【B視点】奴がついてきた
……なんで? いつから尾けられてた? だいぶ寄り道したはずなのに、どこで?
脳内に疑問符がわらわらと埋め尽くされていく。
ばか、落ち着け。ここで混乱したらヤツの思うツボだ。
とりあえず眠ったふりをする。
数秒たりともラレ元にリスペクトのないパクリ先を見ていたくない。目の毒だ。
汗ばみ始めた手を握りしめて、まずは思考を整理する。
たまたま一緒の電車だった、これはありえない。
あの客が退店した時間を考えれば、ゆうに1時間は経過している。そもそもそれまで見かけたことなかったし。
次に、ターゲットの目の届く位置にいるのもありえない。人の多い時間帯なんだからもっとこそこそ隠れることはできたはず。
お店からずっとあたしの後を尾けてきた。多分……これもありえない。
出待ちなら他の従業員が目を光らせてるし、帰宅ラン中のあたしの後を見失わず追うことも難しいだろう。けっこう長く走ってたし。
と、いうことは。
あたしがどこの駅で降りるかは、多分、とっくに特定されている。
希望的観測にしても……駅だけしかバレていない、ってことはないと思う。
職場と家の距離が近いとこういうとき怖いから、わざわざちょっと遠いとこにしたのになあ。
前の辞めていった子も最後は逃げるように実家に戻っていったから、前科持ちの可能性は高い。
上等だ。
本当は今すぐにでも車両を移動したかったけど、動揺を悟られれば余計に付け上がるだけだ。
仕方ない。着いたら一旦降りて人混みに紛れて、別の車両にさり気なく逃げ込もう。
「ねえ」
「っ」
ちょっと。なんで来るんだよ。どっと冷や汗が流れていく。
「聞こえてないの、もう。起きてんのは分かってんだからね」
うっすら目を開けると、ああ、見たくもない。視界に入れたくない存在がすぐ目の前まで来ていた。
やっぱ仕掛けに来たか。呆れるほどの行動の速さには笑いしか出ない。
「ちょっと、サトウさん。ねえ」
サトウ、というのは店の通名だ。今の御時世、本名のネームプレートなんか付けてたら何お漏らしするかわかんないからね。
あたしは寝たフリを続けた。こんなとき、下手に反応して応戦するのはよくない。
周囲に『この子絡まれてるけど大丈夫?』という共通認識を確立させることが大事なのだ。
「……何してんだい、あんた」
見かねた隣に座るサラリーマンが、その客とあたしを遮るように声を割り込ませた。第三者の介入により、またたく間に周囲が好機の視線に変わっていく。
「何もしてないわよ。この子次の駅で降りるのに寝てるんだもの。だから声かけたのに、寝たフリしてるのよ」
奴はもっともらしい理屈を述べた。
サラリーマンは一瞬納得したようだったけど、ん? と疑問の声を漏らす。
なんで、こんなおばさんが年の離れた子の最寄り駅を知ってるんだ? 話を聞いてれば引っかかる部分だろう。
「その、失礼ですがお二人はどういったご関係で?」
とまあ、そう聞きたくもなるよね。周りもそうだそうだと、耳を澄ませてる気がする。閉じたまんまだから分からんけど。
ごめんね、名前も知らないおじさん。見ず知らずの女に関わるとか社会的地位が脅かされる事態に巻き込んでしまって。
万が一このアマが被害者ぶったら全力で庇うからね。
「ただのご近所よ。……もういいでしょう? 無視されてるのはアタシなのに責めるっていうの」
ご近所同士が電車でたまたま鉢合わせるとかレアケースじゃない?
つかガン無視決め込まれてたら嫌われてるってわかんない?
嘘の設定に苦しくなったのか、『ほらサトウさんってば』と客はあたしの肩を掴んできた。
……さわんなよ。気安く。あいつ以外の人間が。
不快さに耐えきれなくなって、あたしはとうとう目を開けた。
「…………」
うわ、思った以上にみんなめっちゃこっち見てる。撮影現場に居合わせたエキストラみたいだ。
とりあえず、あたしは困ったような苦々しい表情を浮かべた。あたし絡まれてます、そんな雰囲気を醸し出すように。
「……その、この人が言ってることは本当なのかい?」
あ、これこっち側につけばいいパターンなんだな。
サラリーマンはそう確信したっぽくて、あたしに多分違うよね? と言いたげな声調で聞いてきた。
客はあたしに牽制をかけるためになんか言おうと息を吸ったけど、あたしはその前に畳み掛けた。
はっきりと通る声で言い放つ。
「いいえ。そもそもあたし、この方の名前は一切存じ上げません。疑うようでしたら大家さんに確認を取らせましょうか。近所の方だそうですし」
客は声を詰まらせた。
あたしのアパートの大家さんは長年ここに住んでいるから、情報通と言っていいくらい近隣住民との密着は強い。
周辺は子育てが終わった世帯ばかりが立ち並ぶ昔ながらの住宅街が拍車をかけている。地域のネットワークを舐めないでほしい。
「すみません。巻き込んでしまいまして。助けていただきありがとうございました」
あたしは心からのお礼を言った。いいえ、とリーマンのおっさんはほっと胸を撫で下ろしている。
もし勘違いからの暴走だったら生きた心地しなかったろうしね。
なんだやっぱりこのおばさんが頭おかしいだけか。
と野次馬も事実を周知したことにより、客を敵視する目つきへと変わっていく。
共通の敵が分かると、個となった人間は強くなるのだ。
「な、何よ」
客の顔が面白いほどに引きつった。居心地の悪い空気に押され、どんどん声がしぼんでいく。四面楚歌の状況だった。
『ご乗車、ありがとうございまーす。お忘れ物にご注意くださーい』
ちょうど電車が止まって、ドアが開いた。あたしが降りる駅だ。
で、この客が降りる設定となった駅でもある。
「…………」
ここで降りなきゃ、この客はもう一つ嘘をついていたことになる。
まだ何か言いたげだったけど、奴はしぶしぶと下車していった。
あたしはまあ、ここでバカ正直に降りたらどう絡まれるかわからんし。何駅か乗り過ごすのが賢明だろう。そのまま座ってることにした。
ドアが閉まり、車内は再び沈黙に包まれる。あたしは無言でお辞儀をした。
それで周りには解決したと受け取ったのか、多くの目線はあたしから外れていった。
それから何駅か過ぎて、あたしは一度も降りたことがない駅に立った。
とりあえず、反対側のホームに回ろう。そんで戻ろう。
人の波が過ぎ去るのを待って、途切れてきたところで階段を降りだした。
「…………」
次の電車が来るまで15分待ちかあ。この時間じゃちょっと寒いけど。
へたり込むように、冷たいベンチへと腰掛ける。
ホームに静寂が訪れると、途端に寒気が襲ってきた。
あたしは膝に乗せたカバンに頭を埋めた。体の震えが止まらない。風邪引いたとかじゃない。久しく忘れていた、恐怖が這い上がってきたのだ。
今、自宅に戻るのは危険だろう。最寄り駅を知ってたんだ、待ち伏せされていてもおかしくはない。
あの客は恥をかかされ、あたしに対する恨みを募らせているはずだ。
頭の中でとんでもない極悪人に仕上がって、どんな罪を犯してもいいと思っているに違いない。ああいう輩は絶対に自分の非を認めようとしないから。
じゃあ、警察? 絡まれた確証もないのに?
話は聞いてもらえるだろうけど、交番は宿泊施設じゃない。自宅まで送ってもらってそのまま解散が関の山だ。
「…………」
なんで、こんなに恐いんだ。
高校生までは一人じゃなかった。帰るときもいつも誰かと一緒だった。家に帰れば優しい両親と美味しいご飯が待っていた。
親は特にあたしの身に関しては敏感だったから、バイト先は常に送り迎えをしてくれた。甘やかされてたとも言えるけど。
それが、今。もう大学生なんだし自活できるよと、一人暮らしを始めた矢先にこれだ。もちろん自衛していなかったわけじゃない。
でも、隣に誰かいない状況がこんなに恐いだなんて。
真っ暗な夜の闇が、電車の来ないホームが、田舎駅らしく見渡す限りの静かな町並みが、恐い。
あたしはおぼつかない手でスマホを取り出した。
震える手で、着信履歴から一人の番号を呼び出す。
第三者に、それも一番大切な人に縋り付くなんてタブー中のタブー。
でも今はそんな余裕もないほど、あたしは声が聞きたかった。安心が欲しかった。
『どうした?』
2コールもしないうちに、あいつの声が聞こえてきた。
それだけで、胸が締め付けられるような痛みが走った。喉が焼け付くように熱く、うまく言葉にならない。
震える声で、あたしはただ一言をつぶやいた。
「たすけて」