【A視点】引っ越しと温泉
・sideA
ようやく、彼女が新居に越してくる日が訪れた。
荷物の搬入は業者に頼む形で、私は主に荷造りと冷蔵庫の掃除を手伝っていた。
この中では、冷蔵庫は物が多いほど長丁場になる。
そういった手順に従って、引っ越しの1週間ほど前から在庫調整を進めてきた。
調味料・冷凍食品・野菜類・レトルト食品・飲料は残しておくものを厳選して、クーラーボックスに詰められるように。
そうして前日までに箱詰めが完了したので、空になった冷蔵庫のコンセントを抜いておく。
抜き忘れると、運送中に氷と霜が溶け出して他の荷物が濡れる恐れがあるからだ。
「しっかりしてるお友達が来てくれてよかったわぁ」
冷蔵庫に残った水気を拭き取る私に、同じく手伝いに訪れた彼女のお母さんがお褒めの言葉を掛けてくれた。
「でしょ? 手順や各種手続きも全部調べてくれてね」
「人の親切心に丸投げするんじゃありません」
自慢気にふんぞり返る娘に、洗濯機の水抜きをしていた彼女のお父さんが呆れたように言う。
「…………」
蒸発皿に溜まった水を捨てて、振り返りざまに視線を投げる。
「……?」
ガス会社と電話中の彼女と目が合ってしまい、なんでもないと手を振る。
先ほどから、私は訝しまれない程度に彼女のご両親を観察していた。
あれほどの美形の生みの親はどれほどのお方なのか、好奇心があったからだ。
……が、意外なことに普通の方々であった。
目鼻立ちも、服装も、雰囲気も。
どこにでもいそうなごく平均的なサラリーマンと主婦といった印象で、彼女を形作る遺伝子の片鱗は目を凝らしても見つけられない。
隔世遺伝というものなのか、それとも時の流れで印象が落ち着いただけなのか。
自分の中で結論らしきものは出た。
これ以上じろじろ見るのも失礼に当たるので、私は掃除に集中することにした。
「本日はよろしくお願いいたします」
少し経って、引越し業者が到着した。
積み込みはお任せして、こちらは荷物がすべて搬入されているか、運び忘れがないかを最後に確認する。
彼女は狭くて家具の配置に苦労したと言っていたが、がらんどうになった空間を見ると案外分からないものである。
新居ではのびのびとくつろげることを願いたい。
ちなみに彼女は手土産とともに、大家さんに最後の挨拶に伺っていた。
「お休みでお疲れでしょうに。娘のために来てくれて本当にありがとうねえ」
「いえ、大丈夫です。娘さんとは同じ区域に住んでおりますので」
彼女のお母さんから綺麗にラッピングされた紙袋を手渡されて、恐る恐る受け取る。
「ともかく、今度の住まいはセキュリティも万全だそうでほっとしたよ」
彼女のお父さんは長く息を吐いて、旧居のアパートを見つめていた。
人当たりの良さそうな風貌ではあるが、声は一転して厳格さを感じる。
やはり、娘を持つ父親としてはストーカー被害は相当に堪えた案件だったのであろう。
身の安全のためなら、多少高くても惜しまないから防犯意識は強く持ちなさい。
彼女からはそう延々とお叱りを受けたと、苦笑い混じりに聞かされた。
「ええと、君」
呼び止められて、思わず肩が上がってしまう。
会社では高い役職についているのだろうか。特有の緊張感に包まれる声色だ。
「お友達である君に、こういったことをお願いするのは荷が重いかもしれないが……」
君みたいな頼もしい子が、近くに住んでいるということで安心した。
聞いたところ、娘が被害にあったときも傍で支えてくれたそうだね。娘は良い友達を持ったものだ。
だから、たまにでいいので娘のことをよろしく頼む。と。
子供の友人に身の安全を頼み込んでいるということに引け目を感じているのか、彼女のお父さんからは申し訳無さそうな雰囲気が漂っている。
一人で送り出す不安を拭い去って、遠くから見守る覚悟を決めているのか。
愛情の深さがにじみ出ている親の顔だ。
「お任せください」
私は深々と頭を下げた。
ここまで信頼されているのだから、その期待を裏切ってはならない。
いずれは義父となるお方だ。
固い握手を交わして、それから紙のようなものが手元に残された。
母親がよくやる手法なので、既視感がある。
「あ、あの、さすがにこれは」
私は即座に謙遜した。これは、受け取れない。
封筒の中身は厚い。それなりの量の千円札が詰め込まれていた。
確かに引っ越しの手伝いをしてくれた人へのお礼は現金が無難と聞いてはいるが、人の親から施しを受けるわけには。
「いいんだよ。今日のお礼だ。娘と美味しいご飯を食べてきなさい」
とても晴れやかな笑顔で、お父さんはぐっと親指を突き出した。
私でこれなのだから、ひょっとすると彼女は普段から結構なお小遣いをもらっているのではなかろうか。
「わーい父さん太っ腹ー」
何か口を開く前に、挨拶が終わった彼女が目ざとく見つけてこちらへと走ってきた。
おろおろする私から封筒をかっさらい、久々の外食だーと彼女は子供のようにはしゃいでいる。
「余ったらきっちり分け合うんだよ」
奥さんと並んで微笑ましそうに笑い合っている姿を見て、余裕があるなと私は思った。何というか、全体的に。
これが金持ち喧嘩せずといった光景であろうか。
その後はご両親の車に乗せていただき、新居へと移動する。
「助手席いく?」
「後ろでいい」
「芳香剤とか大丈夫? ほら他人の車に乗ると匂いとか気になる人いるし」
「平気」
「なんかCDかける?」
「好きな選曲でいいよ」
「エチケこっちね。あと窓も好きに開けていいから」
「……お気遣いはありがたいが、私は車酔いには強いほうだよ」
バスと船を除けば、乗り物酔いをした記憶はない。
「前にここまで言ったのに、見事に間に合わずリバースした奴がいてね。だから乗車前にタピオカティーとか飲むなっつったのに」
「……同情する」
新居に到着した際には、すでに業者のトラックも見えていた。
家具の配置の指示、荷解き、ガスの立ち会い、電気・水道業者への連絡を手分けして済ませていく。
あらかた終わる頃には、すでに2時間ほど経過していた。
「お疲れさまです」
精算が終わって、付き添いいただいた彼女のご両親は帰り支度を始めた。
帰り際に希望するお店(徒歩で帰れる範囲)まで送ってくれるというので、彼女がおすすめの店がないかと私に聞いてきた。
「悪い、普段外食はあまり行かないんだ」
なので彼女の希望に従うと言うと、少し首をかしげた後に。
「じゃ、温泉とかどうよ。普段高くて滅多に行けないし。食事も兼ねて」
「あら、いいじゃない。リフレッシュしてきたら」
「温泉となると……ああ、駅近くのこことかいいね。天然温泉だそうだ」
地図アプリで近辺の温泉を探していた彼女のお父さんが、良さげな場所を引き当てて私達に見せてくれた。
きゃっきゃと口コミやサービス内容を見て、彼女のご家族は盛り上がっていく。
ほぼ、ここで決まりしかないという雰囲気であった。
……どうしよう。
一方、私は温泉という提案にあまり乗り気になれずにいた。
生理中とかではなく、個人的な感情の問題にある。
恋人の前で、裸になる。
いくら温泉とはいえ、意識しないわけはない。
そのことに、彼女は何とも思っていないのだろうか。
流れには逆らえず、私達はひとつの温泉施設の前で降ろされた。
心の準備も出来ぬまま。




