第497話 くっころ男騎士と決戦の夜(5)
「右翼の第一防衛線が突破されました!」
その報告が指揮本部に飛び込んできたとき、僕はちょうどアツアツの香草茶を口につけたところだった。のどが焼けそうなそれをゆっくりと嚥下し、カップをソーサーに戻す。もちろん、丁寧な所作でだ。将校は兵に一挙手一投足を見られている。焦っていると取られるような動きはもちろん禁物であり、いついかなる時でも泰然自若とした態度を崩してはならないのだった。
「そうか」
穏やかな口調でそう答え、戦況図に目を移す。敵は全方位から強烈な圧力をかけてきているが、戦力の分配を見れば敵の主攻が右翼に向いているのは明らかだ。案の定の動きだなと、心の中でひとりごちる。
「被害状況はどうか? 孤立している部隊がいなければ良いのだが」
「問題ありません。現在、右翼の部隊は迎撃を行いつつ第二防衛線に向け後退中だということです」
「流石はゼラ、見事な指揮ぶりだな」
僕はあの姉御肌のグンタイアリ虫人の顔を思い出しながら、ニヤリと笑った。実際のところ、この後退はまったく予定通りの動きなのだ。まったく焦る必要などない。だが、擬装撤退が本当に潰走につながる事例は枚挙にいとまがないからな。それだけが心配だった。
とはいえ、困難な任務をこなしてもらう必要があるからこそ、右翼には精鋭部隊を配置していた。具体的に言えば、アリンコ重装歩兵隊の頭領であるゼラ直属の部隊だ。彼女も一応一国の女王を名乗る身、その近侍には極めて有能な者を置いている。この手の任務もお手の物だった。
しかし、敵が仕掛けてきたのが右翼で良かったよ。むろん左翼の突破を狙ってきた場合のプランも用意していたが、ゼラほどの将は二人も三人もは容易できない。右と左、どちらの方が堅いかと言えば間違いなく右翼だ。つまり、僕は二つにひとつの賭けに勝利したわけだな。
「城伯様、前線指揮所から入電。『右翼の状況を知りたい。当方に援軍の用意あり』……以上です」
「心配ご無用、と返しておけ」
僕は通信兵にそう言い返した。前線指揮所のペルグラン氏は、どうやら右翼の状況が心配らしい。まあ、気分はわかるよ。実際、右翼の最外縁の塹壕線は制圧されつつあるわけだし。とはいえ、中央の兵員を割いてまで右翼に援軍を送る、というのは本当に最後の手段だ。できればやりたくない。なにしろ右翼や左翼は失陥前提で作戦を組んでいるが、中央に関しては堅持しつづける必要があったからだ。
現状、作戦はまったくもって順調に推移している。流石はエムズハーフェン選帝侯だな、最善手ばかり打ってくる。兵力差もあることだし、やはり真正面から戦うのは厳しい相手だ。しかし、知将だからこそ手の内を読みやすいメリットもある。作戦の主導権を握っているのがあの人で良かったよ。アーちゃんが直接作戦に介入してきたらどうしようとか、わりと戦々恐々としてたんだが。
正直、対戦相手としてはエムズハーフェン選帝侯よりもアーちゃんのほうが厄介だ。合理性よりも直感を重視するタイプだし、しかもその勘はなかなか鋭いと来ている。だからこそ出方が読みづらく、対応が後手後手になってしまいがちだ。それよりはまだ、予想の範囲内で最善手を打ち続けてくるタイプの方がやりやすい。
「……」
心の中でため息を吐く。思った以上に賭けの要素が強い戦いになってしまった。本来、この作戦はあくまでリュパン軍を支援するための陽動だったのだ。だが、現状はどうだ。敵も味方も死力を振り絞って戦っている。予想以上に、僕に対するエムズハーフェン軍の殺意が強かった。それに尽きる。
まさか、選帝侯本人(&アーちゃん)が精鋭を率いて直接僕を叩きに来るとは。サバやアジを狙うつもりで釣り糸を垂らしたらマグロがかかったくらいの衝撃だ。どうしてこんなことになっちゃったんだろうね? 南部方面軍司令などという立場を押し付けられはしたが、僕なぞ所詮は成り上がり者の城伯に過ぎないんだぞ。どうなってるんだ、まったく。
「アル様、南方の空で青色信号弾が確認されました」
やくたいのない考えを弄んでいた僕の元に、ソニアがやってくる。信号弾を使って連絡してくる味方など、ヴァルマ以外にはいない。他の部隊の司令部には電信の通信線を通してある。
「ヴァルマの方も準備完了というわけか。流石、仕事が早いじゃないか」
僕はニヤリと笑ってそういった。確かに、今の状況は少しばかり想定外だ。しかし、僕の心の中にはほとんど不安がない、なぜならば、ヴァルマがいるからだ。なにしろアイツは天性の戦上手だ。このような状況ではこれほど頼りになる女もなかなかいない。彼女とソニアが味方に居る以上、敗北の心配などはする必要がないのだった。
「エルフ隊は?」
「わたしの方で出撃命令を出しておきました」
「大変結構!」
作戦は順調に推移している。僕は大きく息を吸い、そして吐き出した。この作戦の主役は、ヴァルマ隊とエルフ隊だった。強大な選帝侯軍に対し、決定打を与えられるのはこの二者のみ。僕の役割は彼女らの支援だ。オトリになって敵を誘引し、防御を固めて時間を稼ぐ。その隙に、エルフ隊とヴァルマ隊の連携攻撃で敵の中枢をバッサリ。そういう作戦である。
主力を攻撃に専念させるぶん、こちらの戦いはたいへんに厳しいものになるだろう。戦線を整理し、防御を固める必要がある。場合によっては、僕自身ひさしぶりに実戦で剣を振るう機会があるかもしれないな。そう思うと、なんともいえないほの暗い昂揚が脳髄を駆け巡った。やはり、後方にふんぞり返って指揮に専念、などというのは僕の趣味ではない。
「城伯様、ゼラ様より連絡です。どうやら、右翼の敵部隊を率いているのはアレクシア先帝陛下のようです。前線で剣を振るっているのを見た、という報告がいくつも上がっているそうで……」
「なに?」
通信兵の言葉に、僕は眉を跳ね上げた。何やってんだあの人。自分の立場わかってるのか? ……わかってたら覆面被って傭兵団作って地域紛争に介入とかしないわな。クソッタレめ、どこの世界に自ら一番槍を務める皇族がいるんだ。なんやねんアイツホンマ……。
思わずゲンナリするが、よく考えればリースベン戦争でもこうして彼女に悩まされたものだった。敵に回すと本当に厄介な手合いだな。まあ、たぶん味方になったらなったで頭を悩まされる羽目になりそうだが。そんなんだから微妙に人望がないんだよアンタ。
「流石はアレクシア、行動力だけは尊敬できますね。まあ、真似をしようとは微塵も思いませんが」
呆れと感嘆が半々、といった表情でソニアが肩をすくめる。僕もため息をつきたい心地になっていた。ヴァルマとは別の意味であの人も問題児だな。いや、根っこは似たようなものかもしれないが。
まあ、何はともあれ嫌な報告には違いあるまい。ヴァルマと同じく、アーちゃんは破天荒かつ厄介なタイプの指揮官だ。それが突破部隊の陣頭指揮をやっているのだから、敵の衝力はこちらの想定以上かもしれない。ゼラだけにこの厄介極まりない仕事を任せるのは申し訳ないな。
「ジョゼット! すまないが、ゼラの手助けを頼む。護衛はソニアがいれば十分だ」
「はいよ」
僕は自身の護衛部隊をゼラへの援護に投入することにした。最近は近侍隊などと呼ばれるようになったこの部隊は幼馴染の騎士たちで構成されており、僕にとっては最後の切り札のようなものだった。彼女たちであれば、アーちゃん率いるクロウン傭兵団にも対抗できるだろう。
「じゃっ、ソニア。こっちは任せた。アル様になんかあったら承知しないからね」
「無論だ。そちらも頑張ってこい。あのような発情猫にアル様を奪われるわけにはいかん、しっかり首級を取ってくるんだぞ」
「ムチャ言うねぇ」
物騒な軽口を交わす幼馴染二人を見ながら、僕は苦笑した。ソニアとジョゼットは拳を軽くぶつけ合い、背中を叩き合う。そのまま、ジョゼットは部下たちを率いて指揮本部から出ていった。その姿を見送ってから、小さく深呼吸をする。さあて、これからが正念場だ。アーちゃんが僕を倒すのが早いか、ヴァルマがエムズハーフェン選帝侯を倒すのが早いかの競争だな。せいぜいヴァルマの足を引っ張らぬよう頑張るとするか……。