第524話 カワウソ選帝侯と老狼騎士
戦闘においては敗北を喫した我がエムズハーフェン家ではあったが、ガレア諸侯への政治工作には成功し敵軍を撤兵させることには成功した。まあ、そもそもガレア軍には会戦に勝利できるだけの戦力はあっても、根拠地から遠く離れた都市を長期にわたって占領・維持する能力はなかったからね。リッペ市からの退去自体は、実際のところ既定路線ではあった。
とはいえ、エムズハーフェン領の領主としては、できるだけ早期に占領状態は解除したかった。なにしろ兵隊は下手なヤクザなどよりよほどタチの悪い無頼の輩どもだ。そんな連中が大勢我が所領に詰め掛けていたわけだから、とても……とっても困る。治安は悪化するわ、商売はやりにくいわ、負けちゃったせいで糧秣等の軍需品を安く買いたたかれるわ、良い事なんかまったくない。
しかし、そんな苦難の日々は早々に終わった。ガレア諸侯軍は私の領地から立ち去り、平穏が戻ってくる。とはいえ、私には平和の喜びをかみしめる余裕などなかった。ガレアとの間に発効した和平条約は暫定的なものであり、私には残った懸案事項を解決する義務があったからだ。そういうわけで、私はブロンダン卿らに同行しエムズハーフェン領を後にした。
「久しぶりだな、ミュリン伯。それに、ジークルーン伯も。……壮健そうで何よりだ」
燭台の淡い光が降り注ぐ豪奢な大広間で、私はそう挨拶した。ここは、ミュリン領の首都ミューリア市にある領主の居城だ。私も、そして周囲に居るものたちも軍装ではなく礼服に身を包んでいる。並べられたテーブルには湯気の上がるご馳走が並べられていた。エムズハーフェン領から"凱旋"したガレア軍のために、歓迎の晩餐会が開かれているのだ。
晩餐会、といってもそれほど堅苦しいものではない。立食パーティー形式のラフなもので、ホールに集った貴族たちは料理もそっちのけで雑談に興じていた。楽団の奏でる楽しげな曲が、敗戦時特有の景気の悪い話題に空虚な花を添えている。
「壮健そうに見えるかね、あたしが」
そう言って皮肉気に笑うオオカミ獣人の老騎士、イルメンガルド・フォン・ミュリン。年齢を感じさせないかくしゃくとした老人だった彼女は、すっかり老け込んでしまっていた。その理由は、考えるまでもなくこのまったくくだらない戦争のせいだろう。もっとも、彼女に関してはむしろ自分からリースベンに喧嘩を売ったという話らしいのだが。
「いいや、まったく。皮肉だよ、皮肉」
「相変わらず性格が悪いねぇ……」
むっすりしながら肩をすくめるイルメンガルド。立場的には伯爵である彼女よりも私の方が偉いわけだけど、老騎士の口ぶりはそれほど丁寧なものではない。なにしろこの女は先々代……つまり私の祖母がエムズハーフェン選帝侯だった時分からミュリン伯をやっている古兵中の古兵だ。そういう相手だから、私としても多少の不敬などは気にならない。
「しかし、まさか選帝侯閣下までもが"こちら側"に来てしまうとは。まったく、世も末としか言いようがありませんな」
そんな我々を交互に見比べながら、ジークルーン伯が深々とため息を吐く。ガレア軍……いや、リースベン軍は、このミュリン領でミュリン伯やジークルーン伯を打ち倒したあと、今度は我々エムズハーフェンにも勝利してみせた。見事なまでの二タテだ。しかも相手はド田舎の城伯風情だ。もはや笑うしかない。
「まったく同感だな。まあ、時代は移り変わるものだ。駄目だったことはさっさと諦めて、次に備えるしかあるまいよ」
まあ、ウチはリースベン軍単独に敗れたわけではないけどねね。内心でそう付け加えつつも、私は頷いた。エムズハーフェン軍が相対したのはガレア軍一万だ。そういう意味では、ミュリン戦よりもだいぶ厳しいいくさだったと思う。もっとも、それを口に出したところでイルメンガルドらの心証を悪くするだけだものね。
「次、ね……」
ワインで舌を湿らせつつ、ジークルーン伯が唸った。
「例の手紙の件も、そういうことなのでしょうか」
例の手紙というのは、リッペ市での交渉の裏でミュリン伯らに送り付けた密書のことだ。内容はなかなかに刺激的で、ともに神聖帝国を離脱しブロンダン陣営に付かないかというお誘いだったりする。もちろん、中身が中身だけにわざと迂遠な書き方をしているけどね。
「ああ、そうだ。……まあ、このような場で話す内容でもあるまい。のちほど、我々だけで集まることにしようか」
自然な所作で周囲をうかがいつつ、私は薄い笑みを浮かべた。いくらなんでも、敵味方の入り混じるパーティの会場で寝返りの相談をするような真似はできないからね。
「何はともあれ、今の私の一番の仕事は正式な講和条約をまとめることだ。ミュリン伯、申し訳ないがしばらく世話になるぞ」
会議が終わるまで、私はこのミューリア城に滞在する予定だった。この時点で巻き込まれたミュリン伯は迷惑極まりないだろうけど、戦地から返ってきたミュリン軍一万もこの領地で引き受けなければならないのだからさらに大事だ。イルメンガルドの婆さんとは今後とも仲良くしていきたいし、ガレア軍の滞在にかかる資金や糧秣の一部はウチで負担してあげようかな。
「ああ、もちろんさ。歓迎させてもらうよ」
そう言って頷いてから、老狼騎士は肩をすくめた。にこやかな表情を装いつつも。なんとも苦々しい感情が笑顔の仮面から漏れ出している。いい加減隠居させてくれ、そう思っているのだろう。まあ、気分は普通にわかるわ。でも、この難局のさ中にアナタが引退したりすれば、ミュリン家は大変なことになっちゃうだろうからね。せいぜい頑張ってほしいものだわ。……私としても、あの脳筋娘やら頭でっかちの孫やらよりは、この婆さんの方と轡を並べたいしね。
「ただ……ウチで交渉をやるってんなら、一つ忠告がある」
「ほう。古老の忠言は黄金より重いと心得ている。どうか聞かせてくれ」
「ダライヤ・リンド、あのクソエルフには気を付けな。見た目は童女だが、中身はあたしが赤ん坊に見えるくらいの大年寄りだ。ご聡明なエムズハーフェン侯とはいえ、油断できる相手じゃないよ」
「エルフ、か……」
喉元に苦いものがこみあげてくる感覚を覚えつつ、私は唸った。エルフ、あの修羅の種族。あの可憐な外見がたんなる擬態だということは、私ももちろん承知している。なにしろあいつらのせいで危うく本気で死にかけたわけだからね。
「彼女らを侮る愚など、犯すはずがない」
「その表情……もしや、閣下もエルフらに?」
ジークルーン伯が同情した様子で聞いてくる。表情から見て、彼女らもエルフにはひどい目にあわされたっぽいわね。
「ああ、本陣にエルフどもがなだれ込んできたのだ。あれが、此度の敗戦の決定打だった。……どうやら、諸君らも私と同じような経験をしたようだな」
「ええ。追い回されたあげく矢をいかれられたり炎をまき散らされたりしましたよ」
「おかげで、大切な猟場の森が完全に焼失しちまった。エルフどもの放火癖にも困ったもんだ」
揃ってため息を吐くジークルーン伯とミュリン伯。……森一つを燃やし尽くすとかどれだけ火が好きなのよあいつら。森の民が聞いてあきれるわ。苦笑する私を見て、二人の伯爵も破顔した。どうやら、私も同様の経験をしたことを察したらしい。妙な連帯感が、我々の間に形成されつつあった。
「……おや、噂をすれば影だね。ダライヤのお出ましだ」
ふと広間の入り口に目を向けたミュリン伯が、眉を跳ね上げた。そこでは、ちょうどブロンダン卿がやってきたところだった。女物の礼服を一部の隙も無く着込んだ彼の隣には、小柄なエルフの姿がある。思わず抱きしめてあげたくなるような、とびっきり可愛らしい童女だ。
「あれがダライヤ・リンド? ……やりにくそうな相手ねぇ」
「ああ、実際やりにくいよ。年寄りと童女と外道の顔を変幻自在に使い分けるんだ。あたしの人生の中でも、あれほどタチの悪い輩は初めて会うくらいだ」
イルメンガルドの苦々しい言葉とほぼ同時に、ブロンダン卿がこちらに気付いた。愛想のよい笑みを浮かべながら一礼した彼は、一直線にこちらへと近寄ってくる。どうやら、挨拶をしに来たようだ。もちろん、その隣にはダライヤがついている。……この古老がここまで言う難物、そのお手並みを拝見させてもらうとしましょうか。




