第608話 盗撮魔副官とカマキリ娘
深夜。軍議を終えたわたしは、ひそかにため息をついた。早朝からこんな時間までずっと働きどおしなのは、さすがにくたびれる。そのうえ、明日も日が昇らぬ前から起きねばならぬのだからなおさら気が重い。
そんなことを考えつつ、夜風を浴びながら寝床の天幕へと向かう。全身は疲労感でいっぱいだったが、眠気はあまり感じていなかった。これは、一人寝のみじめさに耐えかねているせいかもしれない。
アル様がいらっしゃった頃は、可能な限り同じベッドで寝るようにしていたのだ。おかげであのクソババアやジルベルトなどからは頻繁に文句を言われる羽目になったが、しかし幸せな日々であったことは間違いあるまい。
ああ、寂しい。いかも、当のアル様は今頃あの好色な王太子に身を汚され、同じベッドで寝ているかもしれないのだ。つらい。脳が壊れそうだ。あのドグサレめ、生かしてはおかん。しかしわが刃はまだあの女には届かない。歯がゆい……。
「お疲れ、ですね」
そんな声で、わたしは我に返った。声の主は、護衛役のネェルだった。レーヌ市から戻ってきて以降、わたしはいつも彼女を側に置くようにしていた。暗殺者対策のためだ。
なにしろフランセットは諜報方面に造詣が深く、からめ手にたけている。暗殺のような汚い手段でも、躊躇せずに使ってくるに違いないのだ。その点、ネェルの戦闘力は心強い。我が国に、彼女に勝てる戦士などは存在しないだろう。もっとも、毒殺や不意打ちなどに対しては、その強大な戦闘力も役には立たないわけだが……。
「さすがにな。気力に体力がついていかん。まったく、歯がゆいことだ……」
正直な心情を吐露し、わたしは肩をすくめる。まあ、実際のところ、ネェルがからめ手に対してはそれほど有効ではない事実などどうでもいいことなのだ。一番肝心なのは、彼女の前では無理に自分を大きく見せる必要がないという点だった。
アル様がおらず、ツェツィーリアをはじめとした厄介な諸侯どもの相手もせねばならない今、ネェルのように本音で話せる相手の存在は大きい。なにしろ、わたしは実戦で一度彼女に敗れているのだ。今更見栄を張ったところでもう遅いだろう。
「ネェルも、お手伝い、できれば、良いのですが」
返ってきた彼女の声には、以前にはなかった陰気な色がにじんでいる。現状に不満を覚えているのは、ネェルも同じことのようだ。いや、目の前でアル様を失ってしまったぶん、その焦りはわたし以上のものがあるかもしれない。
しかも、彼女は立場的にはあくまで一兵卒だ。わたしと違って、士官としての仕事があるわけではない。わたしの影のように付き従うばかりの毎日は、さぞ歯がゆかろう。できることなら、一人でもアル様を助けに向かいたい。そう考えているに違いなかった。
そんな彼女の気持ちを思うと、なんとも辛いものがある。わたしも、一人で鬱々としているわけにはいかないだろう。現状を打破できるのは、感情に任せた行き当たりばったりの行動ではない。理性に裏打ちされた合理性のある作戦なのだ。
「なに、気にするな。貴様には貴様の仕事がある。その時が来たら、嫌というほど働かせてやるさ」
移動ばかりの毎日で、カマキリ虫人の能力が発揮できるはずもない。ネェルが真価を発揮するのは、血煙にまみれた戦場なのだ。その機会を用意するのが、将としてのわたしの仕事になってくる。
「はい、お願い、します。できるだけ早く、働かせてください」
以前の彼女であれば、ここでいつものマンティスジョークを飛ばしていたかもしれない。しかし、返ってきたのは面白みのない答えだけだ。彼女としても、冗談を飛ばせるような精神状態ではないのだろう。聞くたびにドキリとしていたマンティスジョークではあるが、言わなくなったらなったで寂しいものである。
「任せておけ」
今のわたしにできるのは、気休めを口にすることだけだ。本音を言えば、彼女の背中に乗せてもらい単身王都に攻め込むくらいはしたい気分なのだが。しかし、そんなことをしても得られるものは何もない。
「お前がふたたび家族を失うようなことには絶対にさせない。安心しろ」
自分の言葉の空虚さに耐えきれず、わたしは重ねるようにしてそう言った。ネェルの境遇に関しては、本人の口から聞いている。飢餓と薄汚い策略で両親を失った彼女に、これ以上の悲劇を見せるわけにはいかない。ぐっとこぶしを握り、わたしは月光を反射して光る彼女の目をまっすぐに見つめた。
「ありがとう、ございます。……けれど、家族は、アルベールくん、だけでは、ありません。ソニアちゃんも、無理は、しないよう。生き残るなら、みんなで、ですよ?」
「……言ってくれるじゃないか、姉妹」
思わず破顔して、わたしはネェルの脚をたたいた。久しぶりに、本心から笑ったような気がす。たしかに、同じ夫を共有する我らは姉妹以外の何者でもないだろう。……そうするとあのクソババアやら腹黒カワウソやらとも姉妹ということになるのだが、そのあたりはあえて考えないように知っておく。
「へへ」
ネェルのほうも釣られて少し笑い、そしてすぐに表情を強張らせた。どうしたのだろうか。そう思うより早く、彼女は口を開く。
「家族と、言えば……ソニアちゃんの、お母さまと、妹さんの、こと。なかなか、心配、ですね。無事、収まるところに、収まれば、良いのですが」
「ああ……」
母上とマリッタのことか。まったく、こんな時でもネェルはよく気が回る。わたしは苦笑して、大きく息を吐いた。一時は軽くなっていた心が、今は鉛の塊のように重くなっていた。
「……母上のことは、心配いらん。マリッタとて、実の母を手にかけるほどの外道ではない」
実際、母のことはそれほど心配していないのだ。マリッタの手で軟禁されているという話だから、多少の不自由はしているだろうが……多少雄々しいところがあるとはいえ、わが母も一角の武人だ。その程度で堪えるほどヤワではない。
問題は、マリッタのほうだ。まさか、ヤツがアル様に槍を向けるほどに思い詰めているとは思わなかった。こんな事態を招いた責任の一部は、間違いなくわたしにもあるだろう。しかし……。
実際に行動を起こしてしまった以上は、身内といえど容赦は出来ない。わたしたちは、背負うものなどない平民の家族などではないのだ。己の責任を果たすためには、身内と言えど容赦はできぬ。
ああ、しかし。気が重くないといえば、ウソになる。己が無責任に出奔したせいだとわかっていても、天を呪いたくなってくる。なにゆえ、血を分けた姉妹同士で争わねばならぬのだ。あのヴァルマですら、家族に対して本気で剣を向けるような真似はしないというのに……。
「……そうですか。なら、良かった」
ちっとも良くなさそうな声でそう言って、ネェルは小さくうなづいた。もちろん、聡明な彼女のことだから、わたしがあえてマリッタについて言及しなかった意味は理解しているだろう。こちらを見るネェルの目つきには、明らかに気づかわしげな色があった。
「いまのわたしは、ソニア・スオラハティではなくソニア・ブロンダンだ。一度は責任を投げ捨ててしまった身の上であるからこそ、今度はこの義務を放棄するわけにはいかん。立場にふさわしい行動をするまでだ」
切り捨てるような口調で、わたしはそう言った。ネェルが一瞬足を止め、そして大きく息を吐きだしてから「そうですね」と不本意そうな声で言う。まったく、この娘は本当にやさしい。軽く肩をすくめ、会話を打ち切った。これ以上この話題を深堀りしても、出てくるのは余計な感傷だけだと理解しているからだ。
……はぁ。しかし、ブロンダンか。アル様もそうだが、王都のお義母上とお義父上は大丈夫だろうか? 相手はあのフランセットだから、どういう汚い手を使ってくるかわからない。可能な限り早く手を打っておいたほうが良いだろうな。実際に王都に攻め込む前に、情報収集もかねて一度特務部隊をパレア市に潜入させておいたほうがいいだろうな。




