【A視点】間一髪
・SideA
「すみません。お借りします」
快く厠をお貸しいただいた委員長の祖父母に頭を下げて、私は屋敷から離れの場所へといた。
洗った手を拭いていると、胸ポケットに入れたスマートフォンが震えだした。
LINEの着信音だ。通話とは珍しい。
一体誰からの用だと手に取って、私は画面に映し出された名前に目を丸くした。
『いきなりでごめん』
男子の声だ。委員長の家まで移動する間、わずかではあったが会話を交わした人の。
「何かあったのか?」
個別LINEではなく、電話ということはよっぽどの要件なのだろう。
平静を努めて尋ねると。
『すぐ帰ってこい。女子どもがやばい』
「……どういうことだ?」
『酔って暴れてんだよ。あんたの女が絡まれてる』
「な」
男子は一方的に報告すると、電話を切った。
表現に引っかかるところがあったが、何かまずいことが起きているのは事実だ。
すっ飛んでいきたかったが、人様の家で走るわけにはいかない。
私はなるべく速歩きで座敷へと向かった。
「おう」
途中の洗面台で、電話をくれた男子と鉢合わせする。
彼は手にバケツを持っていた。
「棚の下から借りた。無断で持ってったからあとで謝っとく」
そのままバケツに水を溜めていく男子が気になって、まさかと私は口を挟んだ。
「待て。人の家だぞ。辺りを水浸しにする気か」
「今んなこと気にしてる場合ちゃうだろ。触って止めてセクハラ言われたらたまったもんじゃねーし、だいいち傷がついたら面倒だわ」
むしろ、今ハラスメントがどうこうを気にしている場合なのだろうか。
しかし、下手に男性が女性に接触できない風潮なのも事実。
保身と思われようが過敏になるのもやむを得ないのか。
「分かった。掃除は手伝う」
「構わず先いけ」
男子は前の和室から、私は女子が集っている座敷に続く障子に手をかける。
「何をしている」
開けた瞬間、彼女を取り押さえている幹事の姿が目に入った。
一気に頭に血がのぼっていくのが分かった。
「ぎゃっ」
渾身の力で幹事を引き剥がす。
青ざめている彼女を即座に背後へと誘導させた。背中の服がきつく握られる感触があった。
幹事はそのまま畳へと尻餅をつく。
立とうとしても酔いが回りすぎているのか、あーうーと唸りながら崩れ落ちた身体をゆするだけだ。
同時に座敷に踏み込んだ男子が、バケツを振りかざした。
絡み合っていた委員長とUに、水が勢いよく降りかかる。
「目ぇ覚ませ。アル中予備軍どもが」
一瞬にしてずぶ濡れになった二人が、文字通り冷や水を浴びせられた顔で何度かまばたきをくり返す。
「わ、なんで、」
「やだ、つめた、え、ええっ」
一気に酔いが醒めたのか、二人はいきなり信じらんなーいと揃ってぐずり出した。
「これに懲りたら、セクハラするまで飲むんじゃねえよ」
男子は詫びるように頭を下げると、掃除してくるわとだけ残して踵を返した。
嵐の過ぎ去った場には、濡れ鼠のまま抱き合って泣きつく女子たちと、ダイイングメッセージ中のようなポーズで畳に伏せる女子と、どこ吹く風で深い眠りについている男女が取り残される。
「もう大丈夫だから」
ただ強く服を握るだけで、一向に応答がない背後の彼女に声をかけると。
「…………」
脂汗をだらだらと流して、深呼吸を繰り返している。
顔は真っ青を通り越して真っ白であった。つまり血の気がない。
口元に手も押さえ始めた。あ、これはまずい。
「ちょっと待ってくれ」
男子を急いで呼び止め、バケツを貸してもらう。
それから彼女の肩を支えて、廊下まで一緒に移動した。
しばらく付き添いつつ、背中をさすり続けて10分ほど経過しただろうか。
「……せーふ」
額に浮いた汗をぬぐって、彼女が大きく息を吐いた。
まだ顔色は悪いままであったが、会話もままならない状態からは回復している。
吐き気はひとまず去ったということか。
無理やり飲酒を強要されたのかと心配になったが、聞くとどうやらそういったわけではないらしい。
「ちょっと、豹変しすぎた姿に吐き気をもよおしただけなんで」
なんもされてないからー、と付け加えられたことに少しだけほっとする。
どんな酷い酒乱が繰り広げられていたのだろうか。
「……すまない」
後悔の念を込めて、私は頭を下げた。
甘かった。
部屋を後にする直前、酔った委員長は彼女へ絡んでいた。
だが日々のストレスを溜め込んで泣きつく、といった行動パターンは珍しくないため、この程度の絡みであれば大丈夫であろうと見誤っていたのだ。
酩酊期に差し掛かっていたのだから、あの時点でお酒を取り上げるべきであったのに。
よくあることだから。同性だから。
そうした油断が、今回の騒動を招いてしまった。
「あんたが気に病むことじゃないよ」
あたしも思い返せば無神経な発言しちゃったしねー、と彼女が苦笑いを浮かべた。
「彼氏が欲しくて頑張ってる人に”社会に出てからのほうがいい出会いあるよ”って。
これ完全なウエメセ。相手がいる側からの余裕に取られてもおかしくない。向こうは今素敵な恋がしたいから焦ってるのにね」
「だからって、絡み酒を正当化していいことにはならない。今回のことは、悪いが少々きつく注意しておくよ」
未遂に終わったからまだ良かったものの、酒の席でまたくり返さないとは限らないからだ。
「うん。そうだね」
うなずいて、頬にそっと手が添えられる。
「ごめんね。心配掛けて」
小声でかけられた言葉に、私は今すぐにでも抱き寄せたい衝動を必死に抑えた。




