第421話 老狼騎士の苦悩
「こ……の馬鹿犬がァ!」
あたし、イルメンガルド・フォン・ミュリンは、半ば本気で孫をブン殴った。老いたりとはいえ、あたしも武人。鍛錬は続けている。顔面に拳をブチこまれたアンネリーエは、子供に投げ捨てられた人形のように吹っ飛んだ。
「……う、あ……な、なにすんだよ、ばあちゃん」
地面に倒れ伏したアンネリーエは、鼻血を垂らしながらそう言った。その哀れな姿を見て、心の奥がチクリと痛む。部下や娘どもには数えきれないほどの鉄拳制裁を課してきたあたしだが、孫に手を上げたのは初めてのことだった。
「何を!? なにをと聞いたか、今!」
だが、それも一瞬のこと。あっという間に、あたしの心は怒り一色に飲み込まれた。
「アンネ、お前自分が今さっきなんて言ったのか覚えてないのか!? エエッ!! 記憶が飛ぶほど荒っぽく殴っちゃいないよ!」
「い、いや、その……」
鼻血を拭いつつ、アンネリーエはもごもごと口ごもった。そしてフラフラと立ち上がり、地面に血の混ざったツバを吐き出す。周囲を固めるあたしの家臣たちが、小声でざわつきながらあたしとアンネリーエを交互に見ている。
ここは、猟場の森のはずれに設営した我々用の天幕の下だ。狩猟会の休憩所として指定されている場所であり、周囲には他家の天幕もたくさんある。視線が入らぬよう布で仕切られているとはいえ、他家の目のあるところで怒鳴るような真似は避けるべきだ。ようやくそんなことに思い至り、あたしは意識して己の怒りを抑え込んだ。
「アンネ。お前はこう言ったな? 『ブロンダン卿が調子に乗っているようだったから、忠告してきてやった』ってさ。あたしの耳が歳のせいでバカになっちまったんじゃないね?」
「あ、ああ……そうだよ。確かにそう言った。なんだよ、気に入らねぇのかよ」
気に入ってたらブン殴るような真似はしちゃいないよクソ孫が! あたしは思わずぐっと拳を握り締め、大きく息を吐いた。ここはズューデンベルグ、半ば……いや、ほとんど敵地といっていい場所だ。冷静さを失うわけにはいかない。少しのミスが、致命傷になってしまう。……そんな土地でなんでこうバカな真似をしやがったんだいこの馬鹿犬は!!
この可愛らしい子犬女は、あのブロンダン卿に対し「調子に乗るなよ」などという意味の言葉を吐いてきたらしい。もちろん、あたしはそんなことは命じちゃいない。むしろ、先走るんじゃないよと厳命してあったハズだ。厳命してたよな? まだ頭はボケちゃいないハズだ。なんだか疑わしくなって、副官のほうをチラリと見る。彼女はなんとも言えない表情で我が孫を一瞥し、深々とため息をついてから首を左右に振った。ホレ見ろ、ボケてんのはあたしじゃなくてこの馬鹿じゃないかい。
「なぁにを当たり前のことを言ってるんだいお前は。あたしは言ったはずだよ、ブロンダン家とは喧嘩したくないと!」
あたしは人差し指をアンネリーエの鼻先に付きつけつつ、そう言ってやった。ブロンダン卿。あたしのような田舎貴族でも名前を知っている、王国の高名な男騎士。あの蛮族と密林しかないクソみたいな半島の領主殿。……そして何より、我がミュリン家最大の宿敵である、ディーゼル家を打ち破った男。そんなヤツを相手に、どうやらこのバカ孫はご立派な啖呵を切って来たらしい。ふざけんじゃないよ。
「わーってるよ、そんなこたぁ。だから"警告"してやったんだろ? ディーゼルに勝てたからって、ミュリンにも勝てるだなんて勘違いされちゃたまったもんじゃねえ。ガツンと言って、身の程ってヤツを教えてやらねぇとな」
コイツ自分がなんで殴られたのか理解してないのかい? あたしは頭を抱えたい心地になって、半ば無意識に副官のほうに手を伸ばした。この副官との付き合いもなかなかに長い。彼女は即座にこちらの意図を察し、カバンから葉巻を出した。慣れた手つきで先端をカットし、こちらに手渡してくる。無言でそれを咥えると、副官は懐紙を丸めて卓上ランプの火を葉巻の先端へと移した。
「……」
煙をゆっくりと口の中に吸い込み、飴玉を転がすようにして味わう。……少しだけ、気分が落ち着いてきた。
「いいかい若造、教えてやるよ。確かに、そのやり方も相手を選べば有効さ。だけどね、勝てるかどうか怪しい相手には逆効果なのさ。弱い犬がビビってギャンギャン吠えている、なんて思われたら最悪だ。却ってナメられちまうよ」
「勝てるかどうか怪しい? ばあちゃんの言葉とはおもえねぇよ。なんでそんなに及び腰なんだ!」
逆にあたしはなんでお前がそんなに強気なのかわからんがね。ため息と一緒に、あたしは煙を吐き出した。
「ブロンダン卿は、あたしらミュリン家が百年かかっても滅ぼせなかったディーゼル家を、わずか一戦で破り去った将さね。とうに格付けは終わっている。あっちが上で、こっちが下。そりゃあ腹立たしいが、そこを認めないことにはミュリンもディーゼルの二の舞だよ」
我がミュリン家にとって、ディーゼル家は最大の宿敵だった。僅か一枚の畑、一本の用水路を巡って幾度となくぶつかり合い、おびただしい量の血が流されてきた。あたしの母親も、次女も、ディーゼルによって殺されたのだ。あの牛女どもがどれだけ手強い相手なのか、あたしは世界で一番くわしいつもりだった。
そのディーゼル軍を、ブロンダン卿は僅か一個中隊の防衛軍で破り去っている。報告を聞いた時は耳を疑ったが、ズューデンベルグに帰還したディーゼル軍の惨状を知れば信じる他なかった。あの恐ろしかったディーゼル軍はもういない。残っているのは、ボロボロになった敗残兵の集団だけだった。
「ディーゼルと同じわだちを踏めば、確かにそうなるかもしれねぇ。けどよぉ、だったら対策を打てばいいだけじゃねえか。簡単なことだ!」
あたしはすっかり倦んだような心地になっていたが、我が孫はむしろヒートアップしている様子だった。地団太を踏むような調子で、そう叫ぶ。
「アタシはあの戦争について調べた! ディーゼル軍の敗因は狭い山道での突破戦を強いられたことだ。あのウシどもの主戦力は重装騎兵隊だが、山岳地帯ではその真価は発揮できない。戦略レベルで負けてたんだよ、あいつらは。わかってそういう風に采配したってんなら、確かに見事なものだよ。褒めてやってもいい」
いくさに一度も出たことがない戦争処女が、随分と偉そうじゃないか。あたしは悲惨な気分になりながら、内心そう吐き捨てた。脳裏の浮かび上がるのは、狩猟が始まるまえに握手を交わしたあの男騎士の姿だ。黒髪と鳶色の目が特徴的な、女装の麗人。劇役者か何かかとからかいたくなるような存在だが、あたしは彼をあざ笑う気にはなれなかった。
臭いでわかるのだ。あれは尋常な人間ではない。爪の先、毛穴の奥底にまで、血脂の臭いがしみついている。何十人もの人間の返り血を浴びた人間特有の臭いだった。本物の人切りなのだ。直接ブチ殺した人間の数は、あたしすら上回っているかもしれない。
その上、あの物腰。あれは明らかに兵からの信頼と尊敬を勝ち取る方法を完全に心得た人間の立ち振る舞いだ。あたしが何十年もかけてやっと覚えた手管を、あの男はあの若さで身に着けている。役者が違うとしか言いようがない。間違っても、好き好んで喧嘩をしたい手合いではなかった。これっぽっちも勝てる気がしない。
「でもな、平地に引きずり出せばそうはいかねぇ。当時よりも随分と戦力は増強されたって話だが、それでも兵隊の頭数じゃこっちの方が上だ。包囲してボコボコにしてやればこちらに負けの目はありえねぇ」
ところが、この馬鹿孫はそんなことはさっぱり理解していないらしい。どうやらあたしは、娘の教育だけではなく孫の教育まで失敗してしまったようだった。娘の時は厳しくし過ぎたが、こちらは甘くしすぎたのかもしれない。教育ってやつは本当にままならないものだね。
「……アンネ、知ってるかい? ブロンダン卿の軍隊は、散兵がキホンらしいよ。散兵と密集陣では、頭数が同じでもカバーできる範囲がまったく違う。少々の兵力差があっても、包囲は難しいんじゃないのかい」
「平原での野戦で兵力を分散させるアホがどこに居るんだよ、ばあちゃん。いくら男だって、そこまでナメちゃ可哀想だぜ? ……まあ、マジで散兵で来るってんならそれこそ願ったりかなったりさ。その薄っぺらい戦列を正面からブチ破ってやればいい」
ナメてんのはお前だよクソッタレ。ディーゼルの重装騎兵隊がブチ破れなかった戦列をどうやってウチの兵隊どもでブチ破るっていうんだい。突破の手管で言えば、ディーゼルの方がはるかに上手だったんだよ?
「……はぁ。議論している時間がもったいないね、馬鹿くさい。とにかく、お前は無作法をやらかしたんだ。それの始末は付けにゃあならん。茶会の時に、ブロンダン卿に謝罪をしろ。あたしも一緒に頭を下げてやるから……」
とにかく、あたしはブロンダン家とは戦いたくなかった。しかし、ディーゼル家をこのまま放置することはできない。あのウシ共は今でこそ弱体化しているが、ブロンダン卿の支援を受けて家の立て直しを図っている。今のこのズューデンベルグの好景気ぶりを見るに、十年後二十年後はむしろ往時よりも強大化している可能性すら高かった。
そうなれば、困るのは我々だ。軍を立て直したディーゼル家は、ミュリン家に対してかなり強く出てくることだろう。噂の"新式軍制"とやらの威力次第では、一撃でコロリとやられてしまうやもしれん。そしてそれを阻止する方法はただ一つ、ディーゼルの連中が弱っているうちに、再起不能なまでに叩き潰すことだ。
むろん、その際にはブロンダン家が一番の障害になるわけだが……そこはあたしの腕の見せ所だ。両家の離間を図り、できればブロンダン家にはこちらに寝返ってもらう。それが無理でも、好意的中立を保ってもらえば勝ったも同然だ。作戦としては、これしかない。
ブロンダン卿がディーゼル家に肩入れしているのは、食料供給と通商路の確保のためだ。同じものを我々が提供できるのならば、彼はあえてディーゼルに付き合う必要はなくなってくる。そこがねらい目なのだ。だから、あたしとしてはあの男騎士とは仲良くやっていきたいと考えているのだが……まったく、このクソ孫は。
「え~、ヤだよ……」
「やだよがあるかこの小童がぁ!」
あたしはいよいよ我慢が出来なくなって、アンネリーエをもう一度ブン殴った。
「尻を拭いてやるっつってんだから、おしめも取れないクソをひったらひり出しっぱなしの赤ん坊は黙って拭かれてりゃいいんだよ!」
あたしはそう叫んでから、葉巻を吸った。ああ、まったく。舶来の高級品だってのに、まったく美味くない。全く勿体ないったらありゃしないね。それもこれも、すべてはこのバカ孫のせいだ……。




