第457話 老狼騎士と退路
森でクソ蛮族に襲われた我々だったが、なんとか逃げ延びることに成功した。むろん、無傷というわけにはいかなかったが。護衛はもちろんほぼ全滅、あたし自身も軽い火傷と打撲を負った。
だが、命があっただけ上等というものだろう。エルフどもは練度も倫理観も狂っていた。彼女らは森を焼け野原にする勢いで放火をしつつ、我々をさんざんに我々を追い回しまくった。猟犬に追われるノウサギになった気分だった。
それでもなんとかあたしたちが生き延びることが出来たのは護衛たちの献身と、こんなこともあろうかと近隣に待機させてあった味方部隊の救援が間に合った結果だった。はっきり言って、運が物凄く良かっただけだ。一歩間違えれば、あたしはあの森の中に転がる首無し死体のひとつになっていただろう。
「はぁ、はぁ……くそ、あのクソボケ蛮族どもが……めちゃくちゃやりやがって……」
指揮本部のあった丘まで戻ってきて、やっとあたしは一息ついた。……その肝心の指揮本部は、敵の砲撃を浴びて爆発四散し、跡形もなくなっていたが。もっとも、被害はそれほど大したことはない。砲撃が始まった段階で、人員の避難を始めていたおかげだ。こればかりは不幸中の幸いといっていいね。
「ヴァルマ・スオラハティといい、フェザリア・オルファンといい、ブロンダン卿の部下には悪魔みたいな女しかいないのか! 悪魔使いか何かかあいつは!」
顔を煤まみれにしたジークルーン伯爵が叫んだ。ただでさえズタボロな姿だったのに、これではもはや落ち武者を通り越してゾンビ一歩手前だ。
「まったくだ。とんでもない相手に喧嘩を売っちまったもんだね、あたしらは」
「喧嘩を売ったのはあんただけだろうが!」
「参戦してる時点であんたも同じようなもんさ。ま、一緒に地獄に落ちようや、若いの」
「クソババアが……」
青筋を立てながらそう吐き捨てるジークルーン伯爵は当初のお高く留まった姿よりもはるかに親しみやすい。最初からこうならもうちょっと仲良くやれたかもしれんね。
「で、どうするんだ、ババア。もう一回白旗もってノコノコ前線に出るのか」
「……どうしたもんかね」
あたしは額を押さえながら唸った。今こうして五体満足で生きていられるのは、本当に奇跡のような幸運あってのことだ。それに、腕の良い騎士はもうあらかた戦死してしまった。こんな状態でもう一度あのエルフどもに捕まったら、今度こそ殺されてしまうだろう。
「いっそ騎士らしく最後まで抗ってみるかい? 勝つのはまあ無理だろうが、せめて気分よく死ねるかもしれん」
「冗談じゃない」
死ぬほど渋い表情で、ジークルーン伯爵はあたしの提案を一刀両断した。
「男を一人も抱かないまま死ねるものか。泥を啜ってでも生き延びてやる」
「なんだいあんた、生娘かい。初陣の前に淫売でも抱いておけばよかったものを」
「馬鹿言え、許嫁が居る身でそんなことができるか」
「許嫁がいるのに処女なのか……」
見た目に寄らず奥手だねぇ、この子は。あたしがこの小娘くらいの時分は、もう何人もガキをこさえてたもんだが。
「クソ田舎の山賊あがりは知らんだろうが……婚前交渉なんて破廉恥な真似はせんのだよ、今日日の貴族はな!」
「ハハハ……そりゃすまないね。見てのとおり育ちが悪いもんで」
笑い飛ばしてから、あたしはため息をついた。さあて、本当にどうしようか。あたしたちがワチャワチャやっているうちに、前線はすっかり壊乱状態になっていた。指揮統制は完全に失われ、兵たちは三々五々に逃げ惑っている。こうなったらもう軍組織としてはお終いで、一方的に掃討されるだけの存在だ。
せめて秩序を回復できれば良いのだが、それもできない。あいかわらず空では鳥人兵が跋扈していて、伝令を出してもあっという間に捕捉されて集中攻撃を浴びてしまう。どれほど優れた軍隊であっても、連絡手段を失ってしまえばもうどうしようもない。
実際、この鳥人兵は非常に厄介な存在で、あたし自身エルフから逃げ回っている最中に一度攻撃を受けている。勘付くのが少しでも遅かったら、あの鋭いカギ爪によってあたしの首は宙を舞っていただろう。鷲獅子が居れば容易に駆逐できる程度の存在だと油断した少し前の自分を呪いたいきぶんだった。
「……こいつはもう、どうしようもない。手近な敗残兵をまとめて、撤退するほか……」
そこまで言ったところで、血相を変えた兵士がこちらに走ってくるのが見えた。……ああ、こりゃ、またロクでもない報告が来たみたいだね。この一度の会戦だけで、何回クソ報告を聞かなきゃならないんだろうね、あたしは。
「大変です!」
「ああ、大変だろうね。もう戦場全体大変さ。で、どうした? そんなに慌てて。化け物でも出たのか」
「はい、その通りです!」
その言葉を聞いたジークルーン伯爵がむせた。あたしも思わずひっくり返りそうになる。
「わが軍の背後にヴァルマ・スオラハティの軍勢とカマキリの化け物が現れ、ミューリア市へ向かう街道を脅かしているようです。現場の部隊がなんとか迎撃を試みておりますが、なにぶん後方ですので戦闘任務がこなせる連中はほとんど不在で……」
「退路まで断ちに来たのかい! ご丁寧なことだねぇ、マメすぎる男は嫌われるよ!」
あたしは思わず叫んだ。最悪だ最悪だと思っていたが、なおも戦況が悪化するとは。ここまで来たら一周まわって喜劇だよ。なんだい、門前のエルフ門後のヴァルマって。死ぬほどタチの悪い悪夢か何かかい?
「なんだカマキリの化け物とは。私がヴァルマと交戦した時は、そのようなモノは影も形もなかったぞ。恐怖のあまり厳格でも見たのではないか?」
冷や汗をかきながら、ジークルーン伯爵が言う。しかしあたしには、そのカマキリの化け物とやらに覚えがあった。
「……いや、そいつは厳格じゃあない。ブロンダン卿の部下のカマキリ虫人さ。鹿を頭からバリバリ食ってるところを目の前で見せられたからね。よーく覚えてるさ」
それを聞いたジークルーン伯爵は、深い深いため息をついた。
「どうやら、ブロンダン卿は本物の悪魔使いらしい。聖者ならざる我々が勝てぬのは当然のことだったようだな」
「……かもね」
あたしは気付け薬を飲みたい気分になっていたが、とっておきのポーションはもうジークルーンの小娘にくれてやっていた。仕方がないので、懐から取り出した葉巻を口にくわえる。しかし、いつもあたしの煙草に火をつけてくれる副官はもういない。エルフの引き起こした大規模森林火災に巻き込まれ、焼け死んだ。……もう、しばらく火は見たくもない気分だね。嬉々として森に火を放つ連中が森の民を名乗るんじゃないよ、まったく!
「なんにせよ、いよいよ詰みってことだね。くそ、マルガの望みは果たせそうにないな」
吸う気の失せた葉巻を地面に投げ捨て、それを踏み潰す。ここまでくれば、もう腹は決まっていた。あたしは軍人だ。最後まで出来るだけのことをしよう。
「ジークルーン、あんたにうちの兵士共を預ける。秘密の迂回路を教えてやるから、それを使って逃げ延びろ」
「……ほぉ? 私だけ逃げろと。貴様はどうする気だ」
ジークルーンは眉を跳ね上げた。
「ヴァルマに陽動を仕掛ける。秘密の迂回路たって、空が抑えられている状態じゃあどれほど安全かわかったもんじゃない。目くらましは必要だろうさ」
「いけません、御屋形様!」
手元に残った数少ない騎士の一人が、血相を変えて叫んだ。
「そのような役割は我らにお任せを! 御屋形様こそ、お逃げください」
「悪いが、駄目だ。……実はね、足がもうだいぶダメなんだ。エルフどもに追い掛け回されて、少しばかり酷使しすぎた。まだまだ若いつもりだったけど、寄る年波には勝てないみたいでねぇ……こんな足腰で逃避行に参加したら、文字通りの足手まといになっちまう」
実際、あたしはもう体力的には限界だった。ここからミューリア市までは十キロとないが……踏破するのは、難しい。馬になんか乗ってたら、鳥人兵から集中攻撃を浴びるだろうしね。
「若造、あんたは生きて領地に戻りな。そして、出迎えた婚約者をベッドに押し倒すんだ。処女のまま死ぬなんて冗談じゃない、そうだろ?」
あたしの言葉を、ジークルーン伯爵は黙然と受け止めた。しばしの沈黙の後、彼女は顔を赤くしてギリリと歯を鳴らす。
「舐めるな、クソババア。私は誇り高きジークルーン家の当主だ! 足腰の立たぬババアを囮に逃げ延びたりすれば、末代の恥になるわ!」
そう言うなり、彼女は力いっぱいあたしの顔面をブン殴った。突然のことにあたしは対応できず、その一撃をモロに喰らう。もんどりうって倒れるあたしを指さし、叫んだ。
「いい気味だ、クソババア! 年寄りだからって偉そうにしやがって、むかついてたんだよ! ……おい、ミュリン伯爵がご負傷だ! さっさと後送して差し上げろ!」
「な、なにをするんだい、アンタ……」
呻きながら立ち上がろうとするが、どうにもならない。この一撃でとうとうあたしの体力は限界を迎えてしまったようで。出来損ないのイモムシのように地面を転がるのが精一杯だった。
「うるさい! 足手まといはさっさと失せろ!」
「申し訳ありません、ジークルーン伯爵……!」
護衛騎士はジークルーンに一礼し、強引にあたしの身体を抱え上げた。あたしは抵抗しようとしたが、無意味だった。それを見たジークルーンは、ニヤリと笑って踵を返す。
「ヴァルマ・スオラハティ! カマキリ虫人! 何するものぞ! まとめて叩き殺してミューリア市に凱旋してやるから、期待して待っているんだな! 老いぼれ!」