第484話 くっころ男騎士と望まぬ再会
敵軍が我々の眼前に現れたのは、薄暮の頃のことだった。すっかり地平線の下へと隠れた太陽の残光で微かに浮かび上がった敵の陣容は、報告で受けた以上の大軍に見える。士官たちが命令を下す声、兵士たちのざわめき、馬のいななきなどが、夜風に乗ってこちらの陣地にまで届いてきていた。戦いが始まる直前の張り詰めた弓のような雰囲気が、否が応でも緊張感を高めていく。
ところが、敵はリッペ市から二~三キロほど離れた街道上に布陣したまま、なかなか攻撃を仕掛けてこなかった。両軍にらみ合いの構図のまま、時間ばかりが過ぎていく。正直言ってかなり焦れた気分になるが、こちらは守勢側である以上どうしようもない。攻撃をいつ開始するかというのは、攻勢側が決めることなのだ。
いやまあ、騎兵などを使えば、こちらから先制攻撃というのも不可能ではないがね。とはいえ、そんなことをしても大した意味はない。なにしろ敵はこちらの三倍近い戦力を有しているのだ。これに対し防御陣地を捨てて夜戦を挑むほど僕は蛮勇ではない。
「城伯殿、敵軍より軍使が参りました」
とにもかくにも、"待つ"というのは兵隊の最も基本的な仕事の一つである。ヒリつく精神をなだめながら戦闘計画の再確認をしていた僕の元に、通信兵がそんな報告を上げてきた。この世界の戦争において、戦端を開く直前に相手へ軍使を送るというのはよくあることだ。特に驚きもせず、僕は頷いた。
「ン、わかった。会いに行こう。軍使殿はどちらに?」
「塹壕の前線指揮所で待機してもらっています」
軍使とはいえ、敵には違いあるまい。指揮本部にまで連れてくるのは避けた方がいいだろうな。塹壕線の内側では、いろいろ仕込み作業もやってるし。余計な情報までお持ち帰りされたら困る。そこまで考えて、僕は椅子から立ち上がって言った。
「ここまで御足労願うのも申し訳ない、僕の方から会いに行こう」
そういうことで、僕は後方(とはいっても街の防壁の外側ではあるが)の指揮本部から、塹壕線の中に築かれた前線指揮所へと移動した。我々が指揮本部を構えているのは防壁の壁際だが、ここから塹壕戦までは五百メートルほどの距離がある。直線距離としては大して離れていないのだが、前線と指揮本部の間の連絡道は爆風対策のためにジグザグに掘られていた。なんとも煩わしいが、これを怠ると塹壕の防御力は劇的に低下してしまう。致し方のないことだった。
「軍使殿、お待たせし……げぇ!」
そうして前線指揮所にやってきた僕は、軍使の姿を見たとたんに紳士らしからぬ声を上げてしまった。なにしろ軍使殿は、ひどく特徴的な風体をしていた。闇夜に溶け込むような漆黒の甲冑に、同色の兜。フルフェイスの面頬のせいでその顔はうかがえないが、周囲の兵士や騎士たちと比べても明らかに頭一つ以上背が高い。……このような怪しい風体の人物に、僕は見覚えがあった。
「やあ、久しぶりだなアルベール! 壮健そうでなによりだ!」
僕の発言はかなり失礼だったが、黒騎士殿は気にした様子もなく椅子から立ち上がり両手を広げてフレンドリーな言葉をかけてきた。その声にもまた、聞き覚えがある。ちょうど一年前のリースベン戦争の時に、我々と矛を交えた傭兵団の団長クロウンだ。そしてそのクロウンというのは、世を憚る仮の姿。その正体は、神聖オルト帝国の先代皇帝アレクシア・フォン・リヒトホーフェン陛下である。
よくよく見れば、彼女の傍に侍っている甲冑姿の騎士たちの中にも、なんだか見覚えのある者たちが混ざっている。こいつらもまた、クロウン傭兵団の一員だった連中だ。もちろん先代皇帝に仕えているだけあって、単なる傭兵などではない。我が国の近衛に勝るとも劣らない手練れの護衛騎士たちだ。
これは予想外だ。だいぶ予想外だ。なんで先帝陛下がこんなところに居るんだよ。ツッコミを入れたい心地になったが、よく考えればこの人と出会ったのは今回の戦争よりもはるかにショボい辺境領主同士の地域紛争の時である。その尋常ならざる軽さのフットワークを思えば、どこに現れたところで不思議なことは何もない。
とはいえ、よもやよもやの邂逅である。僕がゲンナリしていると、事情を察したソニアが無言で僕を守るように前に出た。アレクシア……もとい、アーちゃんには僕を手籠めにしようとした前科がある。僕の守護者を自認するソニアにとっては宿敵のような手合いだ。でもこの守護者僕を盗撮してたんだよなぁ……。
「ど、どうも……その恰好をしているってことは、クロウン殿とお呼びしたほうがよろしいので?」
クロウン傭兵団がこの戦いに参戦したとなると、だいぶ厄介なことになってきたぞ。この傭兵団は大国の先代皇帝肝入りの組織だけあって全体的な練度は極めて高いし、その上たった一人で戦術級魔法をぶっ放すチートな男魔術師ニコラウスくんも在籍している。彼の魔法は重砲なみの威力があり、ちょっとした塹壕などは一瞬で消し飛ばしてしまう。この盤面で一番遭遇したくない相手の一人があの男魔術師なのだが……。
「アーちゃんでいいぞ。エムズハーフェン選帝侯にはもう正体はバレているしな」
バレてんのかよ。……いや、バレて当然か。相手は選帝侯だし、当然先代皇帝とも面識はあるだろう。甲冑を着込んだくらいで正体を隠せるはずがない。じゃあなんでそんな怪しげな格好のままなんだよ。今日日黒騎士なんか流行らないぞ。最近の流行は精緻な彫金を施した豪奢な甲冑だ。
「お知り合いで?」
指揮所の端っこで煙草を吸っていたペルグラン氏が、片方の眉を上げながら聞いてきた。彼女はこの指揮所のトップなのだ。煮ても焼いても食えない騎士隊の代表者などを任されているだけあって、彼女の指揮能力はそれなりに高い。有能な士官を遊ばせている余裕はないので、半ば強引に前線指揮官のポストを与えていた。
「ああ、お"尻"あいだね」
くすくすと笑いながら、アーちゃんはそう答える。尻、という風に聞こえたのは勘違いではないだろう。僕は以前彼女の尻を公衆の面前でブッ叩いた前科がある。そのせいで獅子獣人の発情スイッチを押してしまい、大変なことになってしまった。思い出したくない過去である。
「あ、そう。お顔の広い事で……」
ペルグラン氏も、この怪しい黒騎士が只者ではないことに気付いているのだろう。肩をすくめながら、皮肉げな声音でそう言った。
「で……アーちゃん。今回は、一体どういうご要件で?」
ソニアを抑え、アーちゃんの前に歩み寄りながら僕は聞いた。そして、周囲に聞こえないような小さな声で彼女に囁きかける。
「手打ちとか八百長のお誘いなら、一考の余地ありですが」
別に、僕だって好き好んでエムズハーフェン軍と殴り合っているわけではない。王家に尻を叩かれて仕方なく進軍し、その先にいたエムズハーフェン選帝侯とこれまた仕方なく干戈を交えているだけだ。適当なところで手打ちにできるのならば、こんな有難いことはない。
「残念ながらそれはムリだ」
ところが、アーちゃんから返ってきた答えはなんとも厳しいものだった。
「エムズハーフェン選帝侯にも立場というものがある。街一つを奪われ、自慢の艦隊をも傷つけられたのだ。何もせず矛を収めることはできない」
「ああ……」
僕は深いため息をついた。ま、そりゃそうだよね。貴族にとってメンツは何よりも大切なものの一つだ。一発殴られた以上、そう簡単に引き下がるわけにはいかない。今さらなぁなぁにしようとしてもそうはいかないなどというのは、考えるまでもなく当然のことだ……やっぱり、攻め込む前に八百長の申し込みとかしておいた方が良かったのかな? でも、そんな工作があの政治将校モドキに露見したら大事になるしなぁ……。
「まあ、そういう訳で、こちらは退く気などさらさらない。今回我がやってきたのも、降伏勧告のためだ。一応聞いておくが、降伏に応じる気はあるかね? その場合、寛大な措置を約束すると選帝侯は言っていたが」
こちらの答えなどわかり切っているのだろう。大変にやる気のなさそうな声でアーちゃんは言った。
「クソくらえ! とお応えしておこう」
僕の返答は端的だった。なにしろこちらは負ける気などさらさらない。降伏などあり得ないことだ。アーちゃんのほうもこれは予想済みだったようで、ニヤッと笑って頷いてくれた。戦闘前の降伏勧告はいわば儀式のようなものだ。本当に受諾する者など、そうはいない。
まあ、ここまでは予定調和のようなもの。本題はこれからだ。こんなわかり切ったやり取りをするために、先帝陛下がわざわざ前線にやってくるはずもない。たぶん、それなりの用事があるのだろう。アーちゃんはかなりアレな女だが、だからこそ厄介な手合いなのである。正直、彼女の酔狂には付き合いたくないのだが……さあて、困ったぞ。




