第372話 ポンコツ宰相と敗北
一時中座から帰ってきた私を出迎えたのは、相変わらずドンヨリとした会議室の空気だった。これはだめかもしれん、そんなことを考えながら、自分の席に腰を下ろす。私には戦場の空気や雰囲気などはさっぱりわからんが、交渉の場の空気の流れは理解できる。これは、著しく不利な時の雰囲気だ。こうなったらもう、逆転するのはたいへんに難しい。
「たしかにお前の案に一理あるのは認めよう」
そんな状態でも、ソニアは果敢にエルフの妖怪婆に攻撃を仕掛けていた。彼女の顔にも明らかな疲労が浮かんでいるというのに、よく頑張れるものだ。これが若さかと、私は密かにため息をついた。正直、彼女が羨ましい。もうそろそろ、私の体力は限界を迎えようとしていた。
「しかしだ、アル様の気持ちというものもある。貴様は、あの方のことを繁殖種馬か何かのように思っているのではないか? 政略だけを考えて無理やり子供を作らせるような真似は、はっきり言ってわたしは認められないぞ」
ああーっ、耳が痛い! やめるんだソニア。カネとの婚約にこぎつけた私としては、その言葉はたいへんによく効く。いやだって仕方ないじゃないか……女らしさも可愛げもない私が恋した男を手に入れるためには、そういう手段に手を出すほかなかったんだよ……。
「うむ、うむ。オヌシの言う通りじゃ」
一方、ダライヤのほうは批判などどこ吹く風というような風情である。彼女のツラの皮は、そうとうブ厚いようだ。ちょっとした矢玉程度ならはじき返せるのではなかろうか?
というか、このソニアの攻め口……一見正論だが、あまり良い手のようには思えんのだよな。なぜかと言えば、我々もまたアルくんと好き合って婚約することになったわけではないからだ。「じゃあお前はどうなんだ」と言われてしまえば、もう黙るほかない。だからこそ、私は理詰めの説得一本で彼女と交渉していたわけだが……。
「ところで」
そう言って、ダライヤはニヤッと笑う。ああ、駄目だこれは。攻撃しようとして、却ってカウンターを仕掛ける隙を与えてしまったパターンだ……。娘の失態に、カステヘルミは「あちゃあ」と言わんばかりの表情で肩を落とす。
「エルフのことわざには、女は鳥で男は止まり木、というものがある。いくら羽ばたいて高い空に昇ろうが、やがては疲れ果ててそこへ戻ってくる。そういう意味じゃな。似たような言葉が、竜人の国にもあるのではないか?」
「確かに、その手のことわざは耳にした覚えがあるが……」
「女は船で男は港、というヤツだな。意味としては、だいたいその言葉と同じだろうが」
ソニアとカステヘルミは二人して微妙な顔で頷いた。
「ま、国が違えど男女の役割は変わらぬ、ということじゃな。じゃが……アルベールは、尋常な男ではない。男だてらに剣を振り回し、兵を操り、国を動かす! 女顔負けの英傑じゃ。ワシとしては疑問なんじゃが、そのような男に止まり木や港の役割を押し付けるのが、本当に正しい事なのかのぉ?」
「役割を……おしつける?」
「ウム」
皮肉げな笑みを浮かべてから、ダライヤは香草茶をすすった。
「寄らば大樹の陰。……これもまた、エルフのことわざじゃ。見上げるほどの偉大な大樹の陰に抱かれるのは、さぞ安心できることじゃろう。じゃがのぅ……オヌシらが背を預けているモノは、数千年の時を経た巨樹などではない。二十そこそこの若木なのじゃ。あまり無理をかけすぎると、折れてしまうのではないかと心配になるのじゃがのぅ……」
我々は、思わず顔を見合わせた。……なんとも、痛いところを突かれてしまった。そういう感覚があった。特に大きな反応をしたのがソニアで、さっと顔色を失って「ヤドリギ……」などと小さく呟いている。
これは不味いな。ソニアの矛先がつぶれてしまった。この状態で矢面に立つのは無理だし、強引に攻めれば本格的に折れる。ここは、ナメた態度をとる親友の娘にオトナの威厳を見せつける時だ。わたしはコホンと咳払いをしてから、妖怪婆を睨みつけた。
「アルくんに頼り切っているつもりはないがねぇ? むしろ、彼を支えているのはこの私、アデライド・カスタニエだよ。君たちエルフが普段食べている麦やら豆やらも、もとはといえば私のサイフから出たカネで調達した代物なのだがね」
恩着せがましい言い方だが、この際そんなことを気にしている余裕はない。彼女らエルフの命綱を握っているのはこの私なんだ。すこしくらい強気に出ても許されるだろう。むしろ、今のうちにガツンと殴って立場を理解らせてやった方が良いかもしれない。
「はあ……」
ところが、この見た目だけはたいへんに愛らしい幼女は私の期待した反応などカケラも示しはしなかった。彼女は深い深いため息をついて肩をすくめ、ゆっくりと首を左右に振る。
「のぅ、気付いておるか? このごろのアルベールから、元気が失われておることに。まあ、そりゃあそうじゃろうな。下らぬ内戦に、蛮族どもの世話に、領内の取りまとめに、さらにはこの結婚騒動じゃ。辟易せんほうがどうかしておる……」
「……確かにアルは疲れた様子だった。だが、もちろん私としてもそのままにしておくつもりはないよ。数日くらいは我々でアルの仕事を肩代わりし、休んでもらうつもりだった」
カステヘルミの言葉に、私は内心ゲンナリした心地になった。そうだ、徹夜明けだというのに私には仕事がまだまだ残っている。この会議が終わっても、休めはしないということだ。少し仮眠を取ったら、すぐに朝の執務に取り掛からねば……。
「休み! 休みか。たいへん結構!」
反論を受けたダライヤは、なんとも皮肉げに笑う。いや本当に、なぜこの童女はこんなに元気なんだ。大柄な竜人が私よりも体力があるのは当然のことだが、このエルフは小柄な私よりも遥かに小さい。にもかかわらず、徹夜の疲れなど微塵も表に出していないのだ。むろんやせ我慢もあるだろうが、それにしても尋常ではない。エルフの体力、侮りがたし。
「で、一つ聞きたいんじゃがのぅ? 未来の夫が疲労困憊しておるときに、オヌシらは何をやっておるんじゃ? 哀れで無力な婆を三人で囲んでワイワイ騒いでおるだけじゃろう。これは少しばかり情が足りぬのではないかのぉ……」
「……」
「……」
「……」
"哀れで無力な婆"とやらの口から放たれた致命的な言葉に、我ら三人は黙り込むことしか出来なくなった。どこが無力だよふざけやがって!
「ゆっくり休めば、そりゃあ体の疲れは取れるじゃろう。じゃが、心の疲れを孤独の中で癒すのはそう簡単なことではない。例えば静かに話を聞いてやったり、あるいはただ隣で寄り添ってやるだけでも……だいぶ違うと思うんじゃがのぉ?」
「い、いや……しかし……アルは……」
ひどく焦った様子でカステヘルミが抗弁しようとしたが、ダライヤはそれをピシャリと遮った。
「そういう発想が出てこないのは、オヌシらがアルベールを大樹、あるいは止まり木……もしくは港。そういう風にしか見ておらぬ証じゃよ」
ヤレヤレと首を振ってから、ダライヤは香草茶で口を湿らせる。
「ま、それも致し方のない話じゃろうが。アルベールはホンモノの英傑じゃよ。女として生まれていたら、この大陸を統一していたかもしれん。そんな偉大な人間が傍にいれば、感覚が狂うのも当然のこと。……しかし、じゃ。ヒトは所詮ヒト。杖のように扱っておったら、いずれは折れてしまう。実際、いまのアルベールはひどくくたびれておる訳じゃしのぅ……」
「……確かに、お前の言う通りかもしれん」
私とカステヘルミが黙り込む中、ソニアが小さな声でそう言った。我々は思わず彼女の方を見るが、ソニアはただじっとダライヤの方を見つめ続けている。
「認めよう。確かに、今のわたしはアル様の港にはふさわしくない。で、だ……ここまで言ったからには、貴様にはアル様の止まり木になる自信があるということだろうな?」
「無論じゃ」
ニヤと笑って、ダライヤは立ち上がった。そしてそのひどく薄い胸をドンと叩く。
「伊達や酔狂で年を食っているわけではない。過去、英傑と呼んで良い人間とともに時を過ごした経験も幾度となくある。さらに言えば、オヌシらと違いワシは過去の人間じゃ。あとは余生をどう消化すればよいか考えるだけの立場……! つまり、余計なことを考える必要もなく、アルベールの未来を慮ってやることができる」
「ほう? アル様の奥方にでもなる気か」
「その通りじゃよ。ただでさえ、あの男は既に多くのモノを抱えておる。これに加えてさらに奥方役……つまり止まり木としての役割まで求めるのは、無体が過ぎる。女の側が奥方になるべきなのじゃよ、あ奴の場合は」
「一理ある……」
ソニアはボソリと呟いて、何かを考えこみ始めた。思ってもみない言動に、私は思わず彼女の肩を叩いた。一番強硬に反対しそうなヤツが、イの一番に態度を軟化させてしまったのだ。これは異常事態である。
「ソニア、お前……」
「テストをしてみよう」
私と母親を交互に見ながら、ソニアは言った。その声には決意が満ちていた。
「アデライド、それに母上。私としては、コイツの言う事にも確かに理があるように思える。問題は、この婆に奥方役が務まるのかというその一点。ならば、今日一日ダライヤにアル様を任せてみるのはどうだろうか? その結果いかんで、今後の道筋を考え直してみるというのも……悪くないかもしれない」
私とカステヘルミは顔を見合わせた。なんとも辛そうな顔で悩んでから、カステヘルミはため息をつく。そして、静かに頷いてしまった。……ああもう、こうなってしまったら仕方ないか。私が反対票を投じても、一対二では分が悪い。私は不承不承、ソニアの案を認めることにした……。




