第523話 カワウソ選帝侯の交渉術
私、ツェツィーリア・フォン・エムズハーフェンは満足していた。想定外ばかりの戦いから一転、講和会議ではほとんどこちらの想定通りに事が進んでいたからだ。あの昼食会で、私はブロンダン卿に取引を持ち掛けた。レーヌ市への物流を停止する代わりに、ガレア軍をエムズハーフェン軍から撤兵させるという取引だ。
ブロンダン卿は政治の素人だけど、軍事に関しては間違いなく天才だ。彼の目から見て、現在のガレア軍の状況はあまり良いものではないだろう。根拠地から離れすぎているせいで補給線は細いし、周辺地域のほとんどは敵対的な諸侯の支配地だ。これ以上進撃する余力がない場合、ガレア軍は一転して袋のネズミと化す。
まともな指揮官であれば、そうなる前に撤退したいと思うのは当然の当然のことだろう。皇帝軍への補給を遮断するという当初の目的さえ果たせば、ブロンダン卿は撤退してくれる。そう考えての交換条件なわけだけど、案の定彼ははこの提案を好意的に受け取ってくれた。
「結局のところ、我々の役割は王太子殿下率いるガレア軍本隊への援護なのですから。まずはその目的を果たすことを第一に行動するべきではないでしょうか? とにかく、大切なのは一日でも早くレーヌ市への補給を断つことだと思います」
昼食会の翌日の会議で、ブロンダン卿はそう発言した。もちろん、私の入れ知恵でね。モラクスとやらは王家の利益を第一に動いているようだから、彼の言葉に頷かざるを得なかった。私はレーヌ市へと向かう物資をすべて止め、その代わりにガレア軍は我が領地から撤退する。そういう条件で、ひとまず会議はまとまった。
「待て待て! 賠償金の件はどうなったんだ。せっかく占領したリッペ市すら放棄してしまうのだ。一銭ももらえませんでは取引として不均衡だぞ!」
ところが、ここで声を上げる者がいた。あの無能な俗物、ヴァール子爵だ。せっかくの和平案をひっくり返すかのような主張だけど、ガレア側の諸侯には彼女に同調する者も少なくなかった。なにしろ、遠征にかかる費用は膨大だ。手弁当で従軍している諸侯らにとっては、賠償金の有無は死活問題と言っても良い。
モラクスはかかった戦費ぶんくらいは王家が補填する、などという妥協案を出していたけど、諸侯らは納得しなかった。せっかく勝ったのだから、妥協せずもっと絞り取れ。そう主張して譲らない。……なぜかって? 私がそう仕向けたからね!
実際のところ、ヴァール子爵をはじめとした数名のガレア諸侯に、私は工作を仕掛けていた。ガレア軍の結束を乱し、講和会議を長引かせるためだ。しかも、彼女らは自分たちがこの私にコントロールされていることを知らない。あくまで自分たちの利益のために行動していると思い込んでいる。
これらの工作は、彼女らのブレーン……すなわち、幕僚陣に対する買収という形で行われた。トップがアホな挙動を見せている組織は、得てして幕僚も腐っているものだ。少しばかり小銭を握らせてやれば、簡単に思い通りに誘導することができた。
「このままではまとまるものもまとまりません。とりあえず暫定的に例の交換条件を先行して実施し、賠償金についてはその後改めて協議する、というのはいかがでしょうか」
再び停滞の兆しを見せつつあった講和会議に、ブロンダン卿の鶴の一声が響く。困り切っていたモラクスは、大喜びで彼の案に飛びついた。……それが私の差し金とも知らずにね。あの昼食会の時に、私は会議がまとまらなかったときの妥協案も彼に伝えていた。エムズハーフェン領からさっさと兵を引きたいというのはブロンダン卿の本意でもあったから、この提案は快く受け入れられていた。
つまり、何が言いたいかというと、この会議はすべて私のコントロール下にあったという事。いやあ、本当に笑いが止まらないわ。田舎諸侯の寄り合い所帯が、この私に謀略戦で勝てるわけないじゃないの。んっふふふふ。
そう言う訳で、私はひとまずの目的を遂げた。目的というのはまず第一にガレア軍を私の領地から撤退させることであり、もう一つはブロンダン卿に私と協力関係を築くメリットを提示することだ。第一の目的も大切だけど、第二のほうも重要だった。リヒトホーフェン家を見限ることに決めた以上、できるだけ早くブロンダン陣営に入りたいところだからね。売り込み攻勢をかける必要があった。
「いや、流石はブロンダン卿ですな。戦場の戦いだけではなく、議場における戦い方も心得ていらっしゃる」
ガレア軍の中でもマトモな連中は、そろってブロンダン卿を賞賛していた。アホがバカ騒ぎをする中、彼の提案だけが会議を前向きな方向に勧めて来た訳だからね。そりゃあ評価も高くなるわよ。
ま、これもまた私の仕込みだけどね。実のところ、私はわざわざブロンダン卿に花を持たせる方向に会議を誘導していた。これはいわば、私のプレゼン。ブロンダン卿は聡明で戦争の天才だけど、政治面においては明らかに素人だった。私を退き込めば、その弱点が補えますよ。そういう風に、私は言外に彼へとアピールしたのだった。
「いや、その……はは」
一方、当のブロンダン卿は周囲の者たちから褒められても反応はいまいちだった。どうやら、この政治的な成功を自身の躍進に利用する気はさらさらないみたい。どうもこの男は、己の興味も才覚もすべて軍事へと振り向けている節がある。
その姿をみて、私は確信した。やはり、彼は自ら成り上がったのではなかった。背後にいる別の黒幕が、彼の後押しをしているのだ。いくら有能だといっても、ここまで政治的野心のない人間がホイホイ出世するわけないからね。
まあ、黒幕なんて言っても、その正体は考えるまでもない。アデライド・カスタニエ、そしてカステヘルミ・スオラハティの両名だ。ブロンダン陣営に参加するのであれば、この二人とも付き合っていく必要がある。講和会議を片手間にこなしつつ、私は思案した。
「軍を撤退させる以上、我々だけがリッペ市に滞在するのはなんとも不用心だ。退くなら退くで、講和会議の会場もミューリア市に戻すというのはどうだろうか? どうせ、ミュリン家との講和もまだ終わっていないのだ。この際、どちらも同時に片づければ無駄がなくて良い」
そこで私は、自ら相手の懐に飛び込むことにした。ヴァール子爵の幕僚に働きかけ、そのような提案を子爵の口から出させたのだ。ミューリア市はミュリン領の首都、そしてそのミュリン領はリースベン領の隣国の隣国だ。この距離であれば、リースベンに滞在しているというアデライドを呼び寄せることも不可能ではないだろう。
しかも、ミュリン領に行けばあのイルメンガルドの婆さんもいるしね。数度にわたる密書の往復の結果、ミュリン家との共同戦線はもはや既定路線になりつつあった。味方を増やすためにも、出来るだけ早くあの婆さんとは合流したいところだった。
「異議なし!」
結局、すべては私の敷いた道の通りにことは進んだ。講和会議の会場はミュリン領へと移動になり、それに伴って私も久しぶりにあの婆さんの領地へ足を踏み入れることになったのだった。
……んふ、んふ。いいわね、すごくいい。順調というほかない状況だわ。ブロンダン卿とヴァール子爵、ガレア軍の理性代表と困ったちゃん代表を同時に影響下に収められたのは本当に幸いだった。この二人に両極端な提案をさせ、会議を左右に振り回せばモラクスは対処不能に陥る。その隙に付け込めば、敗者のはずの私が状況を主導することだって可能って寸法よ。あー、楽しい。
しっかし、本当にブロンダン卿は良い軍人だ。自身はあくまで戦争屋に徹し、政治的野心は微塵も見せない。さりとて愚鈍な訳ではなく、合理的な提案を心がければ打てば響くような反応が返ってくる。聡明だが余計な真似は全くしない、軍人の鑑とはこういう人間のことを言うのだろう。
あー、アデライド宰相が本気で羨ましいわ。ウチのアホ臣下全員と交換したって、彼一人でおつりがくるんじゃないかしら。まあ、こんなのが配下に居たら全力で推すに決まってるわよね。おまけに性別が男と来ているから、その優秀な血筋を己の子孫に引き継がせることだってできる!
そりゃ、ガレア屈指の大貴族が自ら結婚しようとするわけだわ。なんなら、私にも一枚噛ませて欲しいくらいなんだけど。これだけ有能な男の血筋をエムズハーフェン家に取り込むことができたなら、今回の戦争の損失なんてあっという間に埋め合わせることが出来るんじゃないかしら? 割と見た目も好みだしさぁ……。




