第592話 盗撮魔副官と火事場泥棒
わたし、ソニア・スオラハティ……いや、ソニア・ブロンダンはいささか困っていた。今のわたしの使命は、一刻も早くあの好色な王太子を叩きのめしアル様をお救いすることだ。しかし、それを成すためにはまず手始めに目の前に転がる諸問題を一つ一つ片づけていく必要があった。失敗の許されぬ使命であるからこそ、足元を疎かにしてはならいのだ。
ひとまず、わたしが至急こなさねばならない大きな仕事は二つ。王軍と戦うための戦力の集結、およびその後方支援体制の構築。そしてもう一つが……リースベンに迫る"自称討伐軍"への対処だった。
「予想どおり、討伐軍とやらはヴァール伯爵の門閥どもの寄せ集めのようです」
そう説明するのは、宰相派閥の重鎮の一人レマ伯ジェルマンだった。討伐軍の初報を受てから、既に三日が経過している。その間に、我々は情報収集と臨戦態勢の構築にあたっていた。
リースベンは、その辺境極まりない立地から情報収集にはまったく向かない場所だった。隣の町へ行くのに、早馬ですら何日もかかってしまうのだ。情報伝達が遅れるのも当然のことである。……しかし、今となってはそれも過去の話になっていた。最寄りの二都市、レマ市とズューデンベルグ市との間に電信線が敷設されたからだ。今や、我々はこの二都市とリアルタイムで通信することが可能になっている。
今回、情報収集の主役となったのはそのレマ市の領主、ジェルマン伯爵だった。彼女はもともと王国南部屈指の大貴族だから、当然それなりの情報網も持っている。敵情をこっそりと探る程度ならばお手の物だ。
「兵力は約千二百、一個連隊程度ですね。わき目もふらずかなりの強行軍で南進を続けているという話ですから、目標はまず間違いなくこのカルレラ市でしょう」
倦んだような目つきで周囲の連中を見回しながら、ジェルマン伯爵は言葉を続ける。臨時対策本部と化した領主屋敷の会議室に詰める顔ぶれは、三日前からほとんど変化していない。ジェルマン伯爵をはじめとした王国諸侯はもちろん、カワウソ女などの帝国諸侯もほとんどがカルレラ市に居残っていた。
なにしろ、彼女らのほとんどは空路でカルレラ市にやってきているのである。同じ方法で所領に帰そうとすれば、王室派貴族の翼竜騎兵が妨害に出てくる可能性がある。ある程度の安全を確保するまでは、この街で待機してもらった方が良いと判断したのだ。
「たかが一個連隊か、我々もナメられたものだな」
腕組みをしながら、小さく唸る。討伐軍とやらの主将はあのヴァール子爵だという話だ。先の戦争でのヴァール子爵はまったくもって戦意に欠けており、例外的にやる気を見せたのは無防備な集落を略奪するときだけだった。
そんな女が大急ぎでこちらに向かっているということは、つまり……奴はこのリースベンを単なる餌場として見ているということになる。要するに火事場泥棒だ。小物なら小物らしく日和見でもしていれば良かったものを、あの傲岸不遜な恥知らずめ。よほど死にたいと見える。
「しかし、貴殿らの主力部隊はいまだにミュリン領に駐留しているのでしょう? 彼女らが戻ってくるより早く、敵が来襲したら……いささか厄介なことになるのではないでしょうか?」
王国諸侯の一人がそう発言した。ジェルマン伯爵に臣従する小領主の一人だ。確かに彼女の言う通り、我々の兵力は敵に対して圧倒的に劣勢だった。ミュリン領の駐留部隊は大急ぎで撤兵準備にあたっているが、大部隊だけにその動きは鈍い。彼女らがカルレラ市に戻ってくるまでには、最低でも十日以上の時間が必要だろう。
敵の来襲が早いか、わが軍の帰還が早いか……それは、はっきりいって予想がつかない。こういうときは、最悪の状況を想定して動くのが軍人というものだ。わたしの中では、既にヴァール軍が先行してリースベン領へ侵入するという想定で作戦が組み立てられつつあった。
とはいえもちろん、本隊を放置しているわけではない。撤兵の指揮をさせるため、駐留部隊の将であるジルベルトとゼラは、戻るよう命じてある。もちろん、空路でだ。当然これにはかなりの危険が伴うから、十分な数の翼竜騎兵を護衛につけてある。
ちなみに、諸侯らがカルレラ市で足止めを喰らっているのは、この作戦に我々の空中戦力のほとんどが抽出されてしまったせいだったりする。翼竜、鷲獅子といった空中戦力は貴重だ。複数の作戦を並走させるのは流石に困難だった。例外は、目的地が同じだったミュリン伯イルメンガルドだけだ。
「たしかに、こちらの即応戦力はそれほど大きいものではない。兵力面ではヴァール軍の方が優勢なのは事実だ。しかし……」
わたしは意識して顔に笑顔を張り付けた。脳裏に浮かぶのは、いくさを前にしたアル様の顔だ。あの自信ありげな笑みは、いつだってわたしたちに勇気をくれたのだ。アル様のいない今、皆に勇気を与える役目はわたしが演じるほかない。
……今回の場合、自信があるのは事実だ。しかし、それでもなお先頭に立って皆を鼓舞するという役割には緊張を覚えずにはいられなかった。なるほど、これがアル様が背負っていた重圧か。副官という立場では、この景色を見ることはできなかった。これぞ、怪我の功名という奴か。
「しかし、戦力と兵力はイコールではない。リースベンに残っている軍勢は、わが軍の中でも最精鋭に位置づけられる部隊だ。たとえ敵と正面からぶつかったとしても、勝利をもぎ取ることは十分可能だろう」
自信満々にそう言い切るわたしだったが、その言葉にはいささか誇張が含まれていた。精鋭部隊云々の話だ。いま、リースベンに居残っている部隊は実用化されたばかりの後装式小銃・大砲へと装備を転換している最中の者たちだ。
新装備と言えば聞こえは良いが、手に馴染んでいない武器では本領は発揮できないのである。彼女らの訓練は、正直まだ十分とは言い難いものがあった。流石に火事場泥棒風情に後れを取るとは思わないが、過信は禁物だろう。しょせん、ヴァール軍などは前座に過ぎないのだ。たとえ連中を殲滅できたとしても、受けた被害が多ければそれだけで敗北したのと同じことになってしまう。
「まあ、寡兵をもって大軍を破るのはリースベン軍のお家芸だからな。この程度の敵なぞ、恐れるに足らんだろう」
豆茶のカップを片手にそんなことを言うのは、ズューデンベルグ伯アガーテ・フォン・ディーゼル。わが義妹カリーナの姉でもある彼女の顔には、何とも言えない皮肉げな笑みが浮かんでいた。なにしろ、ディーゼル軍は去年の初夏に大軍をもってリースベンに攻め寄せ、そのまま粉砕されている。当時のディーゼル家を率いていたのは彼女ではないとはいえ、その言葉には何とも言えない真実味があった。
そのおかげか、不安げにしていた諸侯らの雰囲気もいくぶん和らいだ。なるほど、いい助け舟だ。感謝を込めて視線を送ると、アガーテは薄く笑ってから豆茶を一気に飲み干した。
「何にせよ、しょせんヴァール軍などは前菜に過ぎんのだ。この程度の相手に苦戦するリースベン軍ではあるまい?」
しかし、そこでわざわざプレッシャーをかけてくる阿呆がいた。あのカワウソ女、ツェツィーリアだ。彼女はいかにも性格の悪そうな笑みを浮かべつつ、会議室に居並ぶ面々を順番に見回した。
「むしろ、これは良い機会だ。我ら自身が観戦武官となって、新たなる戦争のカタチをまじまじと観察できるのだからな。我らは生徒になったつもりで、ソニア殿のいくさ働きを眺めていれば良いのだ」
こ、こいつぅ……他人ごとだと思って好き勝手言いやがって。義姉妹になることは認めたが、やはりこの女は好きになれない。アル様と一緒に、クソババアの救出も急ぐ必要がありそうだ。陰険には陰険をぶつけるのが一番だからな……。
「ふん、言ってくれる。良いだろう、貴様があっと驚くような戦いぶりを見せてやるさ」
口ではそう言っても、錬成不足の部隊に無茶をやらせるわけにはいかない。それこそ、ディーゼル戦の時のように山道に防御陣地を築いて敵軍の遅滞をおこうなうのが精々だろうか。
幸いにも、あのときと違って今回は援軍が確実にやってくる。ジルベルトたちだ。ヴァール子爵に落とし前を付けさせるのは、彼女らが戻ってきた後でも遅くはないだろう(アル様の事を思えば一分一秒でも無駄にしたくはないが、急いては事を仕損じる)。
まったく、自分の小物ぶりがイヤになるな。これがアル様ならば、現有の戦力でも華麗にヴァール軍を殲滅し、こしゃくなカワウソ女にも目にものを見せていただろうに。正直かなり悔しいが、どうしようもない。兎にも角にも、わたしの出来ることから順番にこなしていくしかないな。




