものではないのだ。補給がひとたび補給が断絶すれば、新兵科の利点はそのまま欠点へと変化する。
今の手持ちの弾薬では、ガムラン軍との戦いはなんとかなってもその後ろに控えている王太子軍を仕留めるのは不可能だ。わたしは断腸の思いで撤退を決断し、ロアール川南岸まで退いて補給線の再構築に努めることにした。苦労した渡河作戦がまったくの徒労になってしまうことになるが、川を背に防衛戦をするなど悪夢以外のなにものでもない。仕方の無い判断だった。
しかし、考えれば考えるほどガムラン将軍の手管は凄まじい。わたしとて補給線、とくにその一番の弱点であるソラン山地の山道の警備にはしっかりと注力しているつもりだった。にもかかわらず、この体たらく。まったく、敵ながら惚れ惚れする一手である。
とはいえ、わたしとしてもこのままガムラン将軍の完全試合を許してやるつもりはなかった。撤退は致し方ないにしても、次の戦いに勝利するための布石は打っておかねばならない。そこで、わたしは再びネェルの力を借りることにした。
「すまない、ネェル。少しばかり厄介なことになった」
やってきたカマキリ娘に対し、わたしは挨拶も省略していきなり本題に入った。これから我々は、ガムラン軍の逆襲を防ぎつつロアール側南岸へと戻らねばならない。とうぜんガムラン将軍は反撃のための策を用意してあるだろうから、この撤退作戦はかなりの難儀を強いられるだろう。どうでもいい社交辞令のために時間を浪費する贅沢は、今のわたしには許されないのだった。
「……なにか、良くないことが、起きましたか」
「ああ、ガムラン将軍は思った以上の用兵巧者だった。残念ながら、今回の作戦は失敗だ」
まだ司令本部の人間以外には誰にも知らせていないソラン砦の窮地を、わたしはネェルに対して洗いざらい話した。
これがただの兵士であれば都合の悪い情報は隠しておくことも多いのだが、彼女は戦略的な影響力すら持っているアルベール軍の切り札であり、さらにはわたしの大切な腹心でもある。状況に応じて適切な判断を下してもらうためにも、情報に関しては極力正確に伝えるようにしている。
「……そういうわけで、我々はいったん南岸へ退くことにした。屈辱の極みだが、ここは猪突猛進しても上手くいく盤面ではない」
「そうですか」
ネェルの返答はごく簡潔なものだったが、よくよく見れば彼女は下唇を噛んでいる。アル様が捕らわれている王都を前にしての後退だ。彼女の感じている悔しさは、わたしにもよく理解できた。
「ネェルを、呼んだのは、撤退の、支援の、ためですか」
こういうとき、彼女は余計な事を言ったりやったりすることは決してない。ただ、自らの役割を果たすことを第一に行動してくれる。この誠実で真摯な性格は、間違いなくネェルの美点の最たるものであろう。しかし友としては、たまにはもっと我を出しても良いのでは無いかと思うときもある。まさに、今がそうだった。
「いや……違う。ネェルも、もっとほかにやりたい仕事があるだろう?」
そういうと、ネェルのつぶらな瞳がくわっと見開かれた。よく見れば、小さな触覚もぴこぴこと激しく動いている。
「……もしや?」
「ああ。アル様救出作戦を、前倒して実行する」
決意を込めて、わたしはそう宣言した。確かに、これから始まる撤退作戦は容易なものではないだろう。正直なところ、ネェルが撤退支援にあたってくれれば状況はずいぶんと楽になるはずだ。しかし、彼女にはもっと重要な任務を任せるつもりであった。
「これから、ガレア王軍は大がかりな反撃作戦を実行するはずだ。厄介なことだが、悪いばかりではない。なにしろ、大きな動きをすればするほど晒す隙も大きくなるわけだからな。つまり、アル様奪還の好機というわけだ」
本来、アル様の救出はこの作戦が成功した後で実行する予定だった。しかし残念ながら作戦は頓挫し、我々はしばし守勢に入らねばならなくなった。だが、これ以上アル様をあの好色王太子の手に委ねておくのは許しがたい。
もちろん、いま奪還作戦の実行を決断したのは私情ばかりが理由ではない。ネェルに語って見せた理屈は言い訳などではなく、今こそが王都がもっとも手薄になる好機なのだ。
「王太子とやらが、得意満面に、出陣するところを、狙うわけですね」
「その通り」
やはり、ネェルは話が早くて助かる。わたしは強気な笑顔を浮かべて頷き、ネェルの前脚に手を置いた。
「ガムラン将軍は、どうやら少数の精鋭歩兵部隊による隠密作戦でソラン砦を奇襲したようだ。同じ事が、我らにできない理屈はない。そのための布石もすでに打ってある」
アル様奪還作戦の準備は、この合戦が始まる遙か前から密かに進めてあったのだ。似たような作戦を先にガムラン将軍に実行されてしまったのは痛恨の極みだが、だからこそ同じ事をやり返してやりたい気分はあった。
「ネェル、貴様にはジョゼットら近侍隊とともに王都を奇襲し、アル様を取り戻してもらいたい。難しい任務だが、お前たちならば決して不可能ではないだろう」
胸の奥から湧き上がる嫌な気分を押さえ込みながら、わたしはネェルの目をじっと見た。
「本当ならば、アル様をお救いする役目はわたしがやりたい。だが、立場がそれを許さんのだ。すまない、ネェル。わたしの代わりを務めてくれないか」
ここで総司令官としての役割を放棄し、私情を優先してしまうような女にアル様は微笑んでくれないだろう。だからこそ、わたしはここを離れるわけにはいかない。責任を果たすのだ。
「お任せあれ」
全てを承知した顔で、ネェルは鎌で自らの胸を叩いた。やはり、彼女はいい女だ。わたしはネェルの前脚をパチンとたたき、薄く微笑んだ。
「頼んだぞ。……ガムラン将軍は本物の名将だ。間違いなく、こちらが強硬手段でアル様の奪還を試みることを読んでいるだろう。王都での戦いは、極めて熾烈なものになるはずだ」
不安材料はいくらでもある。いかにネェルでも、千や万の単位の軍勢と戦うのは不可能だ。にもかかわらず、今回の作戦はごく少数の部隊で敵の本拠地たる王都パレア市を攻めねばならない。たとえ相手が名将ガムランでなくとも、容易ならざる作戦になることは明らかだった。
「とくに、ネェルは体がとても大きい。きっと、敵は貴様を集中的に狙ってくるだろう。しかし、だからといって捨て身で囮になるような真似は絶対に認めない。貴様は、わたしの名代としてその手にアル様を抱いて帰還せねばならんのだ。わかるな?」
「……ふふ。ソニアちゃんは、心配性ですね。ネェルは、良い友人を、持ちました」
薄く笑い、ネェルは鎌の先端で頬を掻いた。その表情は、図星を当てられて困っているようにも見える。やはり彼女は、わたしが戒めたような無謀な囮作戦を考えていたのだろう。友人や家族の為ならば平気で自らの命を投げ捨てようとするのが、このカマキリ娘の最大の欠点だと言えた。
「ジョゼットらにも同じ命令を厳命しておく。必ず、全員無事で戻ってくるように」
わたしは彼女の曖昧な笑顔には付き合わず、真面目くさった表情で念押しした。ネェルも、ジョゼットらも、アル様のこととなると熱くなりすぎてしまうきらいがある。そのあたりが一番の心配ごとだった。
むろん、ときには部下に死を前提とした任務を与えねばならないのが指揮官というものだ。しかし、友人に対してそのような命令を言い渡すことができるほど、わたしはまだ擦り切れていなかった。
……とはいえ、口で言った程度で従ってくれるほど彼女らは物わかりが良くない。土壇場になれば、わたしの念押しなど一瞬で吹き飛んでしまいそうだ。ここは、安全装置の一つや二つくらいは用意しておいた方が良いだろうな……。
「……まあ、とはいえ作戦の開始まではまだ若干の猶予がある。準備の方はこちらで進めておくから、貴様はそれまで英気を養っておけ」
頭の中で算段を立てつつ、わたしはいったんネェルを下がらせることにした。この任務は、リースベンの……いや、大陸西部全体の将来にかかわる重大なものだ。万が一にも失敗するわけにはいかない。念には念を入れて準備する必要があるだろう。
……もちろん、それはそれとして軍全体の撤退も進めねばならないわけだが。一つでも厄介な仕事を、二つ同時に進行せねばならない。忙しいどころの話では無かった。まったく、ガムラン将軍め。奴が余計なことをしなければ、こんな面倒な真似はしなくて良かったのに……この借りは必ず返す。覚えていろよ、ガムラン。




