【A視点】お部屋探しに続く話
※時系列:馴れ初め編より後で来店編より前
・SideA
私のどこが好きなのか。
付き合いたての頃、面倒くさい恋人の典型的質問をぶつけてみたことがある。
ようは、自己を改めて肯定してもらうことで安心感を得たかったのだ。試し行動を繰り返す子供のように。
「背中」
彼女は真顔で即答した。
まさかの身体の一部が来た。
予想外の返答に対する言葉が見つからない私へ向けて、彼女が淡々と補足する。
「長所を長所だって思えていないみたいだし、目でわかる具体的なとこのほうがいいかと思って」
告白時にいくつか列挙されてもなお、真心を信じきれずにいる。
端的な指摘は鬱陶しそうな態度を示されるよりもずっと胸を打つものがあり、ごめんという言葉になって流れ落ちた。
軽々しく謝罪を口にすること自体が余計に気遣わせてしまうのに。
「いいって。好きな人からは何回でも褒められたいもんじゃん」
「……そ、そうすぐに的確な言葉が出てくるとこが、本当に尊敬する。よく相手を見ているなって。あの、お世辞ではなく今凄いと思ったから、で」
「もっと褒めたまえ」
偽りのない本音である、のに。
自分が口にすると陳腐な響きとなってしまい、言葉尻が自信なさげにかすれ出す。
普段から褒め慣れている者との差がこれなのか。
「いいとこにすぐ気付いて褒めてくれるのもいいとこですよ。褒めたくなるよね」
彼女が自慢げに腕を組む。
他人に鈍感な己にまで伝わるほど、彼女は魅力にあふれているから答えられただけだ。
釣り合っているのは年齢だけで、一生敵わない雲の上の存在。
嫉妬すらおこがましいと浄化された心には、もはや崇拝の念しか沸いてこない。
そんな方が、自分なんかを。
卑下する雑念がにじんできた私へと、彼女が意味ありげに両手を伸ばした。
「てわけでひっついてもいい? ボディタッチ苦手なら正直に言って」
「いたずらさえしなければ」
「よっしゃ」
拳を握った彼女が背後にまわり、両肩にしがみつくようにして抱きついてきた。
「そんじゃ甘えまーす」
人のぬくもりと柔らかさが沈み込んで、平常心が吸い取られていく。
彼女の頭が揺れる。頬ずりでもしているのか落ち着きのない感覚が伝わってきた。
こっちまで落ち着かない。口元が気色悪い弧を描き出す。
甘えられているのに甘えているような生温いむず痒さが湧いて、肉体をふやかしていった。
「よし、フル充電した」
堪能中らしき沈黙が数十秒ほど流れて、ゆっくりと預けられた重みが離れていった。
所要時間1分にも満たなかったと思うのだが、満足できているのだろうか。
あまり時間を取らせないように気遣ったのかもしれないが。
「今だから言えるけど、ずっと抱きついてみたかったんだよね」
「ごくありふれた背中だと思うが……」
「良さはあたしが分かってるからいーの」
ずっと見てたからかもしれんけどね。
含みを持たせてつぶやくと、彼女は空になったカップへとティーポットを傾けた。
訪問時には毎回菓子類の差し入れを持参してくるため、いつしか飲み物のレパートリーが増えて茶器を揃える程度にはこだわるようになっていた。
「いまハラスメント判定うっせえしさ、いくら親しい仲でも人に触るってやりづらいじゃん」
「そうかな……」
逆にこっちは男女関係なく仲良しなところばかり見てきたから、あれくらいの馴れ馴れしさが普通なのかと思っていた。
「片方が仲良しアピのつもりでも、もう一方が迷惑してる話珍しくないからさ。礼儀は大事ってことよ」
多くの人間と関わってきた人であれば、距離感に悩んだ時期もあるに決まっているか。とくに美しい人となれば。
ちなみに抱擁の経験は親からすらも朧げな記憶しか残っていない。
海外の挨拶みたいに気軽に交わす同級生を見て、己との距離に疎外感を覚えていた。
愛想も愛嬌も欠けていたくせに一方的に求めるなという話ではあるが。
「……好きであれば、これからも気が向いたら好きにしていい」
「まじ?」
「そういうことをするべき、関係、なのだし」
恋人、と口にするのは照れが引っかかって無難な言い回しになってしまった。
していい、って上からに取れる言い方もどうなのか。
もっと抱きしめられたい。甘えたいから抱きしめたい。今の立場であれば言ってしまえばいいのに。
言葉に自信が持てず、濁すような発信しかできない。
「背中好きの原点は親でさ」
うじうじ始まった反省会は、興味深い話題によって遮られた。
「父親のなんでも受け止めてくれた広い背中とか、母親のいろんなことから守ってくれた頼もしい背中とか。安心感あってよく引っ付いてたわけ。物心付く前から、しがみつくと寝てくれたって言ってたくらい」
「ああ……自分もそうだったかもしれないから、わかる」
子は親の背中を見て育つ、とは物理的な意味でもあながち間違っていないのではと思う。
絶対的な味方。全てを委ねられる安寧の存在。
生まれる前から刷り込まれてきた認識の通りにはいかない家庭もある中で、親への尊敬と愛情が素直に湧いているというのは恵まれていると言えるのだろう。
「でもさ。中学年くらいからなんか、そーゆーべたべたするのみっともないとかブレーキかけるようになっちゃってね。向こうからされても”子供扱いすんな”って反発心のほうが先に来てさ。嬉しいはずなのに」
「反抗期のひとつなのだろうか……」
「甘えられるうちに甘えといたほうがいいぜ、って下の世代に言ってやりたいわ。まあ、当人たちは背伸びして近づこうとしてるから聞きゃしないだろうがね。いま振り返れば10代なんてみんな子供だけど」
自虐的に彼女が言う。
このやりとりもきっと、歳を重ねれば青かったなと笑い飛ばせる思い出になっていくのだろう。
自分も通っている道だ。自立心が芽生えていくにつれて、感情をあらわにすることもよき大人にはふさわしくないと押し込めるようになる。
不用意には踏み込まず、踏み込ませない。精神年齢の高さを窺わせる社交性と、安定した温度の人間性。
それも、彼女からすればいくつかの自分の一人であったということか。
「…………」
「お?」
彼女の頭頂部へと、そっと手のひらを添えた。
いい親御さんだなとか、もっと甘えてほしいとか、好きなものを知れたから嬉しいとか。
言いたいことがどれもしっくり来なくて、代わりに頭を撫でる。
「……褒めていると、受け取って」
「ん」
やっと言語化した最低限の言葉に、最低限の返事をした彼女が目を閉じた。
安らかに寝入っているかのように見える、穏やかな表情。
ほのかに色づいていく頬と連動して、指先が熱をもつ。
気安く他人に触れることを許されている状況が、どれほど貴重で甘美なものか。
自覚して、本当に自分はこのひとの特別であるのだと上ずった気分が膨れていく。
言葉を、感情を、お互い素直に出せずにいる。
我慢していれば分かるはずもない。
けれど、簡単に自分を曲げられたら苦労はしない。
人間が社会的動物である以上、ありのままに生きることは難しいのだから。
そのちょうどいい着地点が、言葉にせずとも伝えられる好意なのかもしれない。
もっと正直になって触れ合おう。
なんて、到底素面で出せる言葉ではない。気軽に交わすほどの度胸も大胆さもまだ互いに足りていない。
なら、きっかけを作ってしまえばいい。
義務感が薄く、それほどハードルが高くないもの。
例えばそう、したいこととされたいことが一致している抱擁であればどうか。
さて、どういったタイミングで切り出すのがいいか。
新たな目標に想像を巡らせつつ、頭部から手を離す。
腰を上げて、今度は彼女の背後へと移動した。
「あんたも良さを味わいたくなった?」
「……思い出したから、恋しくなって」
「どーぞ、ごゆっくり」
言い出しっぺが行動に移すのであれば、まず慣れなくては。
忍び笑う彼女の背中に頬を寄せ、ゆっくりと両腕を回していく。
それから。
懐かしさに浸るよりも同学年の子に甘えている絵面の恥ずかしさが上回ってきたので切り上げようとした、のだが。
「…………あの、そろそろ」
「まだ甘えてほしいので強制延長でーす」
ほどこうにも、いつ絡めたのか彼女が回した腕をがっちり抑え込んでるので抜けられなかった。
笑っていたのはこれが目的だったらしい。今度された時に抑え返してやろうと思った。
ある意味、忍耐力の修行にはなったが。