第455話 老狼騎士の葛藤
ひどい夢を見ているようだ。あたし、イルメンガルド・フォン・ミュリンはため息をついた。何もかも捨て去ってふて寝をしたい気分だった。そうすれば、目覚めた時にはこの悪夢が幻のように消え去っているかもしれない。……現実逃避だな。頭領がこんなことを考えるようになったら、何もかも終わりだ。せめて、死ぬ時まではシャッキリしておかないといけない。
「中央軍はもう駄目だな……」
戦場を横切る小川の、北岸。そこに広がる麦畑では、わが軍による最後の抵抗が行われていた。ミュリン軍を主力とした諸侯軍は総力を結成して戦列を作り、渡河してきた敵部隊に攻撃を仕掛けている。
いや、攻撃を仕掛けていた、という方が正しいだろう。なにしろ攻守はとっくに入れ替わっている。敵は痴女みたいな格好のアリ虫人部隊とディーゼル軍を中核に、その左右を銃兵で固めるという陣形で我々に対抗した。……相手に陣形を構築させる余裕を与えている時点で、水際防御としちゃ失格だろうがね。
とにかく、敵軍はとんでもなく強力だった。まず、我々の部隊は敵の大砲と小銃による猛烈な射撃を浴びた。ただ前に進むだけで、百名単位の死傷者が出るのだからたまったものではない。反撃したいところだったが、それもできない。なにしろ相手の"ライフル"とやらは、長弓よりも射程が長いのだ。わが軍の弩や短弓では対抗すら不可能だった。
そんな状況でも、わが軍は奮戦した。損害を度外視して全身を続け、なんとか敵の主力と接触。交戦を開始する。あたしはそれを見て泣きそうになっていた。彼女らが、ミューリア市を敵の手に渡すまいと奮起しているのが明らかだったからだ。中央軍の主力はミュリン軍だ。故郷を守らんとする彼女らの士気は、他のどの諸侯の軍よりも高かった。
「……ぐっ」
しかし、それほどの覚悟を持った決死の攻撃も、戦局には大した影響を与えなかった。銃火の暴威を乗り越えた先で彼女らを待ち構えていたのは、アリ虫人どもだ。彼女らの組む密集陣形はもはや隊列というより人間でできた城壁で、射撃によって千々に乱れた我々の部隊では突破どころか拮抗状態に持ち込むことすらできない。
黒光りする盾で攻撃を受け止めたアリ虫人どもは、その四本腕を巧みに操り盾と槍を駆使した攻防一体の戦術でミュリン軍を追い詰める。その様子は、さながらレンガの壁に生卵をぶつけたような有様だった。
そうしてズタボロになったミュリン軍へ、さらにディーゼル軍がとどめの一撃を加える。アリ虫人が金床、ディーゼル軍がハンマー。そういう役割分担らしかった。アリやエルフどもと違いこちらは良く見慣れた一般的な装備・練度の軍隊だが、もはや虫の息のミュリン軍には彼女らに抗する力はもはや残されていない。あたしが手塩にかけて育てた軍隊は、ゴミクズのように粉砕されていった。
「ああ……」
あたしは、もう呆けたような声を出すことしかできなかった。せめて、あの連中に混ざって玉砕することができていれば、これほど惨めな心地になることは無かったろうに。実際、あたしはこの攻撃の直前、中央軍の元へ出向いてあたし自ら陣頭指揮を執ろうとしたのだ。だがそれは、先んじて中央軍と合流していた我が長女マルガによって阻止された。
「お袋は引っ込んでな。アタシは政治はできねぇが戦争なら出来る。適材適所という奴だ」
というのが、マルガの主張だった。……もはや、戦局は悪化するばかり。挽回の目がほとんどないことは、マルガとて理解しているのだろう。戦後を見据えれば、己よりもあたしが生き残った方がいいと、そう判断したらしい。
……結局、あたしは娘の言葉に従いすごすごと指揮本部へ戻ってきてしまった。なんと情けのない母親だろうか。あたしの胸の中は後悔でいっぱいだった。やるべきことをすべて終わらせたら、マルガの後を追おう。そう考えていた。
「……左翼や右翼の状況はどうなってるんだ」
胸の奥からこみあげてくる苦い感触をぐいと飲みこんでから、あたしは参謀にそう聞いた。しかし彼女は首を左右に振るばかりだ。
「わかりません。派遣した伝令が軒並み行方不明になっておりまして……何も情報が入ってこないのです」
「くそ、鳥人か……」
敵の鳥人兵が指揮官や伝令を集中攻撃しているという話はすでに耳に入っていた。悪辣で効果的な戦術だ。力押しだけではなく、こうした搦め手も使ってくるのがブロンダン卿の恐ろしい所だった。
むろん、あたしとしてもこの状況を座視はしなかった。地上で休憩していた鷲獅子騎兵どもを全員空に上げ、鳥人どもを駆逐しようとする。こちらに鳥人はいないが、鷲獅子の数では敵の翼竜の数をはるかに上回っている。この数の優位を生かして翼竜を集中攻撃し、しかる後に鳥人を叩き落す。そういう作戦だった。
だが、結局それはうまくいかなかった。相手より兵力で勝っていても、それを逐次投入すれば各個撃破されるだけ。どんな軍学の教本にも書かれている基本的な原則だ。あたしはその愚を犯してしまった。結局、空の優位を奪い返すことはかなわず、今も我らの頭上では翼竜が我が物顔で旋回している。上空からこちらの様子を偵察しているのだろうが、何とも腹立たしい話だ。
「この状況で優勢を奪い返すのはほぼ不可能です。一度撤退し、態勢を立て直すべきかと」
「こんな混沌とした状態で撤退を命じてみろ、総崩れになるだけだ!」
「そもそも、伝令が集中攻撃を受けている状態で、どうやって撤退命令を通達するかという問題が……」
参謀陣もすっかり混乱気味で、さきほどからずっとこんな調子だった。あたしは頭を抱えたい気分になったが、我慢した。指揮官としての最後の見栄だった。
「御屋形様! ジークルーン伯爵閣下がお戻りです!」
そんな中、伝令がやってきてそう報告した。右翼で自軍が窮地に陥っていると聞いた彼女は、少し前に手勢を率いて救援に出陣していた。そんな彼女が大した時間も置かずに指揮本部に戻ってきたということは……。
「……連れてこい」
それから、数分後。従兵に連れられてやってきたジークルーン伯爵は、なんともひどい有様だった。いささか華美に過ぎた甲冑は土埃にまみれ、ところどころ塗装が剥げている。もちろん無事ではないのは甲冑の中身も同じで、骨でも折れたのか三角巾で右腕が吊られていた。その様子を見るに、おそらく彼女は落馬したのだろう。事故で落ちたのか敵兵の手で叩き落されたのかは知らないが、よくもまあ捕虜にもならず生還できたものだ。
「……わが軍はもう駄目だ」
ジークルーン伯爵は憮然とした表情であたしを睨み、そして目をそらしてから吐き捨てるようにそう言った。
「右翼には、悪魔がいた……」
「そんなものは中央にも左翼にも居る」
あたしは端的にそう言って、懐から酒水筒を取り出し、彼女に投げ渡した。中身は北の王国から取り寄せた上等の蒸留酒だ。気付け薬にはちょうどいいし、現地では命の水なんて呼ばれているらしいから傷を塞ぐ効果もあるかもしれない。いわゆるポーションというやつ。
「……んぐんぐ」
彼女は銀色の小さな水筒を睨み、中身を一気に煽った。
「くそっ……精鋭の一個連隊がパァだ。うまい事捕虜になれても身代金だけでうちの身代が食いつぶされてしまいそうだ。どうしろというんだ、この私に……!」
あの慇懃無礼な態度も投げ捨て、彼女は湿った声でそう言った。ため息を吐き、もう一度アクアビットをあおる。
「……おい、婆さん。戦場ってヤツはこうも過酷なものなのか? 二倍の戦力を用意して、局所的には四対一までもちこんだ。それがこうもアッサリ……どうなってるんだ。私が世間知らずなだけで、戦場ではこんなことは日常茶飯事なのか?」
「安心しな。こんなクソ戦場はあたしだって生まれて初めてだよ」
こんな事態が日常茶飯事に発生する戦場など、近寄りたくもない。あたしはふところから葉巻を取り出し、先端を丁寧にカットしてから口にくわえた。すかさず副官がランプから木片に火を移し、葉巻に着火してくれる。煙をふうと吐き出して、あたしは肩をすくめた。
「なんにせよ、コイツが負け戦だってのはもう覆しようがない。さて、どうするね? 伯爵殿」
「……撤退して体勢を立て直す」
「撤退? この状態でか。そいつは潰走とどう違うんだい?」
撤退なんてのは余裕があるときにしかできないもものだ。ギリギリの状態で撤退を始めればあっという間に兵たちからは統制が失われ、無秩序で破滅的な改装が始まる。そうなれば、敵は戦果を拡大し放題だ。
「白旗を上げろと言うのか? お前は」
座った目つきで吐き捨て、ジークルーン伯爵は酒水筒を最後まで飲み干した。
「敵の前衛に居るのは、お前たちミュリンを死ぬほど憎んでいるディーゼル家の連中と、お前の孫に家畜呼ばわりされて怒髪衝天の蛮族どもだぞ。白旗なんかあげてノコノコ前に出てみろ、ブロンダン卿の前にたどり着く前に首だけにされてしまうじゃないのか?」
「……」
言われてみれば、その通り。あたしは地面にタンを吐いた。
「じゃあどうしろってんだよ」
「そんなことは私が聞きたい」
「……」
「……」
あたしとジークルーン伯爵がにらみ合い、剣呑な空気が流れ始めたしゅんかんである。突然近くで爆発音が響き、指揮本部に置かれたあらゆるものが震えた。思わず足元がふらつき、転びかける。すかさず副官が私の肩を掴んだ。
「な、なんだ一体! 状況知らせ!」
そう叫ぶが、周囲のものは混乱するばかり。もう一度大喝しようとしたところへ、見張り兵が駆け込んでくる。
「大変です! 敵砲兵が、本営に向かって発砲を始めました!」
「何ィ!?」
あたしとジークルーン伯爵の顔色が土気色になった。最悪だと思っていた状況が、さらに悪くなった。指揮本部が敵の大砲から直接攻撃を受けている? 冗談じゃない!
「馬鹿な……いったいどこから?」
「川向うからです!」
「川向う!?」
ジークルーン伯爵が叫んだ。
「ふざけるな! そんな長距離から砲撃できる大砲があるものか!」
この女は、自身の軍にも積極的に火砲を導入している。だから、あたしよりもよほど火器をもちいた戦闘には詳しい……はずだった。だが、今回の戦いの経過を見るに、この女の知っている火器とリースベン軍の装備している火器ではまるで性能が違うようだ。その辺りの計算違いが、この惨状を招いた一因なのかもしれない。……まあ計算違いがなかったところで、勝てたかどうかと言えば怪しいが。
「ジークルーン伯爵。リースベン軍の銃とやらは、あんたの軍が装備している銃よりも射程が長かったじゃないか。大砲のほうも同じやも知れんぞ」
「……確かに、あの火縄銃は異様な性能だったが。……くそ、私は詐欺師にポンコツを掴まされたのか? いや、そんなはずは……」
「今はそんなことはどうだっていい! 肝心なのは、指揮本部が砲撃を受けてるって部分さ。このままじゃ不味いよ」
あたしは不安そうな面持ちの参謀たちを見回しながら言った。敵の砲撃はどうやら遠くに逸れたらしいが、次も同じように外れるとは限らない。いつ砲弾が突っ込んでくるかわからないような状況では、指揮など執れたものではない。本来であれば、指揮本部を後方へ移すのが常道だろう。だが……
「……」
あたしは無言で、眼下に広がる無惨な合戦場に目をやった。あそこでは、我が長女が命を燃やして戦っている。母親であるこのあたしが、これ以上後退することは認められなかった。……それに、この状態で指揮本部を移したら、将だけ逃げていると味方の兵士が勘違いする可能性もある。そうなったらもうお終いだ。指揮統制は完全に失われ、わが軍はただ貪り食われるだけのいけにえの羊と貸すだろう。
「……白旗を用意しな」
「貴様、私の忠告を聞いていなかったのか!? 白旗など無意味だ。降伏を申し出る前に貴様は殺される!」
「ディーゼルや蛮族どもに捕まったら、そうなるだろうね」
あたしは憤然とそう言った。
「だったら、捕まらなきゃいいだけだ。少人数でコッソリ戦場を抜ければ、生きてブロンダン卿の前に出ていくこともできるだろうさ。あたしゃこれでも狩りは得意でね、隠れ潜むことには一家言あるんだ。年寄りだからって馬鹿にするんじゃないよ」




