【A視点】やさしく触れていいですか◆
・sideA
いろいろあって、合意の上で事を始めることとなった。
練習とはいえ、明確に欲求をさらけ出した状態で密着する。
いつものように慈しむ触れ合いよりも深く、相手を悦ばせる目的で。
「使っていいよ」
手順が表示されている、彼女のスマートフォンを受け取る。
カバーはステッカーやシールで装飾されており、今どきの若者らしさを感じさせた。
いきなり神経が集中している部位に触れるのは、絶対にNGです。
気持ちが昂ぶらなければ応じられないので、まずはリラックスさせましょう。
そう書いてあった。
恥ずかしい、よりも。
しくじらないか、という不安の汗が手ににじんでいく。
背後のストーブの熱気がじりじりと、背中から臓腑を灼いていく焦燥感が広がっていく。早くしないかと。
まずはリラックス。通常であれば難なく呑み込める一文が、今は目を滑っていく。
すでに落ち着きがなくなりつつある自分が、どうしてサービス精神を発揮できようか。
ただ触っていればいい側ではなく、与えなければならない側。
今から余裕をなくしていては、彼女も信じて身を委ねられないであろうに。
「固いぞー」
私の緊張を察したのか、彼女が身を乗り出し顔を寄せてきた。
自信がない心境を気遣われていることに情けなさを覚える。
本来その役目は、己が果たすべき務めであろうに。
「だ、大丈夫だ。その通りにやってみる」
裏返りそうな声をなんとか押し留めて、スマートフォンを静かにテーブルへと置いたところで。
「リラックスしよっか」
彼女が突然覆いかぶさってきた。
頬に当たる厚手の生地と、温かく弾むような質感。
なのにずっしりと重みがあって。
「ちょっと。待て。これは」
胸元に顔が埋まっていることに気づいて、余計に集中どころではないと私は声を上げようとした。
意識しているからこそ、ふしだらに受け取ってしまう。
感触を。体温を。
「一回ダイブしているでしょ。ああでも君は覚えてないか」
いつの話だ、それは。しかも私から襲いかかったなどと。
あるはずの記憶を手繰り寄せる私に構わず。彼女はますます谷間を密着させるように、腕を強く絡ませてきた。
「よし、よし。焦らない」
心にすっと沁み込んでくるような、澄んだ声が耳を撫でていく。
不思議と。
その声に包まれていると、徐々に忙しない感情が静まっていく自分がいた。
そっと背中を行き交う手のひらも、穏やかなさざ波にたゆたっているかのようで。
「ほら息吸ってー、吐いてー、また吸ってー」
掛け声に合わせて、静かに呼吸を整えていく。
耳元に感じる鼓動と、ゆっくり上下する胸の隆起に重ねるように。
そうしている間にも絶えずたおやかな声は降り注いで、応援となって心に響いてくる。
「初めてだもんね。待ってるだけのあたしとは違う。そりゃプレッシャーも半端ないわ。すごくすごーく怖いと思う」
でも、と言葉を断ち切って、それからいっそう優しげな小声となって。
「触ってほしい人に、触られるのがいちばん嬉しいんだからね。そんだけ。他にはなにもいらない」
どんだけ時間かかってもいいから。最後にそう囁かれて、緩やかに腕がほどかれていく。
呆けた顔で遠くを見る私に、頬へと手が添えられた。
「落ち着いた?」
頷く。
「できそう?」
返事の代わりに、まっすぐに彼女を見据える。
「よし。こっちおいで」
誘われるがまま、今度はこちらから抱き寄せた。
平常心を取り戻したのは、励まされたからだけではない。
彼女の指は、かすかに震えていた。
顔に触れたことでやっと分かった。
初めてなのは向こうも一緒であろうに。
不安を抑えて、勇気づけてくれたことに胸が締め付けられる愛しさを感じていた。
分け与えてくれたのだから、それ以上の誠意を持って伝えよう。
絨毯の上だと足がしびれるので、一旦ベッドへと移動する。
そのままお互い腰を下ろして、向き合って、再び密着する。
まずは身を任せて、静かに心を解きほぐすこと。
大切な人と抱擁を交わすだけで、幸せは満ち溢れていくものだから。
手順と衝動に従って、体温を分け合っていく。
いちいちスマートフォンに目を落としていたら興が削がれるので、一応最初の部分だけは暗記しておいた。
次の段階に移るときに、また見に行けばいい。




