【A視点】4周年記念ss
・SideA
※時系列:『末永く幸多からんことを』より2ヶ月前
監獄と書いて警察学校と読みたい機関からの出所、もとい卒業まで半月を切った日のこと。
夕食中、環境音として聞き流していた会話に興味が向く台詞が上がった。
「あー卒業したくねぇ」
「は? あんたマゾなの?」
「ううん、ひよこ。やるべきことはやってるのに自分が警官になるビジョンがいまだ見えない。心構えだけぜんぜん育ってないの」
「就活終えたのに就職したくない奴みたいなこと言ってんな」
主菜の唐揚げに定めていた箸は隣の薄切りトマトへ伸びる。
自分はまだ、孵ってすらいない卵だろう。変化を受け入れるのは、誰だって抵抗したくなるし不安に駆られるものだ。
今でも教練はつらいし、規律は窮屈だし、教官は怖い。
汗と涙と血反吐の苦汁を飲まされる日々から解放されたいとはやる以上に、現場実習の未来を想像すると胃痛が走る。
令和らしく職場環境は見直されてきているのに、不安遺伝子保有率世界一の日本人である己の内臓は労われそうにない。
地域課に配属されるときはのたうち回っていそうだ。
生きていれば仕事だけではなく、あらゆるものが心身の負担となる。
生き残る術は個人の能力以上に、心の持ちようなのかもしれない。
「ごちそうさま」
空になった食器を下げるため、席を立つ。
卒業しても続く仲なのだからもう少し会話に加わるべきなのだろうが、今日だけは優先順位を許してほしかった。
「あれ、もう風呂?」
「いや、公衆電話。集中する前に急ぎたいなと」
「ああ、ほんとマメね」
呼び止めた女子は口笛でも吹きそうに唇を突き出していた。
この方もよく電話に並ぶので、互いにある程度の事情は知っている。
低く抑揚に乏しい普段の声が、吹き替えと聞き違えるほどの高い音域に切り替わるため鈍い自分でも察せた。
進路は花嫁か声優の二択で迷っていたらしい。警察はどこから来た。
食堂を後にし、女子寮の奥へ歩く。
食休みを無視した速度に、絶賛消化中の胃が抗議してきたが構わず歩を進めた。
電話は1台しかないため、寮生が列をなして時間内に順番が回ってこないなどという失態を起こすわけにはいかなかった。
どの記念日よりも特別な今日の予定表には当然、去年まで当たり前のように組み込まれていた彼女との逢瀬は叶わない。
許されているふれあいは、声を交わすことだけだ。
酷使に痛む脇腹を代償に、なんとか無人の公衆電話にたどり着いた。
患部をさすりつつ、自分の携帯番号より先に覚えた数字を押していく。
『おつおめ。変わらずやれてるよ』
「こっちも。再来週辺りにようやく出られるから、以降はもう少し自由が増える」
自由とは言ったが、ここに入校して以降恋人と顔を合わせたのは一度きりだ。
卒業後も覚えることは山ほどあるため、会えるのは当分先となってしまう。
半同棲状態だった大学時代から、七夕に毛が生えた程度の逢瀬になってしまったことに申し訳無さが募る。
『ちなみにあたしは今、お祝い感を出すためコンビニケーキ食ってる。君の写真を添えて』
「故人みたいだな……」
『生身と食卓が囲めないんだからしゃーないじゃん。普段は玄関に飾って毎日お祈りしてるよ。十五夜はススキと並べて祀るからね』
「畳み掛けてこないでください」
あとでケーキと並べた写真を送ると言われ、ますます供物感の増した扱いに喉のひくつきを必死で抑え込む。
4年目となればさすがに余裕らしき安心感が湧いてくるもので、会話の流れもいつもの状況報告と軽い雑談に落ち着く。
所要時間はひとり5分以内と決まっているため、積もり積もった話も一部しか発信できないもどかしさがある。
『なんか愚痴とかある?』
「いや、今日の雰囲気的に振るのは……」
楽しい話題や口説き文句を気軽に捻り出せない己の口は、彼女に受け答えするだけの無難な役割に成り下がってしまっていた。
面接で自己PRを絞り出していた頃から何一つ進歩がない。
限られた時間の中で相手に過不足なく伝える高度な話術というのは、どうしたら身につくのだろうか。
『べつにめでたい日だからって会話の引き出し固定してるわけじゃないし。君から聞いたことなかったからさ、我慢してるんじゃないかって』
ようは頼られたいだけと彼女が促してきた。
他の話題を提供できる時間的余裕も精神的機転もなく、お言葉に甘えることにする。
「……包み隠さず言うなら、常に不安なんだ」
『ほう』
「この仕事でやっていけるのだろうかって、やらなければならないのにいつも付き纏っている」
自分で決めていた道なのに。
狭き門を死ぬほど努力して潜り抜けたのに。
過酷な日々を耐え抜いてやっと慣れてきたと思ったのに。
後ろ向きな考えはどこからともなく生まれ、心に沈んで重みを伝えてくる。
彼女みたいな人間強度が桁違いの方々はどうやって乗り越えているのか、半ば縋るように吐き出すと。
『へっ』
「へ?」
『ああごめん、なんか懐かしくなって』
気の抜けた笑声に緊張感が霧散する。あの内容のどこが笑いのツボと郷愁を刺激したのだろう。
『や、付き合いたての頃同じこと言ってたなーって』
「そ……その節は自信がないという言い訳で面倒に思わせて申し訳なかった」
『大抵の人は不安定になるもんじゃない? あんまりチャラすぎたり冷めてたりしてもうーんだし。あんたは見ていて飽きない』
「あ、ありがとう……同じ感想をそのまま返す」
こんな顔のどこが、と反発しかけて別の言葉に置き換えられただけ恋人の自覚がついてきたと思いたい。
声に出さないと自制しているだけで、正直今でも恐れ多い。
距離が近づいてからいっそう、彼女の美しさは外見からも内面からもあふれて止まらなくて、その輝きに身も心も灼かれ続けている。
彼女との出会いは人生に影響を与えたとか、そういった規模の劇的な変化であると断言できるものだから。
『君ならこの先も大丈夫だよって。あたしは月並みな言葉を送っとく』
「こ、心強い応援を頂いているところは分かるんだが、もう少し噛み砕いた説明をいただいてもいいでしょうか……」
己の理解力が足りておらず、せっかく励ましてくれているのに自信に結びついてくれない。
感謝の言葉で気軽に流せない面倒さに、面倒そうな態度を一切出さず彼女は補足してくれた。
『なにが大丈夫かざっくり言うと、そういうとこ』
「はい?」
『んっとね、よっぽどその人が繊細か法に反した激ヤバ案件じゃなけりゃ、人って案外慣れちゃうもんなんよ』
彼女の言う“慣れる”とは、適応力に上書きされて馴染んでいく感覚らしい。
多くの人間に身についている、いまさら口にするまでもない理屈をすんなり飲み込めないあたり、自分はよっぽどの側なのかもしれない。
『あたしの場合はのらりくらり生きてて、興味が薄いからなんとなくで溶け込んでただけなんよ』
「それはそれで柔軟性があるということだし、羨ましいが……」
恵まれた容姿ゆえに余計な火種を持ち込まぬよう回避していた立ち位置は後々知るが、当時から会話の温度や空気で察せるところはあった。
誰とでも仲良くできて、会話の引き出しが豊富で、けれど特定のグループには属さない。
雲のように自由で掴みどころがない方であったから、自分と仲良くしてくれるのは気まぐれに過ぎないと勝手に壁を張っていた。
『だから、あたしの本質はてきとー人間で飽きっぽいってだけ。けど、あんたは違う。なんにでも真面目だから気を抜かないし、投げ出さない。責任感が強いからこその悩みなんだよ』
「そう解釈すると……少し楽になった気がする。けど」
『けど?』
「だからこそ……慣れた、とはずっと言い切れないのかもしれない」
慣れること。自然に受け止めること。
けれど当たり前というのは無いのではないか。と私は思う。
彼女と今日を無事に迎えられたことも、警察官という夢を叶えたことも、それが来年も再来年も続く保証はない。
それまで当たり前だと思っていたものが、突然引き裂かれた人だって珍しくないのだから。
自分のなかで長らくぼんやりしていた考えが収束していき、言語化されていく。
聞いてもらって楽になるだけでは駄目だ。自分に向き合って自分なりの答えを見つけないと、なにも進まない。
「理由を述べると、人も世界も自分さえもどう変化していくかは分かるはずがなく、すべてに終わりがある……というのが価値観のひとつで」
『うん』
怖い仮定ばかり考えていてもきりがないから、だから。
「だから……人生のすべてが奇跡の連続であって……そう、噛み締めて大事にしていくってことが……乗り越える答えなのかなと」
そうして、受け入れたものを守り続ける。
私の回りくどく長ったらしい自分語りに、彼女は『子どもの成長を見守っている気分っすなあ』と軽妙に返してくれた。
『付き合うことがゴールだと思ってる人って多いしさ、その先も大事にできるってすごいことなんだよ。君が教えてくれたんだけどね』
「どういうことだ?」
『不思議だよね、特定の誰かに入れ込むことなんてないと思ってたのに高校からずっっと続いている人がいるってさ』
「それは……同感」
直球で惚気られたことにより変な声が出そうになった。
明後日の方向を向いて、距離を取って並んでくれている寮生の存在に脳内で手を合わせる。
『へらへら振る舞ってるように見えるけどさ、あたしだって未だ慣れないんだよ。ずっとどきどきしてるし、君のこと考えなかった日ないしさ。一生治りそうにないんだけどどうしてくれんの』
「待て待ってください情緒の処理が」
止まらない蛇口のように、想いの丈が次々と放たれて身体に火をつける。
こうして切羽詰まった調子を示す様は出発前の夜以来だった。
涙をにじませてしがみついてきた、張り裂けそうなものを懸命に堪えている表情。
思い出さなくていい光景や感触まで戻りかけて振り払う。
虚空に腕を振り回す女を、背後の寮生たちはさぞ不審な目で見ていることだろう。
『って責めてる口ぶりになっちまったけどさ、そういう意図じゃないっすよ。まじで』
「待たせてしまっているのは事実だし、不満は存分にぶつけて構わない」
自分にできるのはこうして重なる時間を作ることと、受け止めることなのだから。
『寂しいよりも楽しみって気持ちのほうが大きいんだ、今は。制約がある現状だから特別感的なのが増して、エモさに浸れるの悪くないなって』
「私は……だめだ、どんどん会いたくなってくる」
『そこで重ならず撃ち抜こうとしてくるの、好き』
狙ったつもりはないのだが、はっきり言語化されたことで逆に貫かれた。
顔に血液が過集中するのを止められず、口角は気色悪い角度に吊り上がったまま。
本職のくせして通報されかねない顔つきになっていそうなので、連行される容疑者みたいに顔を覆って帰ることを誓った。
不審者度はどのみち下がらないのが悲しい。
いったいこちらの耐性はいつになれば身についてくるのやら。
「改めて……今年も、ありがとう」
『うむ、こちらこそ』
「整理がついたから、がんばれそうだよ」
『答えが出たのでしたら何よりですな』
正月の挨拶みたいな締めの言葉を交わす。
いろいろ遠回りしたけど、伝えたいことを集約するとたった一言になるわけだ。
これまでの感謝と、それを忘れず大切にしていく決意をこめて。
『土曜日はビデオ通話で会おうなー』
「ああ、また」
次の約束を立てて、受話器を置いた。
まだ顔の熱と表情筋は一定値から下がりそうになかったので、俯きながら次の人にそそくさと声をかける。
離れていれば冷めてしまう関係が多い中、この痒く甘い火はずっと胸の奥に燻っている。
出会った当初からそうだった。口下手のくせして寂しがり屋だった自分は、人と話したあとはいつも精神が削られる疲弊感を覚えていた。
なのに彼女との場合はいつも、運動後みたいな心地いい汗を流したあとの気分だったのを思い出す。
苦にならない温度感だったから関係を続けてこられたのだろうし、意識する前から灯されたものだったのかもしれない。
彼女も、今頃同じ熱さを感じているのだろうか。
思考の容量を己が占めていると知ったことに、熱く瑞々しい衝動が胸に弾けていく。優越感に心が疼き立っているのだろう。
今年は電話口でのお祝いではあったが、ゆえにこういった小さな幸せを実感できるのも悪くはない。
このひとときも奇跡のひとかけらなのだと胸にしまい込んで、明日への活力につなげていこう。
恋人に温められた熱が冷めないうちに、私は風呂場へと向かった。