第388話 ナンパ王太子と聖人司祭(2)
余は絶句した。この女は民衆からは聖人などと呼ばれているが、もちろん単なる善良な聖職者などではない。そうでなければ、この年齢で司教……それもパレアという大都市圏の教区長などに任命されるはずがないからだ。
しかし、それにしても今回のフィオレンツァ司教の発言は過激に過ぎる。王太子たる余に、その臣下である宰相・辺境伯一派を攻撃せよと言っているのだ。これは、直球の内乱示唆である。この女は、あまりにも危険だ。ここで切り捨てた方が良い。余の理性はそう叫んでいた。
「……余に宰相を討てと。貴様はそう言いたいのか?」
だが、そんなことはできなかった。なぜなら、司教の提示したプランは余自身も検討していたことだったからだ。我が国を蝕む悪党どもを除き、愛しの男をこの手に抱く……なんと甘美な想像だろうか? 公人としての義務と、私人としての願望を同時に叶えることができる。しかし、冷静に考えればそのプランは現実的ではない……ハズだった。
「ええ、その通りです」
ニッコリと笑って頷いてから、司教はワインを飲む。
「今すぐにはムリでも、いずれは。兵の数自体は、辺境伯軍よりも王軍のほうが多いのです。質の問題が解決すれば、勝利は揺るぎません。そうでしょう?」
「……一理はあるが」
現在、王都をはじめとする王家直轄領の大都市ではライフル銃や大砲の量産が始まっている。なにしろ、王都内乱によって新式軍制の威力はハッキリと示されてしまったのだ。特等席でその様子を見ていた王軍幹部たちの危機感は、尋常なものではなかった。
たしかに、現状では辺境伯軍の方がはるかに装備が良い、それは事実だ。しかしその差は、永遠に縮まらぬものではない。平和な時代が長く続いたことにより、国庫にはそれなりの余裕がある。それを投入すれば……装備の迅速な更新は十分に可能だろう。
「では、何か。余が剣を佩いて、領主屋敷でノンビリしているあの只人女を切り殺せばよいのか? うん?」
挑発的な口調で、余はそう言い捨てた。むろん、皮肉である。宰相の直接排除などを狙った日には、宰相陣営との全面戦争に発展するのは間違いあるまい。現状の王軍で、あの辺境伯軍と戦うのは避けたかった。
「その手には乗りませんよ、王太子殿下」
薄く笑って、司教は酒杯を軽く揺らした。不気味な表情だ。
「明らかに、今は戦争の季節ではありません。王都で見たあの新式軍が、旧態依然とした王軍に牙をむけば……結果は火を見るより明らかでしょう」
「きみねぇ……王太子に向かって、よくもまぁ王軍は旧態依然としているなどと言い放てるな」
余は少し呆れて、そう言ってやった。
「事実を事実として受け止められぬ人間に、王は務まりません。そして、フランセット殿下には王たる器がある。そうでしょう?」
「ふん、見え透いた世辞は嫌いだな」
「なんとも手厳しい」
心外そうな表情の司教だが、当然である。この手の人間の言うことをいちいち真に受けていたら、みが持たないだろう。
「……まあ、事実として現状の王軍で宰相派閥に挑むのは分が悪い。今は、全力で軍の再編成に当たるべき時期だ。問題は、この機に宰相派閥が仕掛けてくる可能性があることだが……」
「思うに、宰相派閥もしばらくは大人しくしているものと思われます。リースベン軍は内乱で疲弊しておりますし、なにより蛮族の取り込みで大忙し。新たな戦争の準備をしている余裕はありません。そして、辺境伯軍も頭領はあの穏健派のカステヘルミ殿です。クーデターなどという大それた真似ができる女ではありませんよ。辺境伯軍が危険になるのは、おそらく代替わりした後……」
「大した軍師ぶりだな、司教殿。教会では星読みだけではなく軍学まで教えているのか?」
「まさか! ……所詮は素人の浅知恵です。わたくしは、どちらかといえば頭の回らぬ女ですし」
余の皮肉に、フィオレンツァは小さく肩をすくめる。
「とはいえ、現状での全面対決を避けたいのはこちらも同じことだ。負けるとは言わないが、勝ったところでそれなりの手傷は負うだろう」
そこまで言って、余はすっかり自分が宰相と決別する気になっていることに気付いた。……まあよい、確かにあの女は有害だ。切除できるならば、するべきである。ただ、今はそのタイミングではないというだけの話だ。
できれば、二年。最低でも一年は欲しい。それまでは、アルベールの身柄は宰相に預けたままにせねばならぬだろう。悔しいが、だからといって負けかねない状態で戦いを始めるわけにはいかない。可能な限り、必勝を狙えるタイミングで仕掛けるべきだろう。
「その場合……一番の問題は、神聖帝国。現状の両国関係はそこまで危機的なものではないが、こちらが弱味を見せれば即座につけこんでくるだろう。少なくとも、余があの女ならそうする」
憎たらしい長身の獅子獣人女の顔を思い出しながら、余はそう吐き捨てた。今は皇位を引いているという話だが……ヤツの牙は相変わらず鋭いだろう。油断はできない。
「そのあたりは、このわたくしが星導教のネットワークを使って全面的に支援いたします。これでも、教団本部……サマルカ星導国では、相応の信任を頂いている身ですので。他国の情報は、それなりに手に入ります」
サマルカ星導国……名前の通り、星導教の本拠地だ。国としては小国の部類だが、中央大陸西方の列強諸国はほぼすべてが星導教を国教として頂いている。そういう状況下だから、星導国の権威は比類のないものがあった。
「せ、聖界が世俗に干渉しようというのか! 一体何のために……」
宗教界が世俗の紛争に介入するのは、タブーとされていた。世俗は世俗、聖界は聖界。そういう住みわけが出来ているのだ。むろん星導教も利権組織だから、世俗に対して影響力を行使してくることも多々ある。しかしそれでも、ここまで露骨な協力の提案はそうそうない事であった。
「……」
余の問いに、司教はすぐには答えなかった。小さくため息をついて、少しだけ考え込む。
「……実のところ、これは教皇猊下の御意思ではございません。わたくしの独断です」
「独断……!?」
「ええ」
小さく頷いた司教は、ワインを一口飲んだ。
「アルベールさんは、わたくしの幼馴染でもあります。彼の現状を憂いているのは、殿下だけではない……ということです」
「……なんだ貴様、まさか余がアルベールを救った暁には、自分とも共有しろとでもいう気ではないだろうね? それでは、やり口が宰相と変わらないじゃないか」
政治目的のために、アルベールを蛮族などと共有しようとしている宰相。そのやり方は、なんとも嫌悪感を催すものだ。余は、あの外道と同じ穴のムジナになる気は無かった。
「いえ、いいえ」
だが、司教は余の指摘にも顔色一つ変えず、首を左右に振る。
「たしかに、わたくしはアルベールさんを愛しております。しかしそれは、男女の愛ではございません。親子の愛なのです。わたくしは、アルベールさんを実の父親のように慕っているのです」
「ち、父親!?」
予想外過ぎる発言に、余は思わず酒杯を取り落としかけた。なんとかそれを堪え、杯の中身を一気に飲み干す。気付け薬が欲しい心地になっていた。
「いったいどういうことなんだ、それは。君たちの年齢差は、せいぜい数年。親子というには、あまりにも」
「……すこしばかり、身の上話をいたしましょう」
一瞬躊躇してから、司教は余の酒杯にワインを注いだ。
「わたくしには、父親がおりません」
「たしか、貴殿の母君も僧侶だったね。いわゆる、星の落とし子というやつか」
星導教の聖職者は、姦淫を禁じられている。にも拘わらず、僧侶が子を孕むことがよくあった。これは極星より贈られた特別な御子だと言われるが……まあ、実態は裏で子供ができるような事をしているだけの話だ。星導教の高位聖職者はよく男性の使用人を専属の小姓としているが、これが事実上の結婚、あるいは愛人契約であることは公然の秘密だった。
「ええ。まあもちろん、名目上は……ですが」
そう言って、司教はため息をついた。
「ですが、わたくしの場合……少しばかり事情が特殊でして。父である可能性のある男性が、十人ほどいるのですよ。我が母は、何人もの男性に同時に奉仕をされることを史上の喜びとする、どうしようもない女でして」
嫌悪感を丸出しにした表情で、司教は吐き捨てる。余は絶句してしまった。星導教内の風紀が乱れているのは、噂として知っていたが。まさか、そこまでとは……。
「そういう家庭環境ですから、わたくしは父かもしれない男性たちからは娘として扱われたことはありません。誰と血がつながっているのかわからないということは、誰とも血がつながっていないのと同じことですから」
「……」
「そんな汚れた血筋の娘を愛してくれたのが、アルベール・ブロンダンという男性です。たしかに、親子と呼ぶには年齢が近すぎるでしょう。それでも、確かにあれは親子愛でした。ゆえに、わたくしの父はアルベールさん。彼只一人なのです」
司教の声には、微かな狂気が滲んでいた。余はまだまだ未熟だが、人を見る目だけは自信がある。これは……ホンモノだ。フィオレンツァ司教は、アルベールのことを本当に父親のように思っている……!」
「ゆえに、わたくしはアルベールさんの現状に不満を覚えております。あれほど強く優しいお方が、その責任感ゆえに宰相ごときに絡めとられている。認められません、そのようなことは」
「……それは、余もまったくの同感だが」
「なんともあくどい策ではありませんか。アルベールさんのような方が、領邦領主などになったら……もう、彼は自分の意志ではその職務からは離れられません。首輪と鎖をつけられたようなものです」
熱に浮かされたような様子で、司教はまくしたてる。その熱を浴びて、余の怒りも再燃し始めた。そうだ、その通りだ。アルベールは、何と言って余の誘いを断った? 領民のことを想えば、この地から離れられぬと。そう言ったのだ。これもまた、宰相の策略だったのか……!
まあ、その領地がこのような辺境になったのは、宰相としても誤算だろうが。しかしあの悪辣な只人女は、災い転じて福となすということわざそのままに、手に入れたリースベンという領地を最大限に活用して南部での支配権確立へと邁進している。まるでゴキブリのような往生際の悪さだ。
「王太子殿下。どうか、アルベールさんをお救いください。たとえアルベールさんの意志に反することであっても……あの宰相の元にいるよりは、貴方様の元にいた方が彼も幸せでしょう。男としての役割と、女としての責任。この二つにがんじがらめにされているアルベールさんに、男の喜びを教えて差し上げてほしいのです!」
グイと身を乗り出して、司教はそんなことを言う。ああ、これは……危険だ。非常に危険だ。彼女の提案は、余の願望そのもの。それを理解したうえで、司教はこのような言動をしている。そういう確信があった。
これは、詐欺師の手口だ。口では宰相をののしっているが、司教もあの女の同類である。口先三寸で、余を転がそうとしている。余の理性は、そう訴えかけていた。だが……この女の目に浮かぶ狂気だけは、本物だ。そして、狂気は嘘をつかない。この女は、確かにアルベールを大切に思っている。だったら……考えていることは、余と同じだ。
「……いいだろう、任せてくれ」
そう言って、余は司教の手を握ってしまった……。




