第575話 くっころ男騎士と秘密の地下道
セーフハウスに籠もってから、一夜が過ぎた。朝日が上る寸前に目を覚ました僕だったが、正直あまり疲れは取れなかった。夜更かしのせいだ。昨夜は遅くまで、今後についての話し合いをしていたのである。むろん有事に備えた計画は用意していたが、状況がここまで動いたからにはそれなりに計画の修正も必要だ。リースベンに戻るまでのこと、戻った後の身の振り方、話し合うべき議題はいくらでもある。結局、身体はともかく精神と頭の方は全く休まらなかった。まあ、こればかりは仕方がない。
朝日が街を照らすころ、セーフハウスのドアが叩かれた。すわ、御用改めかと緊張が走るも、幸いなことに来訪者の正体はポワンスレ大司教の代理人ラ・ルベール司祭であった。
「脱出の準備が整いましたよ」
胡散臭い笑みと共にもたらされたその言葉は、我々が待ちわびていたものだ。どうやら、彼女らは裏切ることなく約束を果たしてくれたようだ。正直にいって教会、とくに生臭坊主ポワンスレは信用できないのだが、今我々が頼れるのは彼女らだけだからな。まさに溺れる者は藁をもつかむって感じだ。もちろん、万一に備えて保険は掛けてあるがね。
ラ・ルベール司祭の案内のもと、僕たちは爽やかな朝日を浴びながらセーフハウスを出立た。街中では、相変わらず王軍の連中が目を皿のようにして僕たちを探し回っている。もちろん、その中には見慣れたスオラハティ家の家紋を掲げた騎兵隊の姿もあった。彼女ら自身も、そしてそれを指揮するマリッタも油断のならない相手だ。当然ながら、その警備体制には隙がほとんどない。
街の要所にはあちこちに臨時検問所が設けられており、現状の戦力での突破はまず不可能だろう。もちろん障害はそれだけではなく、小隊単位の遊撃隊が裏路地やら各家屋などを巡りながら怪しいものが居ないか目を光らせている。どうやら手配写真なども出回っているようだから、少々の変装ではとても誤魔化せそうにない。
「まったく、ご苦労なことです」
しかし、そんな水を漏らさぬ警備を前にしても、ラ・ルベール司祭は自信ありげな笑みを崩さなかった。なにしろ、こちらにはレーヌ市遠征軍の聖職者代表がバックについている。正面から突破できないような障害も、裏道を使って容易に迂回することができるのだ。
金と権威、そして信仰が彼女らの武器だ。それをフル活用して巡回や検問を突破していく様は、アデライドやダライヤすら唸らせるほど鮮やかな手管だった。欲深な者は鼻薬で黙らせ、真面目な者は聖界権力を笠に着て押し通り、信心深い者は詐欺師めいた説法で誤魔化す。それはまさに丁寧なごり押しとしか表現できないやり方であった。
すったもんだの末、我々が目的地にたどり着いたのは昼過ぎのことだった。目的地といっても、残念ながらまだ街の外には出ていない。街の中と外を繋ぐ門にはことさら厳重な関所が設けられており、教会の権威をもってしても突破は容易なことではないのである。
「やあ、どうも。またお世話になりますよ」
ラ・ルベール司祭がそんなことを言いながらズカズカと入り込んだのは、アッパータウンの一角にある小さな宝飾店だった。店構えこそ小さいが、並んでいる商品はいかにも高価そうなものばかりだ。ただし、商材の割には内装が簡素だから、どうやら店頭販売はやっていないように見える。貴族専門に商売をしている者は、こう言った業態を取っていることが多い。
「お久しぶりです、司祭様。お話は伺っております。さあさあ、こちらへ」
司祭の挨拶を受けた店主は、訳知り顔で我々を歓迎してくれた。話しぶりからみて、どうやら司祭と店主は以前からの顔見知りのようだ。
「おう、おう、これはこれは」
店の中を見回しながら、ダライヤが感嘆する。彼女の顔には、皮肉げな笑みが浮かんでいる。
「一般人の家ですらどこも略奪を受けておるというのに、なぜこの店は無事なんじゃろうな? 文字通りの金銀財宝を商っておる店じゃ。ワシが食い詰め兵士なら、いの一番にここを狙うと思うがのぉ」
「これぞ、極星のご加護のたまものですよ。ここの御主人はたいそう信心深いお方ですからね」
ラ・ルベール司祭から返ってきた答えは、教科書通りの聖職者らしいものだった。しかし、その顔には相変わらず胡散臭い笑みが浮かんでいる。
「なるほど、なるほど。有難いことですじゃ。ワシも毎日のお祈りは欠かさぬようにせねば」
そもそも、なぜ王国の聖職者であるはずのラ・ルベール司祭が、敵国のいち商人の信心ぶりを知っているのか。どう考えてもおかしいのだが、ダライヤはもちろんアデライドもそこには突っ込まなかった。今は彼女らだけが命綱なのだ。この状況で、藪をつついて蛇を出すのはよほどの阿呆だけだろう。
「さあさあこちらです。お早く」
ロリババアの皮肉をすまし顔で受け流しつつ、司祭は勝手知ったる他人の家という調子で店の奥へと進んでいった。その先にあったのは、小ぢんまりとした裏庭だった。目立つものと言えばちょっとした庭木と石造りの井戸くらいの、つつましやかな空間だ。ただ、母屋以外の三方は背の高い塀で完全にブロックされており、外の景色を見ることはできなくなっていた。おかげで、どうにも閉鎖的な雰囲気が漂っている。
「こちらの井戸の中に、脱出用の地下道がございます。出口は郊外の森の中ですから、ここを使えば安全に市外に出ることができるでしょう」
井戸に歩み寄ったラ・ルベール司祭が、にっこりと笑ってそう説明した、アデライドの頬が一瞬引きつった。脱出用の地下道……なんとも剣呑な単語である。なにしろ、このレーヌ市は城塞都市だ。一般市民が市外に繋がる地下道などを掘った日には、一族郎党まとめて死罪に処されるのは間違いない。しかも、当然ながら地面を掘れば土が出る。一般人が当局に秘密でこの廃土を処理するのは困難だろう。つまり、これは……。
「去年の夏を思い出すな……」
アデライドの言葉に、僕は無言で頷いた。去年の夏、僕たちは王都での内乱に際し制圧された王城から脱出するため地下道を利用した。これは、万が一城が落ちそうになった時、王族が極秘裏に城から離れるために設けられた緊急用の施設だった。ほぼ間違いなく、ここの地下道も同様の目的で掘られたものだろう。
なぜ、最高機密であるはずの地下道の存在を、ガレアの聖職者であるラ・ルベール司祭が知っているのか。そしてなぜ、司祭は攻城戦の最中にその情報を王軍に伝えなかったのか……。アデライドはそんな疑問を、視線だけで訴えかけてきた。
知らないよ、そんなの。そう言いたいところだったが、残念なことに僕はそれを承知している。なにしろ、この情報を取引材料にして、僕はポワンスレ大司教から便宜を引き出したのである。
「まあ、その辺はおいおいね」
さすがに、当事者の一人であるラ・ルベール司祭の前で何もかもを説明するわけにはいかない。これは、いわゆる醜聞に近い情報なのである。僕は内心、ため息をついていた。まさか、この僕が脅迫めいたことをせねばならない日が来るとは。正直に言えば、まったく趣味じゃない。ヨゴレちまったもんだね、僕も……。
いや、いや。今はそんなことを考えている場合ではない。やっとのことで、市外に逃れる術が見つかったのだ。ポワンスレ大司教が裏切らない限り、この地下道の存在がフランセット殿下やマリッタに露見することはまずあり得ない。逆に言えば、大司教が裏切れば僕たちは一転して袋の鼠になってしまうということだ。僕はゆっくりと息を吐き、そして拳を握り締めた。今回の作戦では、ここが一番の博打だ。さあ、虎穴に入って虎児を得ることにしようか……。




