第594話 義妹騎士と現れぬ敵(1)
敵軍接近の報をうけて、一週間が経過した。予定では、今頃は熾烈な防衛戦が始まっているはずだった。けれど、なぜか今の私は塹壕の中に座り込んでボンヤリと空を眺めている。きょうの空は深い青色で、大きな入道雲がいくつも浮かんでいた。
耳を澄ましてみても、戦場音楽の類はまったく聞こえない。兵たちの雑談、鳥の声、エルフが立木打ちをする際に発する叫び(丸太を木刀で殴りまくる立木打ちはお兄様が始めた鍛錬法だけど、最近はエルフ内でも大流行している)、そんな日常的なおとばかりが耳に入ってくる。まったくもって平和な野営地の日常だった。
「暇ぁ……」
私の隣に座り込んだアンネリーエが、新式小銃特有の蝶番付きの装填口(煙草入れに似た構造だ)をパチパチと開いたり閉じたりしながら言った。私は無言で彼女の足を蹴っ飛ばす。暇なのはわかるけど仮にも士官(アンネの階級は一応准尉ということになっている)が兵の前でそんな態度を見せちゃダメでしょ。
「痛ってぇ! おいコラ、カリーナ。リースベン軍は鉄拳制裁は禁止じゃなかったのか?」
「この程度で鉄拳とか言ってたら下士官に指さされて笑われちゃうわよ」
視線すら向けずに、投げやりに言い返す。もちろん、頭の中では別のことを考えていた。敵はいつ現れるんだろうか? いくらなんでも、遅すぎる。この山脈地帯は、峻険ではあっても幅はそれほど広くない。山道に沿って進軍すれば、三日で突破できるはずなのに……敵軍は何をやってるんだろうか?
おかしい、いくら何でもおかしい。私は塹壕からヒョイと頭を出し、戦場を見回した。溝と土塁だらけの混沌とした合戦予定地の一角には、牛の頭蓋骨をかたどった見慣れた旗が立っている。昨日到着したばかりの援軍第一弾、ディーゼル軍騎兵隊だった。あと数日もすれば、第二弾であるジルベルトお姉様の部隊も到着する手はずになっていた。
ソニアお姉様の作戦では、援軍は間に合わない前提で話が進んでいたはずだった。けれど、現実はそうなっていない。ありがたいといえばありがたいけれど、素直に喜ぶ気にはなれなかった。ヴァール軍とやらは、今どうしているんだろうか? まさかとは思うけど、私たちの知らないルートを使って迂回でもしてるんじゃないでしょうね……。
「カリーナ! カリーナはいるか?」
私の思案はそんな声によって中断された。慌てて立ち上がり周囲を見回すと、地面に掘られた通路の向こう側から見慣れた竜人が歩いてきているのが見えた。私の直属の上官、ヴァレリー隊長だった。
「はい、カリーナ少尉はここにおります」
大声でそう答え、急いで隊長のもとへと駆け寄った。一応私はリースベン軍の棟梁であるお兄様の義妹なんだけど、だからといって上官に舐めた態度をとることはできない。当のお兄様本人から、そういった行為は厳に慎むべしと命じられているからだ。コネで優遇されるような軍隊は健全ではない、というのがお兄様のモットーらしい。
「何か御用でしょうか、中隊長殿」
型通りの敬礼をしてから、要件を聞く。私は小隊長で、ヴァレリー隊長は中隊長だ。普通ならば、何かの用事があるのならば私のほうが呼びつけられる立場にある。にもかかわらず中隊長本人が出張ってくるということは……何か、普通ではない命令を言いつけられるじゃないだろうか?
「うん、まあ、大したことじゃないんだが」
兵どもを見回しながら、ヴァレリー隊長は言った。恥ずかしい話だけど、今の私の部下たちは皆腑抜けている。もちろん上官の前だから姿勢は正しているけれど、内心のゆるみが明らかに態度に出ていた。有事というよりは、平時の雰囲気だ。
正直かなり情けないけれど、ある意味これも仕方のないことかもしれない。お兄様の誘拐という大事件と、突然の実戦任務の実施。そして何より敵軍接近の報告で、兵どもの緊張は否が応でも高まっていた。にもかかわらず、実際にはまだ一度の戦闘も発生していない。肩透かし感を覚えるなというほうが無理がある。
「ウチの中隊の連中はどこも手持無沙汰でね、なんとも締まりのない状態だ。暇を持て余していてもいいことなんてないから、指揮本部へ行って何か仕事がないか聞いてきてもらえないか?」
ああ、なるほど、そう来たか。もちろん、これを言葉通りに捉えるほど私は世間知らずじゃない。これは、要するに情報収集を任されたということだ。
どうやら、ヴァレリー隊長も私と同じく現状にヤキモキしていたらしい。いくら戦闘がなくとも、敵の動向がわからないことには腰が落ち着かない。総大将であるソニアお姉様ならば何か知っているのではないかと中隊長は踏んでいるのである。
なにしろ私とお姉様は義姉妹だから、この手の仕事を任せるにはぴったりの人材だろう。お兄様がコネを否定しても、現場の人間にとってはそんなこと知ったこっちゃないということだ。少しばかり辟易した気分になったけど、まあ現状に不満を覚えてるのは私も一緒だしね。ヴァレリー隊長の命令という大義名分がもらえるのであれば、御用聞きくらいやりましょうとも。
「了解しました。……先任下士官、私は指揮本部へ行ってくる。小隊のほうは任せた」
「はっ!」
振り返ってそう命じると、先任下士官はまじめ腐った顔でそう応じた。もともとはジルベルトお姉様の部下だったというこの中年竜人は、私が生まれる前から軍人をしているという古強者だ。万一私の外出中に敵が奇襲を仕掛けてきたとしても、彼女に任せていれば問題なく対処できるだろう。
「アンネ、あなたは私と一緒に来なさい」
一方、階級は一応士官でもあんまり頼りにならないのがアンネリーエだ。コイツは小隊に残しておいても仕方がないので、副官代わりに連れていくことにした。まあ、コイツに副官が務まるかといえばどうにも怪しい部分があるけれど。……いや、能力的には十分秀才なんだけどね、コイツ。ただ、性格面がね……。
「いいのかよ?」
ちょっと驚いた様子で眉を跳ね上げるアンネ。元敵である彼女を指揮本部に連れていく、という判断が意外だったらしい。たしかにコイツが復讐心からスパイ行為に手を染める可能性もなくはないけれど……。
……ディーゼル家はもちろん、エムズハーフェン家すらリースベンについた現状では、コイツが今さら私たちに弓を引くのはあまりにもリスクが大きすぎる。何かあったら、今度こそミュリン家は滅亡待ったなしだからね。お家の存亡がかかった状況なら、さすがにそんな阿呆な真似はしないでしょ。
「お兄様から、あんたのことは身内同然に扱えって言われてるからね。まあ、いいでしょ」
「身内、身内かぁ……へへへ」
ちょっとうれしそうに両手で頬を抑えるアンネリーエ。……なに、その反応。キモ……。
「それでは、カリーナ・ブロンダン、行ってまいります」
まあ、アンネのことなんかどうだっていい。問題は敵の出方だ。待てど暮らせど敵がやってこないこの状況は、いくらなんでも異常だからね。増援でこっちの戦力が増強されるのはいいことだけど、向こうが何らかの奇策を仕掛けてきている可能性もある。場合によっては、作戦を改める必要があるかも……。
いや、まあ、ソニアお姉様がいるんだから、それほど心配をする必要はないかもしれないけどね。敵の進軍が遅れているのも、お姉様が講じた何らかの策のおかげかもしれないし。とにもかくにも、今は情報収集が第一ね。




