第387話 ナンパ王太子と聖人司祭(1)
余、フランセット・ドゥ・ヴァロワは酒におぼれていた。セーフハウスの自室で、ただ一人黙々とワインを飲んでいる。足元には空っぽになったボトルがすでに二本転がっていたが、さっぱり酔った気分がしない。
「アルベール……」
酒杯のワインを飲み干してから、余は茫然とそう呟いた。オトコに振られたのは、生まれて初めての経験だ。むろん、ショックは受けている。けれども、正直に言えば最初から断られるような確信はあったのだ。あの高潔な男が、そう簡単に己の責任を放棄することなどあり得ない。
ああ、アルベール。やはり彼は只者ではない。たとえ自らが汚れても、臣下や領民を守ろうとする姿勢。これを騎士の理想と言わずになんというだろうか?彼と話していると、懐かしい記憶がよみがえっている。我が母がまだ生きていた、あの頃の記憶が。
……結婚を断られたというのに、余は彼のことがますます好きになっていた。あの男を我が物にしたい。あの男に未熟な己を導いてほしい。けれども、アルベールは既に別の女のモノだ。あの汚らわしい欲深で腹黒く雄々しい女、アデライド・カスタニエ。よりにもよって、あのクズのモノに。
「……」
酒杯に新たな酒を注ぐのすら面倒になって、余は酒瓶に直接口をつけた。我が執事にこんなところを見られたら大目玉だろうが、今は一人だけだ。構うものか。
……しかし、アデライド。アデライド・カスタニエ。ああ、許せない。アルベールの結婚相手が、彼にふさわしい誇り高い騎士であれば、余も諦めて祝福できたものを。だが、あの宰相は高潔とは程遠い俗物で、アルベールを蛮族のクズ酋長に差し出すような輩だった。絶対に許せない。
「……しかし」
本音を言えば、いっそ彼を攫ってしまいたい。王家の強権を振るい、彼をアデライドから引き離す。その上で改めてアルベールにリースベンの統治を任せ、まつろわぬ蛮族は王軍の武威をもって対処すればよい。それが理想だ。
けれども、残念ながらそれをやるわけにはいかなかった。オレアン公爵家の失脚以降、宰相一派は完全にその立場を盤石にしつつあった。宮廷における政治闘争でも宰相派は王室派と伯仲しているし、武力面でもその背後についているのは王国諸侯の中でも最強のノール辺境伯カステヘルミだ。切り捨てるにはあまりに強大過ぎる。
アルベールは宰相派閥の要石で、これを強引に奪い取れば王室と宰相の全面衝突は避けられない。現状、王室はこの闘争に勝利できるかかなり怪しかった。よしんば勝利できても、大幅な弱体化は避けられないだろう。そうなれば、新たな反乱がおきる可能性はかなり高いし、周辺の列強も野心をむき出しにして襲い掛かってくるだろう。大陸西方は戦乱の時代に逆戻りだ。
王太子として……流石にそれは認められない。少なくとも表面上は、宰相派と仲良くしていくほかないのだ。なんと屈辱的なことだろうか。余は、あの清廉な男が宰相によって汚されていく様を、特等席で眺める羽目になるのだ。無力、あまりにも無力。歯を食いしばり、涙をこらえる。
「若様」
そこで、ドアが控えめにノックされた。かけられた声は、聴きなれた部下のものだ。
「……どうした?」
「ポンピリオ商会のヴィオラ様がお越しです。至急面会して、相談したいことがあると申しておりますが……お引き取り願いましょうか?」
こんな時間に、なんと非常識な。そう憤慨していることがありありとわかる声音だった。確かに、すでに時刻は深夜から早朝へと移り変わりつつある。こんな時間に会いに来るなど、門前で蹴り飛ばされても文句は言えないだろう。
……しかし、相手はポンピリオ商会のヴィオラ、もといフィオレンツァ司教だ。あの若さで教区長までのし上がった化け物。そんなヤツが、この深夜に突然訪問してきたのだ、たんなる気まぐれであるはずがない。つまり、余がアルベールに振られたことを知って、何かしら言いに来たに違いない。
余とフィオレンツァは、協力関係にはあるが仲間というわけではない。だからもちろん、今夜のことも彼女には伝えていないのだが……まったく、不気味な女だ。少なくとも、宰相と同じくらいには警戒したほうが良いだろう。……とはいえ、毒を以て毒を制す、などという格言もある。余だけでは宰相に対抗する術を持たぬ以上、彼女の力を借りるのも一考か……。
「いいだろう。通せ」
一瞬でそこまで考えて、余はぶっきらぼうな声でそう答えた。それから、十分後。余は、応接室であの不気味な坊主と向かい合っていた。
「まさに駆け付け一杯、という感じですね」
眠気を感じさせぬ声でそんなことを言いながら、司教は酒杯のワインを一気に飲み干した。可憐な見た目に似合わぬ豪快な飲みっぷりである。
「遠慮会釈のない女だ……。で、何の用なのだ? 今宵の余は不機嫌だぞ。下手なことを言えば、口より先に剣がでるかもしれん」
見た目だけは天使めいたうさんくさい女を睨みつけつつ、余はそう吐き捨てる。
「なぁに、大したことはありませんよ。恋愛相談も聖職者の仕事のうち。失恋したばかりの哀れな殿下に、御助言を……と思いまして」
「ふん……」
やはり、嗅ぎつけられていたか。こいつはこいつで、独自の情報網を持っている。厄介な手合いだ。
「助言と来たか。導きの魔術師気取りか?」
「魔術師ではなく、坊主ですが。まあ、そのようなものです」
しゃらくさい。訳知り顔でこんなことを言ってくる者など、詐欺師と相場が決まっているのだ。助言など、聞く価値は無かろう。……余の理性はそう言っていたが、彼女を追い出そうという気は湧いてこなかった。溺れる者は藁をもつかむ。そういうことわざが、余の脳裏にちらついた。今の余は、間違いなく溺者だ。こんな信用ならぬ女であっても、頼りたい心地になっている……。
「……まあ、聞くだけは聞こうか」
「……」
ニコリと笑って、司教は小さく頷いた。そして従者が注いだ酒を、一口だけ飲む。
「王太子殿下、わたくしはこう思うのです。踏みにじられ、汚される運命にある花は……いっそ手折ってやったほうが幸せなのではないかと」
「……」
余は、無言でワインを喉奥に流し込んだ。嫌な気分だった。彼女の指摘が、余が内心思っていることそのままだったからだ。
「その花は、摘んだとたんに周囲でおびただしい血が流れる呪いの花だ。たとえどれほど美しくとも、手折るわけにはいかぬ」
「皇太子殿下は、勘違いされているようですね」
ニコリと笑って、司教は肩をすくめる。
「王家と宰相派閥は、いずれ衝突いたします。今すぐに、という訳ではないでしょうが」
「……アルベールは、そのつもりは無いと言っているが。それに、宰相はともかく辺境伯は慎重派だ。こちらに新式軍制の教本を渡すバランス感覚もある。王位の簒奪を目論んでいるなら、こちらに教本を渡すような真似はすまい」
宰相は厄介だが、独自の武力は大したことがない。宰相派の武力は、スオラハティ家とブロンダン家が担っている。その双方が王軍に対抗する姿勢を見せていないのだから、オレアン公爵家のようなクーデターを起こす可能性は低いと余は踏んでいた。
「辺境伯様はそうでしょうね。穏やかな方ですから。しかし……」
ため息をついてから、司教はワインで喉を潤した。
「王軍と宰相派閥軍の戦力比が逆転すれば、いずれ悪心を抱くものも出て来るでしょう。たとえば、あの悪名高い辺境伯家の三女殿とか」
「……」
余は思わず黙り込んでしまった。ヴァルマ・スオラハティ。カステヘルミの三女。通常ならば長女のスペアのスペア、そういう風にしか扱われないのが三女という立場だ。にもかかわらず、このヴァルマという女はたいへんに有名だった。それも、姉のソニアのような良い方向の有名さではない。
三女にもかかわらず、辺境伯家の当主になると公言してはばからない問題児。傍若無人にして冷酷無比。そのくせ、天性の戦上手と来ている。人間の形をした火薬庫、そういう風情のある女だった。間違いなく、危険人物である。そんな女が、王家を上回る戦力を手に入れたらどうなるか……考えるだけで恐ろしい。
「戦が避けられないというのならば、勝てるタイミングでこちらから仕掛けるべきです。そして、アルベールさんは宰相派閥の要石。最初に狙う相手としては、この上ない獲物。……ならば、ついでに殿下の想いも遂げてしまえば良いのです。戦利品は、勝者の物となるのが古来よりの定め。彼を我が物としても、文句をいう者はいないでしょう……」
危険極まりない発言をしながら、司教は艶然とほほ笑んだ……。




