第378話 軟派王太子と飲み会
余、フランセット・ドゥ・ヴァロワは辟易していた。この街、カルレラ市での生活は退屈で不快だ。街はこれが文明人の暮らす場所かと呆れそうなほど汚く粗末で、おまけに欲しいものが何も売っていない。
とにかく、ヒトもモノも足りない。そういう雰囲気だ。花の都パレア市で生まれ育った余には、正直耐えがたい部分もかなりある。王家の将来を左右する重大事のための情報収集、という理由がなければ、絶対にこんな場所で滞在などしなかった。
だが、そんな不満も今夜のことを想うだけで霧散してしまう。今日はアルベールとの二度目の酒宴の日なのだ。彼は思慮深く、ユーモアもある。箱入りで育てられた世間知らずの令息をからかって遊ぶよりも、何倍も楽しい。あの男との逢瀬について考えているだけで、気分が華やいでくるのだから不思議だった。
「なんともかんとも……人生ってやつは、まったくままならないものだ」
そして、夜。余は先日と同じ酒場で、アルベールと同席していた。彼は憂いを帯びた瞳を宙にさ迷わせながら、愚痴をこぼしている。愚痴、といっても具体的なことは何も言わない。まあ、当たり前の話だ。酒の席とは言え、貴族が仕事の不満を外部のものに簡単に漏らしてしまうなどあり得ないことだ。
それに、アルベールは聡明な男だ。余が名乗った通りの身分ではないことにも、すでに気付いているだろう。そうなると当然、余の正体は間諜ではないか……という発想に至ると思うのだが、今のところ彼は余を疑うような態度を見せてはいなかった。お互いに正体を隠しているとはいえ、それなりの信頼関係が醸成されつつあるのではないか……余はそんな風に考えていた。
「何もかも思い通りになる人生は、それはそれで詰まらないだろうがね。人が賭博やゲームに熱中するのは、ままならない部分が大きいからさ。人生も同じことだろう」
「確かにそれはそうだな。戦棋だって、対手が強い方が燃えるものだし」
「だろう?」
ニコリと笑いかけつつ、余はワインを一口飲んだ。先日飲んでいたのはワインを名乗るのもおこがましい腐ったブドウ汁のような代物だったが、今日はこの店に置いてある一番上等なものを用意してもらった。
むろん、所詮は辺境の小さな店だ。普段余が王宮で飲んでいるような最上級のモノと比べればはるかにランクは低いが……彼と共に飲む酒は、どんな美酒よりも甘美だった。やはり、酒というものは何を飲むか、よりも誰と飲むか、という部分のほうが重要なものである。
店の奥で吟遊詩人が吟じている演目もまた良い。大陸東方の異教の大国が西方世界に攻め寄せた際、アヴァロニア、神聖帝国、そしてわがガレアが盟を結んで一致団結して撃退した、そういう戦記ものだ。そこに、叛乱だの裏切りだのと言った言葉が挟まる余地などは無い。一致団結……ああ、素晴らしい。
「とはいえ、まあ限度はあるが。あまりにも強すぎる指し手に挑んでしまい、訳の分からないうちに負ける……などというのは、さすがに愉快とは言い難いからね」
「確かに」
苦笑しながら、アルベールは肩をすくめる。その口調は、先日と違いとてもラフなものだ。これは前回の別れ際に、余のほうから『気楽な口調で喋ってくれ』と頼んだせいである。せっかく身分を偽ってお忍びで遊びに……もとい、調査に来ているわけだからね。かしこまった態度を取られるのは面白くない。
「で……君の場合、悩みの原因はどちらなのかな? 対手が弱すぎるのか、あるいは強すぎるのか……」
「そりゃあもちろん、後者だ。『人生楽勝すぎて詰まらなーい』なんてこと、一回くらいは言ってみたいものだけど。まあ、そう都合よくはいかないでしょ」
「ははは……その通りだな」
中央大陸西方屈指の大国であるガレアの王太子などという立場にある余ですら、ままならぬことなどいくらでもあるわけだからな。本当に、人生というものは楽ではない。
……しかし、アルベールにとっての"強すぎる対手"か。相手は誰だろうな? いや、考えるまでもない。我が王宮の宰相、アデライド。あの金儲けだけは得意な陰謀家が、彼の前に立ちふさがっているのだ。状況から考えて、そうとしか思えない。
彼は、智・武・勇に優れた女顔負けの優れた騎士だ。だが、こうして話していると明らかに政略・謀略方面の素質には欠けているように見える。根が優しく、そして甘すぎるのだ。優れた軍人にはなれても、それ以上にはなれない。そして自分自身、己のそういう部分を心得ている。そういう風情があった。
「人生とは大河のようなもので、ヒト一人の力で抗うなどおこがましいことだ……なんて言葉を聞いたことがあるが、真理かもしれないな。本当にこの頃、流されるままになっている……」
疲れた顔でそんなことを言いながら、アルベールはゆっくりとワインを飲んだ。余は胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えながら、ツマミの炒ったナッツを口に投げ込む。
「……君は、乗り越えがたい壁にぶつかっているんだね。私で良ければ、力を貸すが」
「そういうわけにはいかない」
アルベールは躊躇なく即座に首を左右に振った。
「これは、僕が僕自身の力で解決せねばならない問題だ。他の人の力を借りても、根本的な解決にはならないよ」
「そうか……」
やはり、アルベールは普通の男とは違う。余は小さくため息をついた。こういう矜持が、彼を彼たらしめている根幹の部分なのだろう。
「力を貸せないというのならば、せめて助けになりそうな言葉を贈ろう。これは我が祖母の受け売りなのだが……」
オレアン公の反乱以降、めっきり老け込んで体調を崩しがちになった祖母……国王陛下の顔を思い出しながら、余は酒杯をくるくると回した。
「迷った時、前に進めなくなった時は、いちど立ち止まって後ろを振り返りなさい。そして、最初の志を思い出すのです。最初の一歩を踏み出した時、あなたの心に浮かんでいた景色が、あなた自身の標となるでしょう……」
そう言ってから、余は一瞬考え込んだ。余の最初の志とは、なんだったのだろうか? 母を流行り病で失い、若くして王太子という過分な立場に置かれてしまった時、余はどんな将来を思い描いた?
「……初志、か」
余の思考は、アルベールのつぶやきによって遮られた。彼はひどく楽しそうにクスクスと笑って、酒杯のワインを飲みほした。
「初志、初志ね。ははは」
「どうしたんだ、一体」
「いや、昔の自分が馬鹿すぎて、笑えて来たというか」
「……興味深いな。いったい、君の"最初の志"というのは、いったいどのようなものだったんだい?」
アルベールの笑いは、皮肉や自嘲などではなく純粋に愉快そうなものだった。いったいどんな将来像を思い浮かべていたら、このような反応になるのだろうか?
「合衆国大と……世界最強の軍隊の総司令官、かな?」
余は、思わず酒を吹き出しそうになった。アルベールの立場でそんなことを言われると、本当にシャレにならない。彼の考案した新式軍制の威力を想えば、その夢は決して非現実的なものではない。ガレア王国を簒奪し、男王として君臨すれば……それはおそらく、世界最強の軍隊の総司令官と同義だ。
「……へ、へえ。なかなか、面白い夢じゃないか」
「馬鹿くさいよね。責任なんてものを負ったことのない人間か、あるいは本物の無責任なヤツじゃなきゃ、こういう発想はでてこない」
楽しげに笑いつつ、アルベールは手酌でワインのお代わりを注いだ。……この反応、彼は既にその大それた夢をあきらめてしまっているのだろうか?
「愉快な夢だな。そのまま実現する、というのは難しいかもしれないが……それを目指すこと事態は可能なのではないかな? 確かに、君は男性だ。立身出世を目指すのは、なかなか難しいかもしれない。しかし世の中には、男の身の上であり得ないような出世を続けている騎士もいる……」
勇気を出して、余はそう言った。あり得ない出世を続けている騎士というのは、つまりアルベールのことである。たんなる宮廷騎士から城伯に。これだけでも、多くの騎士から羨望の目を向けられることは間違いないレベルの出世だろう。しかも彼は、蛮族を平定して実質的な領土拡張と戦力増強に成功している。近いうちに、伯爵へと昇爵するのは間違いあるまい。
「確かに、そうかもしれないが……」
彼は思わせぶりな視線を余の方に向けた。……うん、この眼つき。やはりアルベールは、余が自分と接触を持ったのは情報収集のためであることに気付いているな。
「僕が思うに、権力の階段というのは一種の罠だ。正直、あえて上りたいのは思わないな」
「罠? どういう意味かな」
「昇れば昇るほど、荷物……つまり、責任が重くなるだろう?」
「……そうだな」
偉くなればなるほど責任は重くなる。当然と言えば当然だ。余も、国王になった暁にはこの国のすべてを背負わねばならなくなる。君臨するとはそういうことだろう。
「責任というのは、要するに自分の下にいる者たちの人生や命だ。一人ぶん、二人ぶんでも尋常ではなく重い。十人ぶん、百人ぶんともなれば、背負える人間自体が限られてくるだろう……」
彼は遠くを見つめながら、酒杯をあおる。
「ましてや、千人分、万人ぶんとなったら? あるいは、それ以上となったら? 本物の救世主にしか、そんなものは背負えない。けれども、救世主なんてものはそうそう現れるものではないし、にも拘わらず千とか万とかそれ以上の人間の人生を背負わねばならない役職は世の中に存在している……」
「……ああ」
言われてみれば、その通りだ。余も、王太子という身分だ。その責任について思い悩むことも少なくない。だが、こういう形で"責任"という概念を捉えるというのはなかなか新鮮だった。そうか、余は臣下や民衆の人生を背負わねばならないのか。王都パレア市だけでも、千や万では済まない数の人間がいるというのに、この国一つ分ともなれば……いったいどれだけの数になるやら。
「責任を持ってしまった凡人に、取れる選択肢は三つだけ。責任を投げ捨ててしまうか、その場で潰れるか、あるいは凡人なりに踏ん張ってなんとか耐えるか……。前の二つは論外だろ? 投げ捨てるのも、潰れるのも、本質的には同じだ。背負っていた荷物は地面に落ちて砕け散る。それじゃだめだ」
「そうだな。ならば……凡人なりに踏ん張る、これしかないわけか」
「その通り」
アルベールは神妙な顔で頷いてから、店主に酒の追加を注文した。いつの間にか、ボトルの中身は空になっていた。
「権力の階段を上がれば上がるほど、その責任の重さに耐えきれなくなるリスクは増えていく。無限大の自信があるか、そもそも最初から責任を背負うつもりがない人間ではない限り、無理に駆け上がっていくことはできないんだ。それを知ってるからこそ、僕はもう初志に戻ることはできない。今背負っているモノをどう守っていくか、それだけさ」
「なるほどね……」
余は……感心していた。アルベールは、余などよりよほど真剣に、貴種の責任について考えている。こういう人間だからこそ、男性という不利を抱えているにも関わらず部下たちは猛烈に彼を慕うのだろう。
……むろん、この発言が余を誤魔化すためにでっち上げられたいい加減なものである、という可能性も十分にある。なにしろ彼は、余を王家側の諜報員だと疑っているフシがあるからな。疑いの目から逃れるべく、耳触りのいい言葉を並べ立てているだけかもしれない。
だが、個人的にはそうではないと思うのだ。本物の恥知らずでない限り、口からでまかせでこのような発言はできない。そしてアルベールは、決して恥知らずではない。むしろ、誇り高い本物の騎士だ。王都の内乱で共に轡を並べた経験があるからこそ、余はそれをよく心得ている。
つまり、これは彼の本音だ。少なくとも、彼自身には王位を簒奪しようだなどという不埒な考えは微塵もない。余はそう確信していた。……やはり、自分の目で確認するというのは大切だな。アルベールの調査を部下に丸投げしていたら、きっと余は彼の本質に気付けぬまま、この男を潜在的な叛乱予備軍として扱っていただろう。
「面白い……考え方だな。興味深い。もっと詳しく聞かせてもらっていいかな?」
余は、店主が持ってきたボトルを受け取り、いつの間にか空になっていた彼の酒杯に注いでやった。アルベールの話はとても含蓄がある。夜会で飛び交う実のない会話とは大違いだ。こういう会話は……とても心地が良いな。ああ、やはり彼が欲しい。この男が隣にいれば、余はきっと良い王になれるだろうに……。




