第512話 カワウソ選帝侯と敗戦
「ふぅ……」
私、ツェツィーリア・フォン・エムズハーフェンは深いため息をついた。今、私はリースベン軍の指揮本部を辞し、野営地の近くにある民家で体を休めていた。ここはリッペ市郊外に畑を持つ自作農の家で、リースベン軍が一時的に徴発したものだった。それを、私用の仮の宿として提供されている形になっている。
正直に言えば、選帝侯たる私が滞在するにはあまりにも粗末な家だった。しかし、決して軽んじられているわけではないというのは理解している。都市の防壁の外にある家など、だいたいこんなものだ。立派な屋敷を建てられるような財力のあるものは、みな都市の内側で暮らしているからね。リッペ市の暴動が収まるまでは、住環境には妥協する必要があった。
「お疲れですね、我が侯」
「そりゃあね、昨日の今日だし……」
こちらを案じる目つきの筆頭参謀に、私は私的な口調でそう答えた。私たちがいるのは、この家に一室だけある客間だ。部屋には私と筆頭参謀の二人しかいないので、言葉遣いに気を使う必要はない。……提供されたのが客間があるような家で良かったわ。そこらの貧農なんて、居間も台所も寝室も一まとめになったあばら家で暮らしてるし。
「負け戦だから、疲れもひとしおねぇ。はぁぁ……」
ボヤきながら、私はベッドにごろんと横になった。あー、まったく。ひどいいくさだった。私が生き延びることができたのは、運が良かったからだ。一つ選択を間違えていたら、命はなかったと思う。それを思うと、今さらながら体が震えてきた。
あの巨大カマキリに捕まった時は、本気で死を覚悟したけどね。あぁ、怖かった。強すぎるにもほどがあるでしょ、アイツ。我が精鋭がなすすべもなく一瞬で蹴散らされたんだけど。うう、思い出すだけで怖気が走る。
「申し訳ありません、我が侯。自分が至らぬばかりに……」
うなだれる筆頭参謀。私は胸が締め付けられるような心地になって、ベッドから身を起こした。
「こればっかりは、相手が悪かったとしか言いようがないでしょ。貴女は悪くないわ」
たかだか千名の兵力と侮ったのが間違いだった。一騎当千の精兵と、見事なまでの用兵。負けるべくして負けた、そういう感じ。強いて言うなら、明らかな囮に引っかかってブロンダン卿の首級を取りに行った私が悪い。もちろん罠だということは理解していたけれど、そのくらいならば打ち破れるという慢心があった。まさか、ここまでボコボコにやられちゃうなんてね。
「こうなっちゃったからには、とにかく出来るだけ損をしないように立ち回る必要がある。どうやらブロンダン卿は我々を滅ぼすつもりはないみたいだけど、わが軍が致命的なダメージを受けたのは事実だからね。選択を誤ったら、こんどこそエムズハーフェン家はお終いよ」
わが軍の正式な被害報告はまだ上がってきてないけど、まあロクでもないことになっているのは想像に難くないからね。リースベン軍が無事に撤退してくれても、その後で日和見して戦力を温存してたゴミカス共に攻め滅ぼされちゃ意味がない。立ち回りには細心の注意を払う必要がある。
「リッペ市の動乱への介入もその一環、というわけですか」
「ええ、もちろん。暴徒鎮圧とかなんとか言って、街中にエルフやらカマキリやらを解き放たれたらいよいよリッペ市はお終いだからね……ただでさえ大損をしてるのに、これ以上ダメージを喰らうなんて冗談じゃない」
私は渋い顔をして区部を左右に振った。幸か不幸か、エルフの暴威は私に向かって解き放たれた。あの連中が、こんどこそ私の領民たちに牙を剥いたら? ……考えたくもない。今まで一度も武器を持ったことの無いような市民が、あの暴力という概念そのものが擬人化したような蛮族に勝てるはずがない。今度こそ間違いなくリッペ市は滅んでしまう。
「陸の軍隊は致命傷を負ったけど、水軍はまだ健在だからね。これからのエムズハーフェン家は、これまで以上に水運に頼らざるを得なくなる。港町は重要よ、とっても」
「なるほど……」
腕組みをしながら、筆頭参謀は考え込んだ。……しっかし、私のみならずこの人も生き残ったのは本当に不幸中の幸いねぇ。この難局を一人で乗り切るなんて、まず不可能だし。
「とにかく、今後の最優先課題は体勢の立て直しよ。……そのためには、ブロンダン卿に媚を売ることも考えなくては。死んでいった者たちには申し訳ないけれど、意地だけじゃあお腹は膨れないからね」
「鞍替えをお考えですか」
「ええ、思っていたのより三倍くらいリヒトホーフェン家が頼りにならないんだもの。この調子じゃあ、レーヌ市を巡る戦いも怪しいものだわ」
もし、ガレア王国軍本隊もリースベン軍と同様の新式軍制を採用していたら、皇帝軍の命運は尽きたも同然だ。そうでなくとも、我々の敗北は皇帝軍の士気にかなりの悪影響をもたらすだろう。正直、勝ち目はあまりないように見える。
私は、鉄砲や大砲と、それらを軸とした新戦術の暴威を身をもって知っている。槍や弩を主力とした軍隊では、この新式のやり方には対抗できない。つまり、勝ち組になりたければ、我々も鉄砲や大砲を導入せざるを得ない。そうでなければ時代の流れに淘汰されてしまう。
「これ、他の奴らにはナイショなんだけどね。私、ブロンダン卿の靴を舐めて鉄砲やら何やらを売ってもらう気でいるのよ。エムズハーフェン家の武器は交易だけど、その交易を支える物流網を守るためには武力がいる。今のままじゃマズいわ」
「ただでさえ、これからの神聖帝国は荒れるでしょうからな。致し方ありませんか……」
リヒトホーフェン家があの体たらくではね、と筆頭参謀は付け加えた。私も全くの同感だった。最悪の場合、神聖帝国は爆発四散する。寄らば大樹の陰ということわざがあるけど、その大樹が倒れかけてるんだから逃げ出すほかない。今は"次の大樹"を探すフェイズに入っているように思える。
「しかし、我らは敗軍ですよ。ブロンダン卿は取り合ってくれるでしょうか? 彼はかなりの切れ者です。最悪、利用されるだけされて後はポイ、ということも考えられますが……」
「たぶん大丈夫よ。彼がガレア王国の主流派だったのなら、そういう風になった可能性も高いだろうけどね」
そう言って、私は薄く笑った。脳裏に浮かぶのは、徹夜で戦い続けた翌日にも関わらず膨大な執務に忙殺されかかっているブロンダン卿の顔だった。余裕のある風を装ってはいても、なかなかに辛そうだった。普通ならば部下に丸投げするような仕事すら、彼は自分でこなしていた。とにかく人手が足りないのだ。
彼がガレア王家の完全な代理人であれば、こんなことにはなっていない。あの男はあくまで成り上がり者であって、実力はあっても歴史の裏打ちがない。職務や責任に比例しない小さな規模の家臣団が、それをなにより物語っている。
「これは軍学というより商売の話なんだけどね。商品が一番高く売れるのは、需要はたくさんあるのに供給が少ない時なのよ。商売人としての私の見立てでは、今のエムズハーフェン家は売り時よ」
「選帝侯家が城伯家に身売りですか」
世も末だなぁ、と言わんばかりの筆頭参謀の表情に、私は苦笑するほかなかった。気分はわかるけどね。でも結局、爵位を裏打ちするのは武力だもの。戦いに敗れた以上、格付けは確定してしまった。ならば、選帝侯という地位に拘泥して道を誤るよりは、むしろ我々の商品価値を上げるための一要素として活用すれば良い。
「身売りと言っても、もちろん安売りはしないわ。ゆくゆくは、そう、スオラハティ家と同じポジションに付きたいわね。ブロンダン家の後ろ盾で軍を再建し、それを生かして今度は我々がブロンダン家の後ろ盾になる」
「ふむ」
筆頭参謀は頷いたが、そううまく行くだろうかという疑問が顔にありありと現れていた。
「スオラハティ家とはまったく別口の後援者がつくことは、ブロンダン卿本人にとっても利益になるわよ。大丈夫」
彼自身、おもったよりも話の通じるタイプに見えたしね。正直、結構びっくりしたわ。女勝りのとんでもない男傑が出てくると思っていたのに、まさかあんなに理性的な人物だったとは。いや、まあ、その一方でサーベル担いで自ら前線に出たりしてる当たり、普通の男ではないわけだけども。とはいえ、男であるという一点を無視すれば、フェザリアとかいうエルフの酋長などよりはよほど穏当なタイプな武人なのは確かなようだった。
「ま、とにかくそういう方針で行くから。……たぶん、ウチの家臣団からは不満が噴出するでしょうけどね。申し訳ないけど、そっちの対処はヨロシクね」
幸か不幸か、ウチの脳筋家臣どもは少なからず生き残ってしまっている。私がブロンダン卿の尻を舐めたりしたら、あいつらは絶対にキレるからね。その辺りが、目下の一番の懸案事項だった。今やブロンダン卿よりもクーデターの方が怖い。
「老骨に無茶をさせますな、我が侯は……」
げんなりした表情で、筆頭参謀はため息を吐く。気持ちはわかるけど仕方ないじゃないの、ほかに頼りになる部下がいないんだし。あぁ、私もブロンダン卿を笑えないわねぇ。家臣団の規模は大きくとも、それ属している者はアホばかり。少数精鋭のブロンダン家臣団とどっちがマシかは、議論の余地があるわね。
「そういうセリフはあのミュリン伯爵くらいの年齢になってから言いなさいな」
そう言ってから、ふと思いついた。そうだ、この件はあの老騎士と協力して事を進めた方がいい。なにしろ我々とミュリン伯領は同じ敗戦国仲間だ。上手くやれば、我々の売値をさらに吊り上げられるかもしれない。
「ああ、そうだ。悪いけど、ミュリンに使いを出してもらえないかしら? あっちの講和会議も、まだまとまってないんでしょ? だったら、こっちの講和会議とまとめてやった方が面倒がなくていいわ」
「承知いたしました」
うやうやしく頷く筆頭参謀を見て、私は浅く息を吐きだした。さあて、これからが正念場ね。せっかく生き残ったんだもの、せいぜいあがいて見せようじゃない。……はぁ、いつになったら私は胃痛から逃れられるのかしら。




