第595話 義妹騎士と現れぬ敵(2)
待てど暮らせど現れない敵軍の動静を掴むため、わたしはアンネリーエを連れて指揮本部を訪れた。
普通なら、末端の最下級指揮官に過ぎない少尉風情がいきなり指揮本部に出向いたところで門前払いされるだけだけど……これでも私は一応お兄様の婚約者にしてソニアお姉様の義理の姉妹だからね。よほどのことがない限りは邪険には扱われない。今回も、特に止められることもなく本部へと入ることができた。
塹壕と土塁によって築かれた防衛線の後方に設営された大型の壕、それが今の指揮本部だ。穴倉の中という点では私たちの詰めている塹壕と同じだけど、当然ながら設備は段違いによかった。大きな木製天井が壕のほとんどを覆っており、その下には広いテーブルや軍用の折りたたみ椅子、そして今や作戦指揮には必要不可欠の道具となった電信機などが所狭しとならんでいた。
いざ合戦ともなれば前線と変わらぬほどの修羅場となる指揮本部も、現在は平常通りの穏やかな空気が流れている。弛緩している、とまでは言わないが、忙しげに働いている者の姿はほとんどない。やはり、指揮本部のほうでも敵軍が接近する兆候は掴んでないみたいね。それを見た私はそう直感した。
「ああ、カリーナか。どうした?」
そんな指揮本部の最奥に置かれた司令官席で、ソニアお姉様は難しい顔をして地図をにらみつけていた。しかし、私の姿を認めるとすぐにその表情を消し、笑みを浮かべて出迎えてくれる。戦闘を前にしているとは思えないほど柔らかい態度だ。
いや、むしろ態度が柔らかすぎる。私がリースベンに身を寄せた直後よりははるかにマシになったとはいえ、ソニアお姉様の私に対する態度は相変わらずぶっきらぼうなものが基本だった。普段のお姉様であれば、こういう時に笑みを見せることはまずありえない。
……やっぱり、お兄様が攫われたことで動揺してるんだろうな。それに、初めて総大将として一軍を指揮する緊張もあるんだと思う。意識して平静を装っているから、こういう違和感のある態度になるんだ。
「いえ、その、実はですね……」
こういう状態のお姉様に、余計な負担はかけたくない。私は社交辞令をすっとばし、単刀直入に本題に入った。敵軍がいつまでたっても姿を見せないせいで、前線では緩みが出始めている。そう伝えると、ソニアお姉様はさすがに渋い表情をうかべた。
「なるほど……話には聞いていたが、そこまでとは」
腕組みをしながら、お姉様は小さくうなった。
「勘違いしないでほしいのですが、みなのやる気や士気が欠けているというわけでは断じてないのです。なにしろ、文字通りのおっとり刀でカルレラ市を飛び出した挙句、いくら待っても肝心の敵が出てこないわけですから……肩透かし感を覚えないほうが無理があるというものでして」
念押しするような口調でわたしはそう答える。私のせいで余計な綱紀粛正が図られたりしたら、とっても困るからね(そんなことになったら兵たちの不満の矛先が私に向けられる)。言い訳はキッチリやっておかなくちゃ。
「お兄様を取り戻したいという気持ちは、みな同じです。ただ、やる気があってもその矛先を向ける相手がいないことには、空回りするのも仕方のない部分があります」
「それはわかっている。……しかし、そのような状況を手をこまねいてみているわけにもいかん」
そういってから、冷めきった香草茶を一気に飲み干すお姉様。普段よりも幾分乱暴な所作だった。
「気を引き締めるよう訓示を出す程度ならばいくらでもできるが、そんなお仕着せじみたやり方で士気が上がるとも思えない。何か、効果的な策があればよいのだが」
「今回の気の緩みの原因は、敵の動きが思ったよりもずいぶんと遅いことにあります。ですから、ヴァール軍がいつ頃やってくるのかという目安さえわかれば、兵たちも気合を入れなおすことができるでしょう」
やっとのことで、私は本題に入った。肝心なのはそこなのだ。期限もわからないままボンヤリと待ち続けるよりは、だいたいの目安を知ったうえで待機しているほうがよほど気分が楽だからね。
「……それがわかれば苦労はない」
ところが、お姉様から返ってきた答えは無情なものだった。その顔には、明らかな苦渋の色がある。下っ端にそんなことは教えられないからすっとぼけておこう……みたいな雰囲気じゃないわね。もしかして、上層部のほうでも敵軍の現在位置がつかめてないの? マズくない、ソレ。
「そんな顔をするんじゃない」
お姉様が私の頭をペシリと叩いた。もちろん、痛みを感じるほどの力はこもっていない。そして溜息を吐いてから、近くの席に座っていたある女性へと視線を移す。レマ伯のジェルマン様だ。
「ヴァール軍はレマ市を迂回し、その近郊の森へと侵入しました。こちらの追跡を逃れつつ、任意のタイミングでリースベンへとつながる山道へとなだれ込むためでしょう」
当のジェルマン様が苦々しい口調で説明を引き継ぐ。口ぶりからは、何とも言えない倦んだ気配が滲み出していた。おそらく、同じような内容の説明をすでに何度も繰り返した後なのだろう。
「むろん、山道の入り口には関所がありますから、ヴァール軍が強行突破を図ればすぐに報告が飛んできます。しかし、今のところそのような情報は入ってきておりません」
「敵軍の足取りは、森の中へ入ったきり完全に途切れてしまっているんだ」
その言葉に、私の顔は自然とひきつった。なんだか、すっごく陽動っぽい動きだ。そうなると、別ルートから本命の別動隊がカルレラ市を目指していると考えるのが自然なわけだけど……。
「貴様の懸念ももっともだが、むろんわたしとて陽動の可能性は考慮している」
何も言っていないのに、お姉様は言い訳をはじめた。たぶん、内心が表情に漏れていたんだと思う。
「しかし、南部大平原からリースベン半島に侵入できるルートはそれほど多くない。軍隊が通過できる規模となると、今我々が布陣しているレマ=カルレラ街道と、それから帝国領に接続したズューデンベルグ=カルレラ街道の二本きりだ」
その説明に、私は大きくうなづいた。そうなのよねぇ……これだけ進軍ルートが限られている状況で、敵別動隊の接近を見逃すなんてありえない。
「後者の街道を使おうと思えば、当然ながら敵軍はズューデンベルグ領に侵入しなくてはならなくなる。さすがに、それを見逃すほどディーゼル軍の目はザルではないぞ」
そんな補足をするのは、アガーテ(元)お姉様だった。まあ、普通に考えてそりゃそうよね。
「ううむ……別動隊がいないとなると、敵軍はなぜ森へ入ったっきり出てこないんでしょう?」
「わからん。わからんから困っている」
「まさか、森の獣に襲われでもして遭難したとか?」
「一個連隊まるまる遭難か、それは傑作だ」
私の冗談に、ソニアお姉様はクツクツと小さく笑った。疲れたような笑い声だった。
「……いや、マジでそうかもしれませんよ」
そこで、それまで黙っていたアンネリーエが口をはさんできた。思わずそちらに目をやると、彼女は何とも言えない微妙な表情で顔を振る。そして口を一文字に結んでから、ちらりと指揮本部の端っこへと目を向けた。
「……」
そこでは、エルフの代表のひとりであるフェザリアさんが王侯らしい優雅な所作で焼き芋を食べていた。
「森に棲むのは獣ばかりではありませんから、ホラ……。うちのばあちゃ、もとい、祖母もそういう連中に襲われてずいぶんとひどい目にあいましたよ」
「…………ま、まさか」
アンネの言わんとしていることを理解し、ソニアお姉様の顔色が青くなった。……えっ、なに、つまりエルフどもが勝手に打って出て、ヴァール軍をせん滅しちゃったって言いたいワケ? うわ、普通にやりそう……。
「……ん? ないごて、みんなしてこっちを見て。俺になんぞ用け?」
視線に気づいたフェザリアさんが、芋を食べる手を止めてこちらを見てくる。誰かがゴクリと生唾を飲む音が聞こえた。私やアンネ、そしてジェルマン様やアガーテ姉様の視線がソニアお姉様に集中した。真相を問い詰めるよう、圧力をかけているのだ。
「…………」
ソニアお姉様はしばらく逡巡した。そして口をへの字に結んでから、大きなため息をつく。
「…………なあ、フェザリア。一つ聞いていいか?」
「なんじゃ?」
「その……まさかとは思うが、勝手に部下を前進させて、敵軍に攻撃を仕掛けさせたり……してないだろうな?」
勇気を振り絞ったような声で質問するお姉様に対し、フェザリアさんの反応はかなり緩慢だった。しばし考え込み、焼き芋の端っこを口に放り込み、咀嚼して飲み込んでから再び口を開く。
「さすがん俺もそげんこっはしちょらんぞ。そもそも、敵軍は森ん籠っちょっちゅう話じゃろ。そげん状況なら、俺なら間違いなっ四方八方から火を放って敵を蒸し焼きにしちょい。お前らに内緒でそげんこっをすったぁ無理じゃらせんか?」
「た、確かに」
かなりほっとした様子で、ソニアお姉様は何度もうなづいた。そして、視線をジェルマン様のほうへと移す。彼女は苦笑いを浮かべつつ、首を左右に振った。
「むろん、私のもとに森林火災の情報は入ってきておりません。確かに、フェザリア殿の手出しはないようですね」
その言葉で、場の空気も緩んだ。エルフといえば火計、そういうイメージがすっかりとしみ込んでいる私たちにとって、火事の有無は言葉による弁明よりもよほど信用のできる判断材料だった。でも……
「……よくよく考えてみると、エルフ火炎放射器兵はフェザリアお姉様直属の部隊にしかいませんよね? 余計なことをしたのが新エルフェニア出身のエルフなら、火計を使わない可能性が高いんじゃないですか」
私の指摘に、ソニアお姉様の顔色が悪くなった。油をさし忘れた古カラクリのようなぎこちない動きで、再びフェザリア様のほうを見る。
「確かにそん通り。僭称軍の連中は俺ん管轄外じゃっでな、ないかしでかしてん俺んもとに報告は上がってこん」
そういってから、フェザリア様はおもむろに立ち上がった。そして、コート掛けに吊ってあったポンチョを手に取る。
「僭称軍の連中んこっなど知ったことじゃなかが、余計な手出しをしちょっようなら止めんにゃならん。少しばかり調べて来っど」
そのまま、フェザリア様はこちらの返答も聞かずに指揮本部を出て行ってしまった。残された私たちは、無言でお互いを見やるばかり。皆の心の中には、嫌な予感が暗雲のように立ち込め始めていた。……そして今から三時間後、その予感は現実のものとなった。




