第489話 カワウソ選帝侯の苦悩(1)
私、ツェツィーリエ・フォン・エムズハーフェンは心の中で頭を抱えていた。しんどい。あまりにもしんどい。何がしんどいかと言えば、もちろん戦争がしんどい。あー、うー、辛い。私はリッペ市近隣に設けた指揮本部で、椅子に座りながら密かに胃のあたりを押さえていた。胃薬は飲んでいるが、まったく効果がない。胃の腑に穴でも開いたのではないかという痛みが延々と私を苛み続けている。
同席している参謀たちも、暗澹たる表情で地図上に並べられた駒を弄っていた。わが軍はリッペ市を占拠した不遜なるリースベン軍(と木っ端のような騎士集団)を包囲し、圧力を加えている。両者の戦力差は圧倒的だ。盤面だけ見れば、勝利は確実のように思える。
が、今の状況でそんな判断を下せるのは、新米将校かあるいは将才に欠ける愚物だけだろう。敵軍への救援が間に合ってしまえば、数的に不利なわが方の壊滅は避けられない。むろん、罠と承知で踏み込んだ作戦だ。素早くブロンダン卿率いるリースベン軍を殲滅し、その身柄を手土産に敵へ講和を迫ればこちらの勝利だ。
だがそんな勝利への道筋も、今や幻と化しつつある。リースベン軍の抵抗が頑強すぎるからだった。彼女ら(彼らというべきか?)は予想外の速度でリッペ市を攻略し、その防御陣地を流用する形で防戦を始めてしまった。これがケチのつきはじめだ。以降、私の作戦は狂いっぱなしになっている。
「第二特務魔術小隊が全滅しました」
「第一に続き第二もか!」
部下からもたらされた報告が、私の気分をさらに暗くさせる。私は敵軍を疲弊させるべく、夜を徹した妨害攻撃を継続していた。我が宮廷に仕える腕利きの魔術師たちで編成された特務魔術小隊も、その一環として戦場に投入していたわけだが……結果は悲惨だ。
明け方の攻勢に投入した最精鋭の第一小隊は敵銃兵の猛射撃を浴びて全滅。すこしばかり冒険しすぎたかと思い手堅い布陣で仕掛けた嫌がらせ攻撃でもこの始末。私の胃は更なる痛みを訴え始めた。たぶん近々血反吐を吐き始めると思う。というかすでに吐きそう。オェッ。
「第二小隊は歩兵に防護させて運用しろと厳命したはずだ! 何をやっている!」
「もちろん、ご命令通りの布陣で運用いたしました。しかしながら、敵軍は数百メートルの間合いでも魔術師を狙い撃てる鉄砲を有しているようでして……」
「ふざけるなよ!」
私は指揮卓をブッ叩いた。いや、正直に言えばそのような乱暴な態度を取れるような元気は既に私の中から消え失せているのだが。しかし、部下の手前強気な態度は崩せない。ウチの家臣どもはやたらと果敢なタチの者ばかりで、弱気な態度は見せられないのだった。本音を言えば、全部投げ出して屋敷に帰りたい。布団をかぶって何もかもを投げ出したい。でも、それはできない。なぜなら私はエムズハーフェン選帝侯だから。あああ!!
というかなんなの有効射程数百メートルの鉄砲って! "ライフル"は強力な兵器だが弾込めに時間がかかりすぎて実用的ではない、というのが常識じゃなかったの!? なんで普通の火縄銃くらいの速度で装填できる鉄砲を量産してるのよ! なんかおかしいでしょ! ズルい! エムズハーフェン家はクロスボウ職人ギルドとの付き合いのせいで従来型の鉄砲の導入すら難儀してるのに! んもおおおお!!
「ええい、男の分際で小癪な!」
「我が侯、選帝侯閣下! やはり、このような消極的な攻撃では被害が増すばかりですぞ! 一気呵成な大攻勢を! 勝利をもぎ取るにはそれしかありませぬ!」
こちらの気分なぞまったく気にしていない様子の家臣どもが、そのような言葉を放つ。私は頭がクラクラしてきた。このウスラトンカチども、何が大攻勢だ! 貴様らの案を採用して港に強行上陸しようとしたら、訳の分からん水中爆弾で虎の子の軍船がいくつも沈んだじゃないか! あれ一隻作るのに銀貨が何枚いると思ってるんだよ!
水中に爆弾を仕掛けられるんだから、地中にも爆弾を仕掛けられるに違いない。実際、アレクシア先帝陛下によれば、ブロンダン卿はリースベン戦争において地中爆弾を使った作戦を展開したという話だ。しかも鷲獅子隊の偵察によれば、ブロンダン卿は陣地の内側の地面を掘り返しているようだ。間違いなく、地中爆弾の設置を進めているのだろう。強引にあの塹壕線を突破し、内側に部隊を突入させたら……間違いなくドカン! だ。
だからこそ、丁寧に攻めていく必要がある。相手の対処能力を飽和させ、安全そうな場所からゆっくりと崩していくのだ。敵軍の救援が間に合ったら何もかもお終いだが、だからと言って焦ってはいけない。無理な力攻めはブロンダン卿の思うつぼだ。
「待て待て、焦るな。確かにブロンダン卿は男だが、百戦百勝の名将でもある。無思慮な攻撃は却って敵軍を利するだけだ」
我が家臣どもはどいつもこいつも脳筋で、口を開けばとにかく攻撃! としか言わない。私は顔が引きつらぬように気を付けながら、彼女らをいさめた。戦いが始まってから、この手のやり取りは両手の指を使っても数え切れぬほど繰り返されている。コイツらには学習能力というものがないのか?
「選帝侯の言う通りだ。アルベールの用兵は鋭いぞ、隙を見せれば逆襲を喰らう」
私の隣に座っていた女が、偉そうな口調でそんなことをのたまった。全身黒甲冑の、怪しいクソデカ女。アレクシア・フォン・リヒトホーフェン先帝陛下だ。うるせぇお前は黙ってろ! 私はそう叫びそうになって、ギリギリのところで堪えた。こんなんでも一応主君……のようなナニカだ。流石に怒鳴りつけるのはマズい。
しかし、堪えた分の不満は確実に私の心と胃の腑を苛んだ。なにしろ、家臣共がやたらと果敢になっているのは、コイツが原因でもあるのだ。もっとも、それは歴史的な経緯も関係しているので、アレクシアばかりが悪いわけでもないのだが……。
我がエムズハーフェン家は家臣も含めて多くがカワウソ獣人で構成されている。だが、当家以外の選帝侯家はすべて虎や狼といったいくさ向きの種族なのだ。おかげで当家は昔からカネで成り上がったとか軍は弱兵ばかりだとか、いわれのない陰口ばかりを叩かれている。
むろんそのような風評など無視すればよいのだが、やはり気になるものは仕方ない。そのコンプレックスの裏返しで、当家の者はどいつもこいつも過剰に果敢な発言をする傾向があった。内心その傾向を馬鹿らしいと思っている私ですら弱気な発言は口にできない立場に置かれているのだからたまらない。ほとんど自縄自縛といっていい有様だ。
本音を言えば、ブロンダン卿にカネでも払って退去してもらうのが一番損失が少ない気がする。確かにそれをやると当家のメンツはズタボロになるが、実際に痛い目を見るよりはよほど良い。別に、あの男はエムズハーフェン領の占領など目指してはいないようだし。だが、臣下共がこの調子ではそのような選択肢は選べない。ああ、嫌だ嫌だ。ウチは交易で食っている家なのに、なぜ家臣共は皆揃ってソロバンも弾けない阿呆どもばかりなのか。
「……陛下もこうおっしゃっている。とにかく、今は耐えろ」
アレクシアをぶん殴ってやりたい気持ちを抑え込みつつ、私は絞り出すような声でそう言った。そういうコンプレックスを持ったエムズハーフェン家臣団だから、当然獅子獣人一家のリヒトホーフェン家にも対抗意識を抱いている。コイツがこの場に居るからこそ、我が家臣たちは無駄に好戦的になっているのだった。正直どっか他所に行ってほしい。
そもそも、コイツが連れてきた戦力は僅か騎兵一個中隊。無意味とは言わないが、総勢一万名を動員可能なわが軍から見ればなんとも心もとない戦力だ。これっぽっちの部隊しか派遣していない分際で偉そうにするのは本当にやめてほしい。主君の名目を保つための最低限の援軍だとでも思っているのかもしれないが、一個中隊ではその最低限にすら達していないと思う。
リースベン軍に参加しているスオラハティ家を見ろ! 北の果てのノール辺境領から、一個大隊もの戦力を派遣しているぞ! しかも、超がつくほど有能でしっかりと命令にも従う指揮官付きでだ! 私が直接指図できない者を指揮官に据えた微妙極まりない戦力を派遣してきたリヒトホーフェン家とは大違いだ。
「耐えろ耐えろと我が侯はおっしゃいますが、いつまで耐えれば良いのです!」
「市民軍の準備が整うまで待てっつってんだろ!! 何回言わせるんだこのクソボケ!」
と私は叫びそうになったがこれまたギリギリのところでこらえた。代わりに、「三日か四日で市民軍が動き出す。それまでだ……!」となんとか余裕を装った声で返す。リッペ市内にはわが軍の工作員が潜入しており、市民らに蹶起を呼び掛けている。あと三日もすれば十分な兵力が集まり、武器の配布なども終わる予定だった。わが軍が本格的な攻勢を仕掛けるのはそれからだ。
とにかく、リースベン軍を打ち破るには二個連隊ちょっとの兵力では厳しい。市民らを蹶起させ、リッペ市の内側と外側から当時攻撃を仕掛けるのだ。これにより敵軍の対処能力はパンクし、最低限の犠牲で勝利を得られる。そのはずだ。
最低限の犠牲。そう、最低限の犠牲だ。こんな戦争は当家にはなんの益ももたらさない。だからさっさと足抜けするのが正しいのだ。にもかかわらず現状の我らは魔術師部隊を失い、軍船も失った。そのどちらも作り上げるのに大変なコストのかかる重要な財産だ。このようにバカスカ失って良いものではない。すでに損切りのタイミングは過ぎてしまっている。しかしそれでも、これ以上の損失は避けねばならない。
「そのような悠長なことをしていたら、敵の救援が到着してしまいますぞ! 多少の犠牲は致し方なし! 一心不乱の大攻勢こそが状況を改善する唯一の方策に違いありませぬ!」
唾を飛ばしながら家臣の一人が熱弁した。他の家臣共もそれに同調する。どいつもこいつも頭が熱病に犯されている。冷やすために川に沈めてやりたい。んぐぐぐぐ。貴様らの主張に抗しきれず実施した夜明け前の大攻勢は、とんでもない被害を出して頓挫してしまったじゃないか! 同じようなことをもう一度繰り返したら、今度こそ致命傷を負ってしまうぞ!
そもそも、市民軍の行動を待たずに攻勢を始めてしまうと街中に居るらしき敵のエルフ隊がフリーハンドになってしまう。それはマズイ。大変にマズイ。あいつらは頭おかしいくらい強いからな。我が自慢の艦隊がああもズタボロにやられてしまうとは思わなかった。なんで森の民が水上戦闘でカワウソ獣人に勝ってるんだよ、なんかおかしいでしょあいつら。
ああ、もう。本当に嫌になる。狂ったように強い蛮族。訳の分からない新兵器群。おまけにこちらの策を見透かして逆に罠を仕掛けてくる有能極まりない指揮官。最悪の組み合わせだ。なんでこんなのと戦わなくちゃいけないの? 私。本当にふざけないでほしいんだけど。割と真面目に泣きそう。あと血反吐吐きそう。おなかいたい。うぇぇ……。




