第625話 貧乏くじ公爵の貧乏くじ
私、ピエレット・ドゥ・オレアンは頭と胃を痛めていた。恐れていた最悪の事態が現実のものとなってしまったからだ。母より(不本意ながら)相続した所領、オレアン領はいまやすっかり戦場と化している。娘や夫を連れて幾度となく水遊びに興じたロアール川は血に染まり、目を覆いたくなるような状態になっていた。
現在、私は小さな農村の村長宅に設営された本陣で戦況図をにらみつけている。状況は、はっきり言ってよろしくなかった。正面の渡河ポイントはすでにアルベール軍のリースベン師団に占領され、兵士たちが次々に我々の居る北岸へと上陸しつつあった。
さらに言えば、危機的状況なのは正面ばかりではない。ここからやや離れた地点でも、リースベン軍の別働隊(ジェルマン伯爵が率いる師団だろう)が渡河を始めているという報告が入ってきていた。むろんそのポイントにも防衛戦力は配置しているが、正面がこの調子ではそちらもいつまで持つかわかったものではない。
「……」
口元をへの字に歪めながら、頭の中で作戦計画を思い出した。渡河を許すのは、計画の範囲内。敵を北岸に誘い込み、突出したところを反撃する。そういう作戦なのだ。
問題は、敵の突破速度が速すぎる点だった。このままでは、逆襲に移る前にこちらが壊乱してしまう恐れがある。そうなってしまえばもうおしまいだ。
「王立第三独立砲兵大隊、敵の空中攻撃で壊滅!」
「またか!」
伝令の報告に、私の苦悩はますます深くなった。驚くことに、敵は飛行部隊を用いてこちらの砲兵陣地をピンポイントで攻撃するという奇策に出ている。これのせいで我が方の砲兵は大きな被害を受け、前線への支援砲撃が滞りつつあった。敵軍の遅滞が計画通りに進んでいないのもコレが原因だった。
「例のカマキリの化け物、あれをどうにかしないことには反撃もままなりませんぞ」
本陣に詰める諸侯の一人が、苦慮に満ちた声でそう言った。コレに関しては、私もまったくの同感だった。敵の飛行部隊の先頭は、噂に聞くあの巨大カマキリなのだ。
鳥人や翼人にしろ、翼竜にしろ、空を飛べる生物というのは陸戦に適さないものなのだ。しかし、このカマキリお化けにはそのような常識は通じない。最初の襲撃の際、私は精鋭の騎士部隊に反撃を命じた。しかしそれから三十分も経たず彼女らが壊滅したとの報が入ってきたのだからもうめちゃくちゃだ。我が所領、故郷でそのような化け物が暴れ回っているなど、悪夢以外の何物でも無い。
「まったくその通りだ。君、第三独立砲兵大隊の救援にいってきなさい。あのカマキリを倒して見せれば大手柄だぞ」
「嫌です……」
くだんの諸侯は塩をかけた青菜のような態度で首を左右に振った。まあ、気分はわかる。槍どころか鉄砲すら通じぬ化け物と戦いたい者など、よほどの物好きだけだろう。
「他に我こそはと思う者はいるか? ……おらんか、致し方あるまい。ガムラン将軍、パレア第一連隊を救援に回しましょう」
戦場は我が領地だが、防御作戦の指揮を執っているのは私ではない。今のガレア王軍の総司令官、ガムラン将軍だ。この壮麗な軍服の似合わぬ凡庸な中年女は、間抜けな顔で「第一連隊を……?」と私の言葉をオウム返しにした。
「確かに精鋭・第一連隊であれば化け物カマキリも討てようが、空を飛べる生き物を大軍で囲むのは無理があるのではないかね」
「確かにその通りですが、それでも退散させる程度の効果はあるでしょう。とにかく今は、砲兵の被害をこれ以上受けぬようにするのが肝心かと」
はっきり言って、私に軍才はない。けれども、この薄ぼんやりした”総司令官”殿よりは遙かにマシな指揮をする自信があった。この作戦において実際に兵を動かしているのも、実のところ私の方だったりする。
「なるほど、わかった。よきに計らえ」
この阿呆の唯一の美点は、こちらが強く出れば即座に持論をひっこめる点にあった。ため息を吐いて、部下たちに方針を伝える。そして、考え事をするふりをして手元の作戦計画書をこっそり確認した。
……私の絞りかすのような軍才では、麒麟児とあだ名されるあのソニア・スオラハティにはとても対抗はできない。にもかかわらずこれまで曲がりなりとも戦ってこられたのは、事前に用意してあった計画書が優れていたからに他ならない。私の指揮は、すべてこれに基づいて行われていた。
この計画書の作成者の名は、ガムラン。そう、いま私の目の前にいるこのぼんくら女……ではない。こいつはただの偽物で、本物のガムラン将軍は別にいる。彼女は別働隊を率い、己の立てた逆襲作戦の準備をしていた。この偽ガムランは、それを敵に悟らせぬ為の影武者なのだ。
「……」
心の中でため息を吐く。王家のお目付役であるガムラン将軍がいないのだ。いっそのこと、アルベール軍に寝返ってしまいたい。あの色ボケ王太子に義などありはしないのだ。領地の保証があるのならば、彼女がアルベール軍に捕まって処刑や幽閉などをされようとも悲しくともなんともない。
ソニア・スオラハティに密使を送ってみようか。そんな考えが鎌首をもたげたが、すぐに首を左右に振ってそれを打ち消す。私の忠誠心がヒビだらけであることは、王家の側も理解しているのだ。当然、既に寝返り対策は打たれてしまっている。
今、私の夫子はオレアン領にいない。万一に備えて避難するという名目で、王都に連れて行かれてしまったのだ。つまり、人質という訳だ。あのボケナス王太子も、こういう部分では頭が回る。この偽ガムラン将軍の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ。
「司令部直轄の砲兵隊を前に押し出せ。これからのいくさは、火力が命だ。砲撃を絶やしてはならぬ」
作戦計画書に書かれた文面を、そのまま音読して部下に伝える。ガムラン将軍の傀儡という点では、この影武者も私も同じだった。なんたる屈辱だろうか。なけなしの忠誠心がガリガリと削られていくような心地である。
しかし、夫子を人質に取られている以上、私に選択肢はない。母上ならば家族よりもお家を優先したかもしれないが、私はそんなに非情にはなれない。だからこそ姉が阿呆をしでかすまではずっとスペアに甘んじてきたのだ。繰り上がりで公爵になっただけの女に、大局を見据えた冷徹な判断などできるものではない。
ああ、まったく、バカ姉め。なぜ反乱などしでかしてしまったのだ。アレさえなければ、この席に座っていたのは私ではなく彼女のはずだったのに。ふざけるのも大概にして欲しい。
「南の民家が燃えています! どうやら、敵の浸透部隊が放火した模様!」
「は?」
などと考えていたら、とんでもない報告が入ってきた。敵の……放火? 本陣にしている、この村で? はっ? どういうことだ?
渡河は許したが、それは作戦の範囲内。当然、渡ってきた敵部隊を迎え撃つべく北岸の内側にも複数の防衛線を引いてある。今のところ、それらの防御陣が突破を許したなどという報告はない。にもかかわらず、どうしてこんな後方に敵が……。
「今すぐ消火だ! 敵も追い払え! 早く!」
慌てまくって、私はそう叫んだ。農村の民家など、ほとんどが木造藁葺きの粗末な建物だ。放火などされた日には、連鎖的に大火災になってしまいかねない。そうなったらもう、のんびり指揮などしている場合ではなくなる。
「くそっ……! 将軍はなにをやってるんだ……」
ギリギリと歯噛みしながら、小さくそうつぶやく。正面の敵だけでも厄介なのに、それに加えて化け物カマキリに謎の浸透部隊だ。この戦場は、はっきり言って私には荷が重い。業腹極まりないが、これをなんとかできるのは真ガムラン将軍だけだろう。策があるというのならさっさと発動してほしい。手遅れになっても知らんぞ。




